裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

19日

木曜日

シンガーソングライダー

 仮面ライダーめ、自作の主題歌を歌いながら現れやがって。朝、7時半起床。空はどんよりとして薄暗い。朝食、オニオンスープ。あのつくんから到来のコマツナを入れて葉緑素補給。K子から冬コミの同人誌のゲラを手渡される。セリフの文章を、私は中揃えにした方がいいのではと主張するが、K子は頭揃えがいいという。装丁は彼女なので、私は引っ込む。あと、いくつか訂正。ページ順序が見開きで逆になっているというのは、ゲラのシステム上こうなるのかと思ったら、印刷所のミスだとか。こ れ、ホントに出来上がりでは直るんだろうな? と心配になる。

『週刊懸賞情報』というMLから、登録完了のお知らせ、というのが通知される。登録した覚えはないので、解除要求を出そうとしたら、
「同マガジンは不正な読者登録が発覚したため廃刊とさせていただきました。もう一度、よく確認してから再度入力し直して下さい」
 の表示。廃刊になったところから来た登録完了通知なのか?

 ネットニュース見ると、昨日芸術祭受賞者が発表されたようで、小野伯父は今年もダメだった。まあ、あれに受賞させたら審査員の質が問われよう(練習不足と当日のポカの多さ)。アタリマエダ、と嗤い、決裂した日に投げかけられた言葉を思い出してザマミヤガレと思う自分と、俺があのまま演出についていれば、とやはり業界のメシを食ったものとして地団駄を踏む自分が同居している。サガみたいなものだろう。

 北海道新聞原稿を1時半までかかって書き上げて、メール。昼飯は冷凍のウナギを戻して、ウナ茶漬け。三つ葉ともみ海苔をたっぷり添えて。最近、海苔が非常にうまく感じるようになった。カリウムが不足しているのか? 電話数件。メールも数通。 みんな原稿の催促。うぐぐぐ。

 講談社Web現代、なんとしても一本は今日じゅうに、と書き始めたが、途中で資料原稿を入れておいたフロッピーが突然読みとれなくなり、パーになった。これで凄まじく落ち込み、とても原稿書ける状態でなくなる。急いでパソコンに詳しい知人にメールして、サルベージを依頼。やはり原稿は印字して保存しとかないとダメか? 

 それやこれやで、3時に家を出るはずが3時15分になってしまう。タクシー飛び乗って東銀座へ向かうが、年末で大混み。15分遅刻で、歌舞伎座前。快楽亭と植木不等式氏待ち合わせで、12月大歌舞伎『椿説弓張月』。同行は秀次郎と志遊くん、 それからすし芳のご主人。すし芳特製のお寿司の折つき。

 前にも日記に書いたが、快楽亭のとってくれた席が花道のすぐ脇という席。こんな前で歌舞伎を観るのは生まれて初めてである。花道をうっかり触って会場の係の女性に注意された。『弓張月』はこれまで三回しか上演されていないという。私はその二回目の前半だけを観ている(なんでだか周辺の状況は忘れた。中田の伯母に連れられていったものと思われる)。そのときは国立劇場だったが、歌舞伎座でかかるのは初めてという。馬琴の原作は新八犬伝にハマッた中学生の頃、岩波古典文学大系で通読しているし(新八犬伝は番組が人気で延長されてエピソードが足りなくなり、犬塚信乃が琉球に渡って蒙雲国師と対決する、という弓張月からとったくだりを付け加えていたのである)、大学に入ってすぐ、神田で上演脚本を見つけて買って、全編を読んでいた。まあ、原作もこの時代の読本の常としてまとまった構成などはなきが如し、三島の台本も、ただ歌舞伎を現代劇から隔絶した、歌舞伎たらしめている荒唐無稽さという要素を露悪的に出してみたかったんだもん、という、天才のわがままといったシロモノで、観てはともかく読んで面白いとは正直、思わなかった。今回、この芝居を観るに当たっては、逆に、演出がいかに通常の演劇や小説などの常識を無視した作りになっているか、という点に興味を抱き、そして、結果を言えばその点においては非常に満足したものであった。いや、だってこれほどデタラメな話なんて、滅多にありませんぜ。歌舞伎の典型を再構成しようとして歌舞伎でもないものになってしまっ た舞台である。

 全編これご都合主義、悪趣味、グロテスク、けれんのカタマリであり、それに対比させられる美的感覚や荘厳性も様式美を徹底したが故にキッチュとなり、観るものはただ驚き、呆れ、思考停止状態に陥り、その麻痺感覚の末に一種の野卑なる神々しさが現出するのを見る。要するにドラッグ的法悦である。為朝の新院(崇徳上皇)に対する忠誠、白縫や簓江など女性たちの犠牲愛、夫の仇に対する白縫の恨み、高間太郎夫婦の嗜虐的忠誠、阿公(くまきみ)の悪が立ち返っての肉親愛、けなげにあわれにポコポコと殺されていく子役たち、いずれも誇張とバイアスがかかりにかかって、心情移入できるようなキャラクターが一人もおらず、いないことが逆にこの作品を周囲から屹立させるものになっている。猿之助演ずる為朝はアラミタマであり、周囲にいる者は敵であれ味方であれ巻き込まれてひどい目にあう。近代的感覚で見れば“元はと言えば全部コイツのせいではないか”になるのだが、なにしろ相手は人智を超越した神様なのだから、巻き込まれるのは仕方のないことなのである(ここらへん、今企画している本のテーマに関連する。観てよかった)。

 スペクタクルとしての薩南海上のシーンはただただアッケにとられ、自害する磯萩(福助)ののけぞり姿のきれいさ、高間太郎(勘九郎)のスプラッタ的ハラキリのエグさ、大波に二人の死骸が沈むところ、花道の床下から紀平次と舜天丸がいきなり顔を出すところ、そして大ワニザメ(原作の表記では沙魚)とモスラみたいな巨大蝶とのからみ、見世物の極地にもうお腹いっぱい。勘九郎は高間太郎はそれほど気を入れてやっていなかった分、後半の阿公役は悪婆をかなりのオーバーアクトで演じ、これは歌舞伎的演出すら飛び越えた、完全なる個人演技の悪ノリ芝居で、これだけけれんで固めた舞台を演技力ひとつでねじふせてしまった。その巧さに舌を巻くのと同時に“この人はうますぎることで名優になりそこねるのではないか”という心配すら抱かせる。唐突な比喩だがメリル・ストリープが演技がうますぎて魅力にいまいち欠ける女優になってしまったのと同じ理由の心配なのである。それにくらべると、いや猿之助の大根なこと大根なこと。しかし、これは大根でなければいけない役なのだなと、 逆に感服してしまった。

 私は三島由紀夫の作品は『憂国』など数編を除いて、多くは意余って力足りず、いや、理想がどんどん頭の中で巨大化した末に、構成があさっての方に行ってしまったものではないか、と思っている。この弓張月も、意気込みは凄まじくて、いざ上演してみて何か違う、とガッカリしたという話が残っているが、しかし、三島がねらったものとは確実に違うところで、ある種の異形の結実は成した作品だろう。

 休み時間にすし芳さんのお寿司をいただき(サビが効いていて結構)、秀次郎の歌舞伎クイズにつきあい、雪の紙切れを記念にひろって、全部終わったのが8時半。アパートの同フロアにゆうべ泥棒が入ったので、と帰る志遊さんの他は、シネパトスのビルの地下の、昭和40年代の置き忘れみたいな定食屋で酒。すし芳の店も、ときどき戦前の寿司屋の設定のテレビのロケに使われるような店だとか。ご主人は、私がなんべんもすし芳に来てくれている、と言ってくれているが、実は一回も行ったことがない。マニスなどで私の顔を見て、それが印象に残って、疑似記憶として入り込んでいるんだと思う。肉じゃが、ハムサラダ、湯豆腐などでビールとウーロンハイ。ここは快楽亭におごる。その後、植木さんと、例の蕎の里でソバ食っていきましょう、と入るが、11時でなんと閉店だという。あれ、ここ、深夜1時くらいまでやっているんじゃなかったっけ?

 仕方ないので渋谷までタクシー飛ばして『花菜』。大将に“今日は奥さんは?”と訊かれる。今日は同人誌の打ち上げで井上くんや平塚くんと『クリクリ』なのだ。植木さんと四方山ばなししながら、そば湯割焼酎など飲み、辛味大根ソバ食う。植木さんにはだいぶ自分のことばかりしゃべって、聞き役になってもらってしまった。ちと申し訳ない。2時半、家に帰って寝る。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa