12日
土曜日
3P両論
そんなにいいものなのか、よくないのか。朝、かなり快眠の後、7時30分起床。朝食、発芽玄米粥とスグキ。昨日の巨人・阪神戦、いや、ここまでわかりやすいものなのですかね、イキオイのあるチームとないチームの差というものは。巨人は大嫌いなチームなので非常にキモチいいのだが、しかし、これで阪神が常勝チームになって しまうのかと思うと、それもちょっとイヤだ。
朝刊には載っていなかったが、ネットで小松方正の死去を知る(夕刊にあり)。演技ばかりでなく顔も体も、存在すべてが名優の名に価した役者、とは思うが、訃報を聞いて真っ先に思い浮かんだのが『電撃! ストラダ5』の冒頭で殺されてしまう主人公の父親の刑事役だったというのはなんでか。あと、『美人はいかが?』のお父さんとか、ゲバゲバ90分で“タメゴローの次にうけた男”と言われた喜劇演技とか。『絞死刑』とかは誰かがもっとまっとうな映画関係のところで評価するからいいだろう。と、いうより、私はあの映画を前半のドタバタ不条理喜劇のところしか評価したくない(後半に例の“ヨカチンチン”があるけれど)ので、そこでは小松方正、ほとんどしゃべっていないのである。
「芸者の“芸”の字と人足の“人”の字、あわせて“芸人”である」(小松方正)
今日はずっと一日中、自分の日記を読んで過ごす。アスペクトからの日記本のチョイス作業である。構成のササキバラゴウ氏が、第一段階でチョイスした、いわば傑作選のようなもので、いずれもリキの入った記述の日が揃っており、最初はどこもカットするのがためらわれる。ところが、作業が進むにつれて“あ、ここもいらない”、“ここもカット”と、どんどん切り捨てられるようになっていく。結局、日記というのは日常の累積が本質であり、特殊な一日、と思っている日でも、連続性の中に埋もれてしまうと単なる二十四時間という以上のものではなくなるのであろう。
昼はバスで参宮橋まで行き、ノリラーメン。濃いめのスープに酢をたっぷりと注いで丼の底まで飲み干したら、後で汗になることなること。とはいえ、快眠快食、梅雨あけも近いかなと思わせる。そこから渋谷に戻り、青山まで出て紀ノ国屋で買い物。 発酵茶がここでも棚から姿を消した。やんぬるかな。
帰宅、6時までかかって、2000年分の日記チョイス、終わる。ふうと息をついて、30分ほど寝る。それから、ぶらりと外に出てHMV冷やかし。『ごっつええ感じ』をDVD上映しているので見る。いろいろ言いたいことはあるが、まだまとまった言葉になっていないのでまた後日。なんでこの番組が好きになれなかったのか(優れていることは認めるのに)、ずっとわからないでいたのだが、改めて見てみて、何かストンと理解できたような気がした。あと、『ブラッディ・マロリー』のDVDのジャケットのイラストが傑作。本編よりいいかも。
帰宅して夕食作り。タマネギと米を炒めて、調理用ワインとコンソメで煮る、簡便パエリア。あと湯豆腐と、小柱の炒め物。DVDで『悪魔くん』見るが、デッキの回転がおかしく、画像が乱れる。稚拙な特撮がかえって怪獣でも宇宙人でもない、妖怪という存在らしさを醸し出している。生小缶一本、焼酎炭酸割り二杯、発酵茶割り一 杯。資料ビデオ数本見たところで、K子にもう寝なさいと言われる。
※中野貴雄監督の日記の記述読む。私が言いたかったのは、鴻池大臣の言では市中引き回しの上獄門する対象が、犯人その人じゃなく“親”だってこと。さすがに金さんもそれはやらんでしょう。キムさんならやるかも知れないが。東映時代劇の頃は、悪人は自分の責任において悪であり、自己完結していてわかりやすかった。親のせいにしなくてもよかったんである。必殺シリーズには馬鹿親と馬鹿息子のコンビの悪人がよく出てきた気がする。時代の差かな、とも思うが、要は今回のような親バカ悪というのは、仕事人のような裏稼業の征伐する範疇で、法のもとで裁く(裁ける)性質のものじゃない。獄門打ち首というのは、あれはあの時代の正当たる刑罰なのだ。東映時代劇の比喩に私が違和感を持ったのはソコなのですね。