裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

9日

火曜日

おろそかで生まれた女やさかい

 父ちゃんが避妊をおろそかにしたさかい、うちみたいな女が生まれたんや! 朝、7時半起床。好天で窓外が驚くほど明るい。朝食は昨日、スタジオで出たのを貰ってきたドーナツ。やたら甘かった。それと西武の二十世紀。K子に今日の晩ご飯はどうすると訊いたら、日本橋高島屋に二十世紀を買いに行くから、銀座近辺で食べようと いう。スケジュールが梨買いで決まる。

 産経新聞を読んでいたら、筑波大学名誉教授である村上和雄という人が、“西洋医学の限界打ち破る新しい波 「祈り」の治療効果に注目集まる”というコラムを『正論』欄に書いていた。この見出しを見て、信仰心を持つことで精神が安定し、免疫力が高まるなどの効果なら、前からわかっているのだがな、と思いつつ記事本文を読んだら、もちろんそのことも書かれているが、最近、米国の病院で、心臓病患者393人に対し、患者本人には知らせずに、他所からこれらの患者の快復を祈ってもらったところ、他人に祈られた患者は(祈られたことを知りもしないのに)、そうでない患者より人工呼吸器、抗生物質、透析などの使用が少ない事実がわかったということが 記事の中心だったのに驚いた。

 村上和雄という人はDNA鑑定の国際的権威だった人だが、その精細巧緻なシステムに感嘆するあまりに、これらを設計したサムシング・グレート(さすがに“神”とは言いきれなかったらしい)の存在を信ずるようになり、いろいろな宗教団体に招かれて講演を繰り返すなど、だいぶ科学の世界から遠ざかりつつあるような印象があった。そして、これ、である。
「これらの研究例は、いずれも統計学的な証明にすぎない。上記の実験法についても多くの批判がよせられ、最終結論にはまだ達していない」
 と本人も認めるようなデータを自説の補強に用いてしまうこと自体、科学者としてはもうこの人は現役ではない、ということだ。
「研究費援助の効果は大きく、祈りの効果を肯定する発表が相次いだ」
 という部分にひっかからないということは、エリートであった村上教授には研究費獲得のため(有意義な結果が出なければ援助などすぐ打ちきられてしまう)に苦労し た経験などおありにならないのだろう。幸福なことである。

 おまけに、祈りで人が治せるなら祈りで人も殺せるだろう、というようなツッコミを予想してか、どんどん科学とかけ離れた深みの方へとこの先生ははまっていってし まっている。
「しかし、祈りにも二通りあるのではないか。一つは、サムシング・グレートに対する感謝の祈りや、他人に対する愛や誠に満ちあふれたものである。他の一つは、自己中心的な、単なる金もうけの手段に使われるような祈りである。この区別を外から判断するのはなかなか難しい」
 ……難しいのはわれわれや村上教授にとってばかりでない、サムシング・グレートにとっても、そんな祈りの区分は根本的に不可能である。例えば金正日の側近たちが金総書記が病気になったとき、心からその平癒を祈ることが、正しいことなのか。彼が生き残ることで、途端の苦しみが長引く人々が、病気の重ることを祈ることは、不当なことなのか。自国の神様は自国にとってだけのもの、と割り切っていた昨日の日記の江戸庶民の方が、村上教授よりも信仰というものの本質を見切っていたのではな いか、と思えてならない。

 昼はゆうべK子に作った肉うどんの具の残りで、自分も同じものを食べる。ちくま書房から『トンデモ一行知識の世界』四刷分見本と、柳下毅一郎氏の『殺人マニア宣言』(原書房・刊『世界殺人ツアー』改題)が送られてくる。『殺人マニア宣言』、原著は読んでいるので文庫版あとがきに目を通す。
「社会学者として犯罪研究をいそしむのが悪いわけではない。それはもちろん大事なことだろう。だが、そうやって研究するときには、どうしても細かなデティールは捨象されてしまう。本当はそれこそがもっとも興味深い点なのに」
「けれど、どうしても理屈におさまらない細部こそが、本当はもっとも興味ぶかいのだ。その細部を捨てても自分の理論を優先しようと思ったとき、たぶんマニアは学者への階段を一歩上がるのだろう。でも、ぼくはそうなれそうもない」
 犯罪に限らず、全てのことに置き換えてもこれはいえることだろうと思う。この部分だけでもよく読んだ方がいい学者さんがたくさんいる。

 3時、フィギュア王『奇想怪想玩具企画』原稿書き出す。本当はもっと早く書き出さねばイカンのだが、昼食後、ネタ本を持ってベッドに横になったら、気絶するようにグーと寝入ってしまった。『創』S田さんからの電話で起こされ、急いで執筆。なんとか5時までに仕上げて送る。また、書影用図版もさっさとバイク便にて。

『念力家族』笹公人氏にメールで返事。笹氏が認める俳人というのが、和田誠、初期の角川春樹、そして私、だそうである(これには驚いた)。俳人と呼ばれたのは初めての経験である。私の俳句歴は『ガロ』の怪俳句と、それからレオ澤鬼氏らと一時期やっていた艶句会の艶句くらいだが、褒められるとまたぞろやってみたくなる。そう言えば、“探偵連句”というのをいつぞや、寝床の中で思いついたことがある。連句(五七五の句と七七の句の連続でつなげていく)で最終的に一編のミステリを作ってしまう、というお遊び。
・指紋ぬぐふ凶器に映ゆる暖炉の火
・ひそかに笑ふ剥製の鹿
・口止めの接吻にメイド息熱く
・二人で義母の亡骸を埋む
 ……短編一本くらいなら書けますな。

 ロフト斎藤さんから電話。ベギラマの家のFAXがなんべんやっても“応答なし”になってしまう、と言ったら、ちゃんと届いている由。こんな時代になっても、機械同士の相性みたいなものがある。7時半、家を出て銀座へ。K子は重そうに高島屋の梨の袋を下げていた。並木通りの方へアテもなく歩く。最初にぶつかったたん焼きと麦飯の店『ねぎたん』に入る。せまい店内がほぼ満席の状況。カウンターの隅っこに席を作ってもらう。生ビールとって、牛すじ煮込み、ゆでたん、しらすおろし、名古屋コーチン皮ぽん酢などを頼む。牛すじ煮込みは上品すぎて肉ばかりですじがない、という感じだったが、味付けなどはよし。名古屋コーチン皮ぽん酢が甘味があり、私好みである。ゆでたんは少し塩辛い。わさびで食べるのだが、このわさびがたっぷりついてきて、粉ワサビだからあざやかな黄緑色、一瞬抹茶アイスかと思った。あと、そば豆腐の冷や奴、豚バラ餅巻きなど。どれも、格別にこれはという味ではないが、まずまず、不満のない味と品揃え。銀座の店、という気取りのないのがよろしい。〆は当然麦とろで、これだけ二人で食べて酒もいろいろ飲んで、銀座で二人で一万いかなかったのが一番結構。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa