27日
日曜日
イーアイオーイーアイオーも好きのうち
いやよ一郎さん、こんな牧場で……! 朝、8時半起床。朝食、トウモロコシとクレソンのスチーム。クレソンの苦みが夏らしく強い。それとスイカ。コーヒーのマグカップが新しいものになっている。『妖女の奏でる夜想曲』の紅夫と、『私は貧しいニコヨンの』のケン子の顔がそれぞれ印刷されており、またK子が夏コミでの販売用にグッズで作ったものかと思ったら、フェリシモのポイント賞品らしい。自分の好きな写真を送ると、それをカップに印刷してくれるというやつで、まあ、普通はカップルがお互いの写真を入れ合ったりするのだろうが、そこにこういう図柄を頼むという 人もほとんどいるまい。
朝刊でジョン・シュレシンジャー監督、『南京大虐殺のまぼろし』の鈴木明氏の死去を知る。シュレシンジャーと言えばオクスフォード大出身のインテリ監督で、『真夜中のカーボーイ』『イナゴの日』『日曜日は別れの日』など、人間ドラマを、常に哀しみの目を持って描く人……とされているが、実はそれ以上に映画マニアで、映画大好き、といった子供っぽい感覚を多く有していた人ではなかったか。『真夜中のカーボーイ』の冒頭、セックスシーンでテレビのリモコンのスイッチが押され、いろんな番組が次々登場する(スカイドンが出てくるのが有名だがジャミラらしい足も一瞬出てくる。どちらも実相寺!)お遊びでもわかるし、『マラソンマン』でかのオリビエに演じさせた、映画史上に残る悪役“白い天使”ゼルの描写なども、彼が背負っているナチズムの烙印なんて深い設定を軽く飛び超え、個人的スーパー・ヴァリアントとしてのカッコよさを徹底して目立たせてしまった。テーマ好きストーリィ好きな、頭の固い映画ファンが怒る部分なのだが、私のような、ただ単にオモシロイもの好きな馬鹿にはたまらない、オシッコもらしそうになるほどのほれぼれとする大悪党ぶりで、監督の“映画好き”を再確認したことだった。そう言えば話題にもならない作品だったが、邪教集団から我が子を守るために戦う父親(マーチン・シーン)を描いた『サンタリア・魔界怨霊』という作品もあった。この作品の原題は、と学会ファンに はうれしい『ザ・ビリーバーズ』なのである。
一方の鈴木明氏は、訃報には『南京大虐殺のまぼろし』のことが大きく扱われていたが、個人的には『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』がベスト。万博会場で聴いたディートリッヒの『リリー・マルレーン』に魅せられ、その曲のルーツを訪ねてはるばる東西ヨーロッパを経巡り、ついにその作曲者ノベルト・シュルツェに邂逅するまでを描いた壮大な探訪の記。もともとは軽快なマーチ風の曲であったリリー・マルレーンは、アフリカ戦線で多くのドイツ軍兵士たちに愛唱され、その放送を傍受した連合軍兵士たちにも熱狂的に愛唱され、さらに連合軍の兵士たちを慰問したディートリッヒによって歌われ、次第に第二次大戦全体を象徴するような、重く、深い歌へと変化していった。その過程をたどる、時間と空間を隔てている空白をひとつひとつ埋めていく実証的かつ壮大な筆致は、読んだ当時、いろいろ事情があって精神的にやさぐれていた私に、ひさびさに“ロマン”という言葉を思い出させてくれた本だった。例の『南京大虐殺のまぼろし』で鈴木氏を“大東亜戦争肯定の右翼論者”などと表現する人々がいまだにいるが、彼がそんな単純な動機であの事件を調べ始めたわけでないことは、実際に彼の本を読めばよくわかる。そこにあるのは、とにかく 歴史の空白を埋めたいという、知的探求者の衝動なのである。
ようやく夏らしい陽射しが窓外に注ぎ、セミの鳴き声も復活。もっとも、まだ冷房を入れるほどではない。原稿を書いていたら肩がパンパンになり、風呂を使って少し横になっていたら、起きあがる体力もなくなってしまった。昼を食い損ね、3時頃にカップヌードル(シーフード)を一個、啜ったのみ。平口広美『愛のゆくえ』などを ぼんやりと読む。
5時、家を出て新宿へ。サウナ&マッサージ。ひさしぶりの怪力のお姉さん。アザになるかというくらいぎゅうぎゅうと指圧してくれて、気持ちよし。誰かに似ていると思ったが、こないだ新聞で見た米原万里さんにソックリなのであった。今日は外人客、多々。揉まれながら、翻訳企画をひとつ、まとめる。とりあえず部分訳を冬コミ で出して、企画書代わりにしてみるか。
そこから夕食で待ち合わせている伊勢丹へと歩く。途中の西口地下にてビデオの安売りがあったので、『メリーに首ったけ』『アイズ・ワイド・シャット』など6本ばかりまとめて買う。いずれも、こないだ中野貴雄の『国際シネマ獄門帖』を読んで、観たくなった(もしくは再見したくなった)もの。8時、伊勢丹の天麩羅屋でメシ。サウナの後なのでビールがうまい。メゴチ、アオリイカ、穴子など。大関冷酒二本。