15日
金曜日
インドのヤフオクで修行して
いやあ、やはりネット先進国だね、修行になったよ。今朝の夢は私が京王線で『京王山鳴(やまなる)』という町に行くというもの。ただし、京王線のない阿佐ヶ谷から出かける。その町にはシャム双生児のハンサムな町長、昼間は女教師で夜になると怪盗となる美女、ネコを助手に連れた名探偵などがいてドタバタをくりひろげるという、アニメみたいな夢だった。これを見て目が覚めたのが6時半。このところ、毎朝キチンと6時半に目が覚める。就寝時刻に関係なく、である。時計の如し。それからフトンの中で本を読んだり考え事をしたりして1時間ほど過ごす。今日はいやに自己内省が顕著で、落ち込んだままフトンから這いずり出る。
気分が落ち込んでいるのは朝から雨もよいで、夕方のように暗いからにもよる。朝食をいつものように作る。ネコは相変わらず牛肉缶に御執心である。青豆の冷ポタージュ。鈴木宗男関連ニュースをBGMのようにしてさほど関心もなく聞きながら、原稿。コミックスの鉄人28号関連コラム、昨日の続きで書いてオチをつけ、メールする。その頃には雨はすっかりあがり、抜けるような青空になった、のはいいが、例の内装工事も次第に傍若無人な音をたてるようになり、電話での会話も大声でなければ聞こえないほど。
あまり天気がいいので、昼飯は何を食べようと思いながら外へ出て、ぶらぶらと歩いているうち、エエイ足を伸ばしちまえと、神保町にまで電車で出て、ここまで来たなら行っちまえと、教育会館の古書展に行く。紙魚の会。さほど人はおらず。言葉遊び関係の研究書で面白そうなのが数冊、あったので買う。1万円弱。出て、さて、ボンデイに行くかそれともいもやの天丼か、と考えるがどれも今の腹には重い気がしてしまい、結局、青山まで半蔵門線で戻る。
車中、買った真山恵介『寄席がき帖』(昭和35年、学習図書新社)を読む。著者は劇作家で、新宿末広亭の席亭北村銀太郎の娘婿。寄席に詳しく、談志が『現代落語論』で、噺家になろうとしたとき(いつも寄席の入口の前に立ってて偉そうだったから)相談にいった、と書いている人である。その談志はこの本には小えん(なぜか小ゑんでなく小えん表記)で登場する。昭和30年代前半の、テレビによる大落語ブームがくる直前の、まだ戦前、ひょっとすると明治の面影を残していた時分の、寄席業界人たちの楽屋スケッチである。志ん生、文楽、圓生、可楽、三木助といった大看板から、小えん、全生(圓楽)照蔵(柳朝)、朝太(志ん朝)などの若手、漫才、曲芸などの色物(若手で大絶賛されているのが海老一染之助、染太郎)、講談、浪曲までの人柄やクセを、劇作家らしい観察眼でサラリと紹介する。落語とは、といった論などはどこにもなく、問題呈示もなければ新しい視点もない。それは寄席が、落語が大衆娯楽の主として敢然と屹立していた時代ゆえの著作であり、間違っても今読んでためになるとか、教養が深まるといった類いの本ではないが、私のような、チョイ差でこの時代に間に合わなかった者にとってはまさにバック・トゥー・ザ・フューチャーで、読んでナミダナミダ、である。楽屋雀がつけた各師匠連のアダ名紹介の章で、六代目圓生が“中国の留学生”なのには恐れ入った。
青山に着き、結局立ち食い蕎麦屋で冷やしたぬきを食う。紀ノ国屋で晩の食い物を物色。今夜はK子がいつも通っている語学教室の先生が退職する、その送別会なので珍しく一人で夕食である。帰宅、快楽亭の師匠から電話、こないだ奥平くんから貰ったビデオの件。あと電話数本。みんな仕事がらみ。
原稿書く。時事通信社の書評原稿、文字数揃えに苦心するが書き上げてメール。さらに扶桑社のトンデモ本原稿を三分の二まで書き、平行して海拓舎のものもやる。案外調子はいい。体調悪いときでも文の質が落ちないのはありがたい。9時ころまで。会計事務所から電話で、K子にいろいろ伝言。私はサッパリわからず。ただ稼ぐだけが仕事である。もともと書類事務が大嫌いで、モノカキになったようなものなのだ。
10時ころまで仕事して、メシに入る。チョンガー飯なので料理らしい料理はせずに、ウナギの白焼きで酒、それとレンジフォンデュなる、簡便チーズフォンデュ。ビデオで久しぶりにモンティ・パイソンなど見ながら。11時過ぎくらいにK子帰ってくる。焼酎の梅干し割りを三杯。