裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

24日

木曜日

若ハゲ参上!

 育毛しゅっしゅっしゅっしゅしゅっ。朝7時半起き。朝食にはワカサギのマスタード漬け。丸谷才一の“酒にあうものは朝食にあう”という説もなんとなくわかる気がする。もっとも朝から塩辛は食べたくありませんが。ウルトラグラフィックスのゲラ直しして送る。昨日の日記一部訂正。立川談大と書いたのは談々、国士館は正しい表記は国志館。校正もせずにアップするので、日記に書き間違いは多々あるもの、本来一々書き間違いは訂正しないのだが、これはコトがコトだけに人違いではシャレにならない。

 日記、K子に弁当、その他いつもの雑用。12時に家を出て六本木。銀行で用事すませ、日比谷線で東銀座。メシをどこかで食おうと思ったが時間がないので、いかにも銀座らしい小じゃれたワッフル屋でカレープレートのランチを食べる。以外にうま かった。で、フィギュア王編集部から“一時に来い”と指示されたUIP試写室に、 一時ジャストにたどりついたら、すぐ試写が始まったのにあせる。フツー、一時集合だったら試写は一時半とかじゃないかい?(岡田さんはそう思い込んでやってきて冒頭を見逃した)

 で、映画は『ギャラクシークエスト』。眠田さん夫妻、中野貴雄などがいる。要するにスタトレオタクの願望をそのまんま映画にしちゃった話。ファンダム業界がカルト番組のレギュラーだったというだけが経歴の売れない俳優たちを二十年間も食べさせている、というアメリカの規模のデカさとか、日本のオタクとは比べものにならない入れ込みで、番組のことを全部本当だと信じ込んでいるファンの存在とか、もちろんスタートレック(映画中ではギャラクシー・クエスト)の中のいくつもの決まり文句、などの事前教養を仕込んで見ないとよくわからないギャグが多く、マニア向けというククリでしか語られないのが残念なほど、よく出来た映画である。

 主演のティム・アレンのウィリアム・シャトナー(カーク船長)なりきりの演技は見ていてあまりの見事さにノドがヒクヒクするほどだったし、名優アラン・リックマン(最初アレンと取り違えて見ていたるほど顔が似ている)やシガニー・ウィーバー(!)の、うらぶれた役者演技は、それまでの経歴を知らないで観たら、本当に彼らは売れない役者なんじゃないか、と思い込んでしまうほど。ウィーバーはノーメイクで小ジワまる出しだし、リックマンのメイクの、いかにもテレビショー的な安っぽさも嫌になるほどリアルだ。と、言うより、潮健児をはじめとして、オタク業界にあって、そういう境遇の役者さんたちとじかにつきあいが多い身として、とても他人ごと で見てはいられない。ましてアメリカの連中は、と思うと。

 ストーリィは、そういう役者たちが彼らをホンモノと思い込んだ純真なオタク宇宙人たちにホントに宇宙に連れていかれ、銀河の運命をかけて戦わねばならなくなる、という、半村良の『亜空間要塞』みたいな話なんだが、そういうことを抜かし、つまりオタクの映画であることを脇に措いて、これは世間に疲れた中年男女たちが夢を取り返すためにガンバるという、いかにもアメリカ映画らしい、人生賛歌映画の秀作なのだ。日本でこれを作ったら、ちまちまとした現実感覚で、夢がふと、またショボい現実に引き戻され、でも、そこでその夢を胸の中に小さく抱き締めてこのつまらない日常を生きていこうという(私が小学生のとき『ガリバーの宇宙旅行』で不満に感じた)ストーリィになってしまうであろうところを、あっさりと、夢は実現しちゃうんだよ、人生スゴいことが現実に起こるんだよ、と言い切ってしまう、しまえるところに、アメリカ映画が世界を征した最大の理由があるだろう。ラストで私はマジに涙が 出そうになった。

 見終わったあと、上のバーで、岡田、眠田両氏とこの映画に関する座談会。本来はもっとこのメンツで“バカだね〜”と盛り上がることを期待されていたんだろうが、三人ともストレートに感動してしまい(特に眠田さん)、ほとんど賛辞しか出ず。あの宇宙人の描き方がロコツにイタリアあたりのスタトレマニアをモデルにしていてヒデえ(実際イタリア系の役者が演じている)、ということ、異形の宇宙人と主人公グループの一人が実際にデキて結婚までしてしまうのは(キリスト教倫理にギシギシに縛られている)アメリカ映画も変わったもの、というようなことくらいを話す。岡田さんは冒頭の十分を見逃したことで編集部のMさんをキュウダンしていた。

 その後、まとめ役の芝崎くんと私は近くの喫茶店でしばらく話す。芝崎くんの本の企画のことなどを聞く。時間が半チクになり、ぶらつくうちに、岩手県の名産販売所を見つけ、入って見回していたらいつの間にかかなり買い物してしまい、この次の予定がやはり東銀座で、近くていいや、と思っていたにもかかわらず、一旦家に帰るハメになる。

 盆あけで街はえらい混雑。帰ってすぐとって返してまた東銀座、新橋演舞場に6時集合。開田夫妻(なんだこの連続づきあいは)と横手美智子先生と合流して、劇団新☆感線公演『阿修羅城の瞳』。新橋演舞場というところ、私のイメージでは藤山寛美劇団とか、蜷川作品とかを上演するところだったんだが、新☆感線というのはちょっと意外(猿之助の舞台とツクリは近いから不思議はないのだが)。そこのギャップを埋めるためだろうか、今回はゲストがやたら豪華、市川染五郎、平田満、富田靖子、渡辺いっけい、江波杏子という面々(そのせいかチケット代もお高い)。客席を見るに、日頃の新☆感線の客層とは三十才以上年齢が上の男女がいる。染五郎のファンなんだろうなあ。開田さんと、このオバサンたちの終演後の感想を聞いてみたいものだねえ、と話す。

 この劇場、三階作り客席数一四二八という大きさでありながら、トイレが各階に二つづつ、しかも男子トイレの便器数が一階のソレ(他の階のは知らない)が三つという少なさ。ニッサンビルと同居という限られた敷地内に、ゆったりと見られる大劇場を、というコンセプトのもと、トイレが犠牲にされたのであろう。ここに観にいくときは早めにトイレに行っておくこと。休息時間内に行った三階のソバ屋は本格的な作りでちょっと感心。

 で、舞台の感想だが、まず、“長い”。六時半開演で、主演が十時十五分。よく言うことだが、芝居というのは見終わったあとの食事やお酒まで、その一部。遠方のお客に終電の心配をさせる時間までやっちゃいけない。ただでさえ新☆感線の芝居は観たあとでクタクタに疲れるのだから、お年寄りの客も多い今回のようなときは、もっと刈り込んでコンパクトにまとめるべきであった。もちろん、それだけの迫力はある舞台で、ことに猿之助芝居などで設置されたのであろう数々の仕掛けを使ってのケレン演出はさすが、であるのだが。

 それに、さっきも書いたゲストの豪華さが、逆に新☆感線らしさを薄めていた。古田新太の役が染五郎に最後まで遠慮して染五郎を立てている演出になっていたが、これではいつも新☆感線を観に来ているファンは欲求不満だ。橋本じゅん、粟根まことというマニアックなファンがついている役者さんたちも今回は役が小さく、少しガッカリである。染五郎は思ったよりもずっと好演で、色気もあり、ギャグの演技のリズムもよく、見栄の決まり方はさすが歌舞伎役者の血、とかけ声をかけたくなったが、しかし、そうなると、今度は彼が他の新☆感線メンバーと同じくドタバタと忙がわしく花道などから出入りするのが興ざめである。もっとどっしり構えて演技する役をフるべきではなかったか。動きのギャグとなると、同じゲストでも渡辺いっけいなどが独壇場で、比べられては気の毒である。

 一番ゲストで光っていたのが江波杏子で、静かにしゃべる役にもかかわらず、セリフが全役者の中で一番通る! これはさすが、大ベテランという貫禄だった。他の役者は染五郎、古田新太も含めて時折、聞き取れない部分がある。この劇団に限らず、最近の演劇はセリフが長く、それを早口で憑かれたように全ての役者がしゃべらねばならない。それは仕方ないが、ならばもっと滑舌ということを演出家は徹底して仕込 んでほしい。

 あと、脚本。中島かずきの、これは若い頃の作品の再演らしいのだが、中島かずきらしいテーマはこの頃から完璧に打ち出されている。しかしながら、細かい部分、例えば南北が忠臣蔵のことを話すとき、そこに出てくる名前が全部浅野内匠頭とか吉良上野介とかいう本名であること(ここは塩谷判官、高師直であるべき)とか、江戸のことをみんなが都、都と呼んでいることとか(江戸時代の都は京である)とかが、話の本筋に関係ないことでありながら、少しづつ、頭の中にひっかかる。前回観た『ロストセブン』の脚本が完璧に近い出来だったので、今回は人物の出し入れだとか、ストーリィのドンデン返しの技だとかに、いくぶん若書きの荒っぽさが目立つのかも知れない。

 ハネ後、楽屋(これがまたわかりにくくて少し迷子になる)で粟根さんに挨拶、銀座三越のところでK子と待合せ、四人で(横手さんは先に帰った)開いている店を探し、『じゃがいも屋』という洋食バーのようなところに入り、いろいろさっきの話などしながら十二時まで。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa