裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

15日

月曜日

白居易、残った残った

 酔っぱらうと白楽天爺さんはいつも相撲だ。朝7時半起床。昨日の就寝が1時。6時ころ目を覚ますと、右頭部にギチッと音を立てるような痛み。二日酔いである。うわあ、と思う。今日は早起きして原稿やろうと思っていたのに。大恐縮して7時半まで布団の中でカタマっていて、何とか起床できるまでにこぎ着ける。朝食は小さなオイスターサンドと、リンゴ。朝のワイドショーをフジに変えてみたが、いや小倉の番組の取材対象への意地クソの悪いこと、テレ朝の比ではない。さすが談生を擁してい る番組だけのことはある。

 午前中ずっとと学会誌原稿にかかる。調子はだいぶ戻りつつある。朝、麻黄附子細辛湯をのんだせいもあるか。母から電話、先日送った(親父の死後の札幌の家についての)書類に印鑑証明がついていなかったので急いで送れ、という内容のメールを出したがそういうことだから早く送れ、という電話。メールって最初、届いたか読んだか、読んでわかったと思ったか、どうにも不安なものなのである。

 12時15分、日比谷へ出る。ウェンディーズでテリヤキバーガー一個食べ、東宝本社試写室にて『クレヨンしんちゃん アッパレ! 戦国大合戦』。名刺を出して入ろうと思ったら誰何された。あれ、ここは何度も試写状送ってきてくれているし、私の名前は知ってるはずだが、と思ったが、態度が違ったのは東京文化研究所の名刺を出したせいであるらしい。会社の名刺って、こういう場所では普通会社名だけで個人の方までは見ないものである。で、東京文化研究所なんて社名はやはりアヤシゲに思われたらしい。“えーと、いつもクレしん映画は各雑誌などで書かせていただいて”などと説明するのも難儀なので、“双葉社さんからご案内いただきましたあ”と言うとすぐ、通してくれた。会社人間は社名で動く。並んでいるかも、とちょっと早めに来たのだがそんなこともなく、試写室の中は、十人くらい。1時半から、と思っていたら1時にもう開始するのに驚く。しかし、考えてみれば今日はこの後3時から渋谷で打ち合わせを入れているのだから、そうであれば1時半始まりで間に合うわけがない。理性は予定を立てたとき、1時始まりと理解していたが、何か脳の別の部分が1時半と思いこんでいたのだろう。早めに行こうとしておかげで間に合ったのは、単なる僥倖。

 映画は眠田さんから“感動の傑作”“ただし、『オトナ帝国』は一切引きずっていないからあのテイストを期待しないこと”“いつものクレしん映画とも全く違うからそこらへんでとまどわないこと”と注意を受けていた。この言葉に偽りなく、開巻から、エッ、これが本当にしんちゃん映画? と怪訝に思う。そして、すぐにいつものテイストに戻り、と思うとまた急に、極めて完成度の高い映画世界がそこに展開しはじめる。

 劇場版10作目、そして舞台が戦国時代、とくれば、信長秀吉謙信信玄、さらには忍者だの南蛮人だのが入り乱れる大バラエティを想像するかもしれないが、これは全く裏切られる。そこに描かれるのは、春日(後の春日部)の当主春日康綱という地味な小大名とその家中の話であり、しかもその日常が極めて細かく描写される。クレヨンしんちゃんという作品は、もともとしんちゃんとその周囲の日常を描いた作品であり、それが戦国時代に行っても踏襲されるのだ。原恵一の、細かなデティールにこだわる才能は前作で十二分に発揮されていたが、今回はなお一層、その描写が際だつ。戦(いくさ)のシーンの迫力は凄いが、これもまた、ダイナミックな演出というよりは、実写映画でもなかなか描かれない、当時の合戦のデティールを細かく積み重ねることでリアル感を出す方に重点を置いている。そう、考えてみれば合戦というのはわれわれから見ればスペクタクルでも、当時の人々にとっては日常だったのだ。

 しんちゃんが“裏切り御免!”という『隠し砦の三悪人』の藤田進のセリフを言うシーンがあるように、原監督が今回、モチーフにしたのは黒澤のこの映画らしい。そう言えば廉姫と井尻又兵衛の関係は、雪姫と真壁六郎太の関係に当てはまる。又兵衛のキャラクターは類型はいくらも思いつくけれど、しかし、近年のアニメに出てきたキャラクターの中で最も愛すべきオトコの一人に違いないだろう。そして、廉姫と又兵衛の関係は、昨今のどんなアニメに描かれた恋よりもせつなく清らかな、オトナの愛だ。又兵衛は愛する姫と、自分の産まれ育った土地を守るために命をかける。もちろん、ひろしもまた、家族を守るために奮起する。何かを守って戦う者の姿は感動的だ。当然、現実の世界ではそれだけを思うわけにいかず、そこにさまざまなものが付随してきてしまうのだが、この作品はそこまで描かない。描く必要も責任もない。そんなことを言い立てる奴は映画の見方を知らない馬鹿だ。われわれはそこにある、オトコの奮闘の姿にただ、涙を流せばいい。脚本的には、もうひとひねり(せっかくタイムスリップなどというSF的大ネタを使ったのだから、せめて、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』くらいのものはと、SF者としては期待してしまう)欲しかったところだが、しかし監督は戦国の話が描きたかったのであって、SFを描きたかったのではないんだろう。それは、タイムスリップ現象の、あの非常に静かな描き方を見てもわかる。

 ああ、だけど、これだけ楽しませて感動させてもらって言うのもなんだけれど、私はこの映画を許したくない。たぶん、この作品を観に劇場に足を運んだ人々全員が、そう思うだろう。なんで、どうしてあの(ここから先は言わない)と、原監督をつかまえて談判したいと、そう思うだろう。なんでクレヨンしんちゃんでこんな悲しい思いをしなくちゃならないのだ。なんでみんなみんな幸せになる話を、せめてアニメでは与えてくれないのだ。そう思った末に、ふと、気がついた。そう、これはオトナの話なのだ、と。眠田直は言った。“前作はまったく引きずっていない”と。しかし、これは見事に、あの作品から引き続いた話になり得ている。前作は、オトナたちが子供に戻る話だった。今回は、逆に、しんちゃんがオトナへと成長し、オトナの世界のつらさ悲しさを体験する、そういう苦い(さわやかな苦みではあれ)話なのだ。

 この作品を私は許容するべきか、というと、私の立場としては、本来は否、なのである。私は、アニメや怪獣映画というものは、進歩してはいけないものだと思っている。それは、桃太郎が鬼退治というものの正当性に思い悩んだりしてはいけないのと同じように、主人公が近代的自我を持ってはいけない世界なのだ。常に同一地点で極めて単純な物語を再生産していくことがそのジャンルの使命であると信じている。変わらない、進歩のない世界だからこそ、そこはいつでも人が帰っていける、安寧の世界足りうるのだ。その変化の無さによってその世界は機能している。エヴァンゲリオンや平成ガメラを進歩だと言う者がいるが、あれは私に言わせれば退歩(機能を果たさなくなったという点において)でしかないのである。作品の質がいい、などという狭い視野であれを評価する連中を、私は認めない。

 今回のクレしんは、その禁断の領域へ、一歩踏み出してしまった。しんちゃんが、もし次回作でまた、何の屈託もこだわりも自分を取り巻く社会に対して持たない子供に戻ってしまったら、それはこの作品に感動した観客をバカにした行為とならないだろうか? それとも、これは10作記念特別作品だからであって、“今回は別”と、割り切れるものなのだろうか? 前作はストーリィのかなりの破綻を、その破天荒なアイデアで押し切ったダイナミズムの産物だった。今回はそれとは比べものにならないくらい、作品としての完成度が高い。ハマるという行為は、破綻の部分を見ている方で補完することによって、その作品と自己が同一化する現象を言うので、それに比べると、今回は作品そのものにハマるファンは少ないだろう。しかし、しんちゃん作品としての異色度という点で言えば、今回の方がはるかに異質である。その違和感を子供たちは、そしてわれわれオトナたちは、どう受け止めればいいのだろうか。その点に限っても、興味はつきない。

 終わって出るとき、エレベーターの中で女性二人連れが、“アニメでこんな質の高い話、見られていいのかしらね”と会話していた。まさに“いいのかしら”という疑問がオトナたちの、最初の感想だろう。タクシーに飛び乗って渋谷にとって返す。日差しはまるで夏のようで、並木の緑が美しい。しかしながら道は混み、ダラダラとしか進まない。3時、時間割にて廣済堂Iくんとの打ち合わせ、結局20分の遅刻となる。打ち合わせ自体は無事に進行。『ウラグラ』『怪網倶楽部』と濃い系の本が続くので、この本は駅のキオスクで売るような、気軽に手に取れる軽い読み物にしましょう、とIくん、言う。私もそれがいいと思う。もともと廣済堂という会社はそういう売り方が得意な会社である。得意な売り方が出来る本にすべきである。
「唐沢さんの本は文庫売場での評価が高いから」
 という言葉は商売としてモノを書いている人間にとり、うれしい評価である。もっとも、私自身は、サブカルで商売が出来るのはあと何年か、と見切ってはいるつもりである。

 いったん家に帰り、メールチェック。その文庫の件で幻冬舎Sくんからメール。ゲラを送ったからチェックよろしくとのこと。発売がちくま文庫と同月で、ちくまの方はもう先月とっくにすべての作業終わっているのに比べると、幻冬舎というところの本がいかに速成で作られているかということがよくわかる。ただし、速成必ずしも悪くないというのはこの業界の常識だけど。原稿、と学会誌続き。なんだか書いても書いても終わらない。

 6時、また時間割、河出書房新社Aさん。合うのは初めてなので、東武ホテルのロビーで待ち合わせたのだが、遠くから私の姿が目についたとたんに立ち上がり、声が聞こえる範囲まで来たらもう、“いやあ、面白かったです、原稿!”と話し始めた。中川彩子のことが取り上げられて、うれしくてうれしくて仕方ない、という感じである。画集を見せたら“うわああ”と声をあげていた。山本弘氏の掲示板でも指摘されていたが、畸人研究会の今さんがやはり中川彩子ファンで、いろいろ収集しているということを話す。今回は間に合わないが、今年じゅうに絶対、中川本は出したいと意気込んでいた。澁澤家にあったという、藤野一友が書いた小説のコピーをもらう。その他秋吉巒のこと、喜多玲子のこと、滝麗子のことなどいろいろ雑談。Aさんが中川彩子を私に執筆させようと思ったのは、やはり検索でオタク大学の私の発言を読んだからだそうだ。あそこの間違いのことを話したら、それには気がついてなかったようである。今回の原稿にも私の思いこみや無知、早とちりがいろいろ出てきて、濃いマニアから指摘があるだろうと言ったら、イエ、それで中川情報が少しでも入ればむしろフックとしてその誤りが機能したのだと思いますと、頼もしいお答え。

 帰宅、また原稿。やっとアゲたのが8時10分前。結局15枚以上になった。急いで会誌原稿用の掲示板にメールして、花菜へ。K子と厚揚げ野沢菜添え、タチウオ塩焼き、トマトなどを肴に日本酒と焼酎そば湯割。もりを一枚食べて帰宅。今日は大変な客の混雑で、大将、大奮闘。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa