裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

18日

木曜日

アイモの煮えたもご存じない

 て言うか、煮るなそんなもの(このアイモを何と思ったかで世代がわかります。撮影機なら爺い、サングラスならいいおじさん、iモードならガキ)。朝7時に起床。ちゃんと家と同じ時間に目が覚めるのが何ともだが、5時ころ目が覚めて、となりの植木さんのイビキが気になって寝られなくなり、やっとウトウトして目が覚めたのが7時。あれだけ酒を飲んだのだから私のイビキも相当なものだったと思う。自分で罪悪感を感じずにすむのがイビキのありがたさである。

 朝食は8時なので、いつもこの宿に泊まるとそうするように前庭に出る。昨日の雨がカラリと晴れ、まだ肌寒いが日差しがポカポカしている。玄関にとって返し、籐椅子に敷かれているフェイクファーの敷物をはがして持ち出し、丸太製のベンチにそれを敷いて、寝転がる。うららかな春の風に乗り、おだやかな能登湾の波の音、のどかなのと鉄道のゴトンゴトンという鉄路の響き、そして山の方からはウグイスの声。ああ、幸福だな、と感じる。もっとも、これは東京での艱難辛苦の仕事の代償であるという性質があるからこそ感じられる幸福感であり、青年時代の私がもしこういう環境にいたとしたら、牢獄のような状態に感ずるだろう。札幌ですら、20代の私にとっては牢獄であった。

 昨日、風呂を使うまではあった腕時計が見あたらない。が、時計は見なくても朝飯の時間になればK子が声をかけてくるだろう、と思っていたが、案の定、“何してんの! ごはんよ!”とベランダから呼ばわられ、よっこいしょと起き出して戻る。朝飯は昨日K子が強硬にリクエストした海餅、ヒジキとおからの和え物(これがべらぼうにうまかった)、タケノコのべん漬け、カニの味噌汁。なんとかいうノリを円盤状に干したものがあって、これを揉みほぐして御飯の上にかけて食べる。これが磯の香りをそのまま封じ込めたという感じで、歓喜を感じさせる風味。そして、おかあさんが“ゆうべの残りの干物もどうぞ食べて”と、カレイ、メギス、イカなどを盛り合わせにしたものをくれた。メギスのうまいのなんの、私だけで四、五尾は食った。もっと食いたかった。何か中毒になってしまう味である。植木さんは意外やあまり食が進まず。聞いたらもともと、朝飯は食わない習慣なのだそうな。そう言えばあれだけ食い物のことを記してある日記に朝食のことはあまり出てこない。湯飲みを片手に、ベランダの揺り椅子に腰掛けて、ウグイスを聞く。谷渡りを聞けた。

 ふう、と息をつく間もなく、談之助夫妻、植木さん、私の組はチェックアウトして宝達駅の『モーゼの墓』へ。残りは山へ山菜取りに行くという。そっちの方が絶対にうまいものが食えるだろうが、こっちはやはりネタ仕込み重視である。駅の方まで歩く。途中の家の庭々に植えてある樹木を見ると、ついている虫の種類も東京よりはるかに豊富である。なかんずく椿(?)の木にはうわっと驚くほどのカメムシが発生してたかっており、さらに見ると小さな緑色のアマガエル、黄色と黒のコントラストもきれいなハチなどがいっぱい。自然に親しむには最適だが、これあるために田舎暮らしが出来ない人も現代には多いだろう。

 駅前の雑貨屋でまたあのおばあちゃんにつかまる。焼いたカキモチを食え食えと勧める。ここらが田舎である。貰って食べると“おいしいろ?”と満足そう。そんなにうまくはない。貰って、モーゼの墓にでも供えようと袋に入れる。さて、モーゼの墓は押水というところにあり、そこに行くには宝達まで行かねばならない。宝達なる駅は能登線で七尾から十駅目である。能登鉄道で七尾まで行って乗り換えで十駅だから時間にして片道三時間半。東京から新幹線に乗れば神戸まで行ってしまうだけの時間をかけて、各駅でチンタラ行く。これもこういう呑気な旅なればこそ、である。行路の大部分はウトウトして過ごし、目が覚めると無駄話をする。ときどき(凄くときどきであるが)ノートを取りだして、海拓舎の原稿をメモする。昔は旅に出るときは、お守りみたいにモバイルを持っていったものだが、最近は絶対に持たない。北海道に帰省するときも、最小限の仕事道具だけ。さんなみにモバイルと資料一式を持ち込んで一ヶ月くらい籠もって長編小説を書こうか、と思うこともあるが、結句、“今夜の晩飯は何かな”などと考えながら、海を見て過ごすだけだろう。今の身にはそういう環境がまことに得難いストレス解消になるが、十代二十代には、その“刺激のない環境”こそが牢獄だろう。もっとも、通学電車になっている能登鉄道には、おしゃれだけは東京とほとんど同レベルの茶髪の子たちがゾロゾロと乗ってくるが、そう牢獄の囚われ人といった顔をしている子はいない。日常を牢獄に感ずる者の度合は100人に一人というところか。

 宝達駅着が12時ころ。駅前に見えたタクシー会社に行くが、テレビはつけっぱなしになっているのに、人が誰もいない。呑気なことである。御用の方は電話をかけてくれとある番号に談之助さんがかけたら、すぐ行くとのこと。待つことしばし、やってきた訛りの凄い運転手に、モーゼの里の場所を聞いたら五分くらいとのこと。地図で見てもっと遠いと思ったのだが、悪いことをした。運ばれたところには“モーゼの里森林浴コース”とある。モーゼらしい神秘的なところはまったくない。なぜここの 土地にモーゼの墓があるかは、ここのサイトで見ること。
http://www.nsknet.or.jp/oshimizu/page5/ch5.html

 山道を登る。さほどの傾斜ではないし、擬木でちゃんと段も作られているが、都会の足弱にはちと答える。K子を連れてきていたら“まだ登るの〜?”とブーたれたことだろう。連れてこなくてよかった、と思う。もっとも、後で聞いたらちょうどこれくらいの時間には山菜取りに呆れるくらいの山中まで連れていかれ、“モーゼにして おけばよかった!”と思っていたそうである。

 最初が何であれ、村おこしに利用されるという点からはおにぎりの化石もモーゼの墓も似たようなもので、俗臭はまぬがれない。ところがこの墓、途中まではコンクリで建造物が建てられ、掲示板が置かれ、こもれびの小径だの安息の小径だのセイントロードだのと通俗な名称がつけられ、と観光材化されているにも関わらず、てっぺんの、モーゼの墓そのものに至るまでの数メートルのところは、そんな整備がまるでされておらず、人が歩いてつけた道、それも急なのを注意して登らねばならない。足の悪い私と太った植木さんは談之助夫妻より遅れて後から登っていったが、途中、先に登った談之助さんの奥さんの、“いやあ〜!”という悲痛な叫びが聞こえた。驚いて何があったか、と急いで登ると、そこには、あの超大作映画『十戒』の主人公、古代ヘブライ王国の指導者の墓、とはどう考えても似つかわしくない木の柱が一本(あの『世界人類が平和でありますように』のピースポールと同じくらい)、つくねんと立てられていて、かすれた文字で『神人モーゼロミユラス魂の塚』と書いてあった。もともと、ここに来たのはユキさん(談之助の奥さん)がキリスト教関係の施設で仕事をしているから、という理由もあったのだが、われわれから言わせればまあ、コンナモンだわいな、と思えるのだが、彼女にしてみればイメージの落差が大きすぎたのであろう。柱の前に籠が置いてあって、中に“石”が放り込んである。何か特別な石かと思ったが、ただの石である。いくらなんでも石はひどい。お婆ちゃんにもらったカキモチを供える。紅白のカキモチだから、お供えにはちょうどいい。モーゼの国に紅白がおめでたいという概念はなかったろうが。側に穴の掘られた跡のようなくぼみがあり、これが骨の出土したところか、と思えるが、何の囲いや保存措置もされていない。このぞんざいさ加減が実にいい。

 降りていくと、ペンペン草の生えた小屋のようなものがあり、“モーゼクラブ”設営の記帳所になっている。驚くべきことに“感動しました”などという書き込みがいくつもあった。ムーの愛読者だろうか。もっとも、“宇津田氏のう”なんてのもあったが。そこに貼られていた解説の文章が、いかにもこのテのものにありそうなもの。
「古史古伝の代表作竹内文献の中に、モーゼは能登・おしみずへやって来ていると記されている。モーゼは「十戒」を刻んだメノウの石(十戒石)をもって日本を訪れ、当時の天皇にそれを献上した。たいへん感激した天皇は第一皇女の大室姫(おおむろひめ)を妻としてモーゼに嫁がせた。やがてモーゼと大室姫は、新たな使命を帯びて離日した。大業を遂げた二人は再びここへ戻り、能登・おしみずに永眠した。この塚は三っ子塚と呼ばれ、中央の大きな塚にモーゼが葬られ、右側の塚に大室姫そして左側の塚に孫が葬られていると云われる」
 とあり、図が添えられている。なぜ孫なのか、子でないのかが謎である。さらに、“モーゼ”“大室姫”“孫”という、塚の区分も、孫だけが名も記されず、ただ孫、というぞんざいな記載なのが笑える。それに、“新たな使命”って何だよ。せめてどういう使命か書けよ。ノートのバラけた裏表紙には、手書きのモーゼ像などが描きなぐられており、これがいい感じである。

 ここで一時過ぎ。腹も空いたところで、駅まで歩いていく途中にある、カッパの絵の看板の蕎麦屋、『山富士』に入る。普通の家みたいな玄関で、ちょっと入るのに躊躇するが、“名物瓦そば”なる記載がメニューのトップにあるので、それを頼む。最初に、スープのような味付けのしてあるそば湯が出る。これが疲れた体になかなかおいしい。名物というから、てっきり自慢の打ち立てのそばが瓦に乗って(あるいは瓦型に盛られて)出てくるんだ、と思っていたら、植木さんがメニューの解説を読んで“へえ”と驚きの声をあげた。なんと、茶そばを“オリーブオイルで”炒め、肉や卵やネギと一緒に瓦の上に盛って出てくるのである。で、その上に乗っかっているレモンとノリ、もみじおろしを温かいタレに投入し、つけそばにして食す。ゲテではあるが、味はなかなか。まず、能登でも(いや日本でも)ここでしか食えないものであろう。とりあえず、まあまあの満足。

 駅に到着、まだ二十分ほど時間がある。談之助夫妻はネットで調べた“真和(マナと読む)”まんじゅうを売っている店に行き、植木さんと私は駅前の雑貨屋に入り、みやげものを探す。こっちはおとなしい感じのお婆さんが出て応対してくれたが、先ほどのタクシーの運ちゃんもそうだったし蕎麦屋のおかみさんもそうだったが、どちらへおいでで、と訊いて“モーゼの墓”と答えると、たいていちょっと呆れ顔になるのが笑える。植木さんはモーゼジャムを買い、私はおみやげではないが、ちょうどベ ルトが店の奥にブル下がっていたので、2000円のを一本もとめる。

 それからまた三時間かけて戻る。今度はさんなみの船下ご夫婦の娘さん夫婦経営のフラットのある駅、波並(ナミナミではなくハナミと読む)へ。出て、海沿いに歩いて到着。すぐ前のバス停の名が“三並”であるが、ここの民宿がそもそものさんなみであり、矢波の方は、結婚した娘夫婦にこの宿をゆずった船下夫妻が新に建てた家なのである。パンフレットに曰く、“部屋が四室しかない小さな宿で、だからお客さんも一日三組まで”。植木さんがなぜ“四室しかない”と“三組”が“だから”で結ばれるのか、と首をひねっていた。部屋に“唐沢先生”と宛てたお酒が届いている。宇出津の高田さんという人からで、開田さんのファン。いつぞや私の日記を見て、今度こちらに来るときは是非、と言うことだった。後から来るかも、と待つが音沙汰なしであった。

 お風呂を使うが、これは男用女用と分かれては いるが、ごく普通の家庭用風呂。浴衣に着替えてしばらく雑談、BSのタンタンなどを斜め見して(中国が舞台で、日本軍が悪役な話を、ニコニコして“タンタンの活躍が楽しみですねえ〜!”と言うだけでいいのか、お姉さん)、さて、夕食。

 ここの夕食は主人のベン(オーストラリア人)の修行したイタリア料理。もちろん能登の食材をたっぷり使っている。最初がジャガイモのビシソワーズ、サザエの切り身入り。ビシソワーズがまるでトロロのようにねっとりとしていて、濃厚なる美味。次がいきなりパスタで、手製の麺に生ウニの大きいのが三つも乗っている。この生ウニだけ食べたいが、しかし押しつぶしてパスタとからめて食べるともう、鼻を鳴らしたくなるうまさ。その次がシーザースサラダ、コンカイワシのドレッシングがけ。さらに追い打ちをかけて、アワビのスライス、キモのソースがけ。キモのソースというと生臭く感じるかもしれないが、いかなる手を加えているか、フルーツの如き風味。次がオコゼのフリッター(ああ、イタリア料理は順番に出てくるから記載が楽だ)、タコのオリーブオイル煮ときて、最後が大鍋でのカニ、ハマグリ、スズキのブイヤベース風。ワインをいろいろ。

 ベンが出てきて、挨拶、二人の子供(上が男の子でトモ、下が女の子でエミリー)も出てくる。トモはやはりハーフで、髪型が坊主ということもあるが、快楽亭のところの秀次郎にそっくり。談之助と“ハーフ&クォーターで漫才をやらせたらどうか”と話す。下のエミリーは色が透き通るほど白くて小さくて、セルロイドのお人形そっくり。談之助がさっそく風船の芸をやってみせると子供たち大喜び、トモに至っては(談之助には男の子はどうでもよかったろうが)興奮状態。オヤジのベンもこの風船に興味を持って、いろいろいじくりだす。ここらへん、西欧人だなあ、という感じで面白い。大人になっても子供と同じ好奇心と集中力を持っている。奥さんの智香子さんは手作りのイチゴシャーベットとエスプレッソを出してくれる。話して笑って、これだけでは足りなくて部屋でまた大無駄話大会。宿の造りの古さから、昔の家はどうだった、になり、練炭だの豆炭だのの話。私、K子、植木が四十代半ば、開田・談之助が四十代末だから、そういう話が盛り上がる々々。一番若いユキさんが取り残されてポカンと聞いていた。寝床に入って、また同室の植木さんと雑談深更まで。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa