裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

4日

月曜日

加ト吉のイレブン

おれたち11人で、世界のうどん屋を目指すぜ!

※京都二泊目。法然院見学、建仁寺見学、帰京、原稿。

朝7時11分起床。入浴し、9時ころ母と階下のビュッフェに朝食をとりに降りる。納豆二パック、塩サバ、漬物、味噌汁、オレンジジュース、バナナ。和食にオレンジジュース、というような変則が効くのがバイキングのいいところ。アイオープナーは絶対必要なのだ。

納豆は青のりタレだったので二パックとるのじゃなかった、と思うが、何とか食べられる。その後、部屋で休息。原稿、やはり書けず。諦めて10時チェックアウト、母子で京都観光。

今が紅葉のさかりという法然院へ。急な坂を上っていく。なるほど、モミジの葉の茂りが明るい太陽(素晴らしい晴天だった)光線を透かすと、まるで色とりどりの紗を透かしたようで言葉にできない美しさ。北海道の、子供の掌くらいある紅葉と違って、こちらの葉は玩具のように小さく、かわいらしい。散って、それが池の面に浮かんでも絵になるのだ。

平日なのでそう混みあわないのもいい。それでも老夫婦連れだとか、奥様会みたいな一巻きとか、あるいはいわくありげなカップルとか、何組かが始終入れ替わり立ち替わり。裏手の方に、お団子を立てたような奇妙な塔があったが、これは何だろう?(写真参照)。

そこからタクシー拾って、京都駅までやってもらうが、まだ時間あるのと、途中で見た四条通りがやはりよさげだったので、京都駅から引っ返して、通りで南座を見物。総見の日らしく、着飾った舞妓さんたちが続々と劇場入りする。京都らしい光景を見られたと母も大喜び。

そこから歩いて、そろそろお昼を、と思っていたが京懐石とかいうのはみな、ランチ6500円、とかいうオソルベキ値段なのでブルって、何かうどんとかでも、と見ると、奇妙な犬に追いかけられる小僧の像がある店があり、おばさんの威勢のいい声につられて、入ってしまう。入るといきなり、
「お二人で二枚、やいてよろしゅおすか」
と言われてハイハイと。お好み焼きの元祖みたいな一銭洋食の店であった。
http://www.issen-yosyoku.co.jp/index2.html

とにかく店内が異様。あちこちの椅子にマネキンがおかれ、壁には絵馬、それもエロ絵馬がずらり。秘宝館の雰囲気である。さっきも書いたが、四条通りや花見小路は食い物やがのきなみ高いので、修学旅行生たちはこの一銭洋食にみんな足を踏み入れるが、教育上ドウカと思えるような(今の女子高生はこんなので驚くまいが)雰囲気であった。一銭洋食は安手のお好み焼きみたいな味で結構。ラムネと一緒に食する。

そこを出て、花見小路を散歩。休みの店が多いのは今日が代休の日だったから、と初めて気がついた。突き当たりまで歩いて、建仁寺を見学。ここも大変に京都らしくて結構な雰囲気。大きな改修が行われたあとらしく、小奇麗だが、あちこちの石碑などに“平成×年建立”とかあるのがあまり有難さを感じない原因か。栄西(『喫茶養生記』の著者)の開いた寺だけに、垣根なども茶の木で、母が感心していた。天気もよく、簡単だがいい京都見学だった。

花見小路の和風喫茶(でも店内はモダン)でお茶。入ったら舞妓さんらしい女の子がお抹茶をおいしそうに飲んでいた。店員の女の子がまったりとした京都弁で、いいなあと思っていたが、胸の名札を見たら中国の子。

2時25分の新幹線で東京へ。車中で開田さんに依頼されていた『日本沈没』の原稿、書き上げる。すぐ送るつもりが、書き上げたところで充電ギレ。いらつく。母は時代小説を読んでいるので、池波正太郎か藤沢周平かと思ったら鳴海丈だった。私の仕事場から持ってきたらしい。
「文章がわかりやすくていい」
のだそうだ。

東京駅で母と別れて、仕事場へ。開田さんの原稿を送り、他の書き下ろし原稿仕事など。10時、新中野に帰り、母の室で夕食。カマスの干物、昨日食べた『冠太』の蒸し饅頭の再現。すぐ作ってみるところ、研究熱心なことではある。

自室に戻って、NHKで『わが愛しのキャンディーズ』を見る。懐かしさというより、番組の構成の見事さと力の入り方に驚く。まあ、映像資料が大量にあるNHKならではの番組だが、他局の『みごろ! たべごろ! 笑いごろ!』のコントまで(DVDからだろうが)ちゃんと見せてくれたのには感心。NHKの底力を見た感じ。キャンディーズのカルト人気と解散間際の大騒ぎは誰でも私たちの世代なら肌で知っていると思っているが、じゃあ時系列で行くと、とか、細かい横の関係は、とかとなるとみな、“肌で知っていることがら”だけにあやふや。そこをこの番組はきちんと整理して、デビュー以来、ヒットを出してトップアイドルに彼女たちがなっていくまでの経緯と、解散に至る因果関係、そしてその周囲の状況を、新情報は何もないけれど、誰にでもわかるよう、すっきりとした形でまとめてくれている。最近のものの作り手は、絶えず“何か新しいことを言わねばならない”という強迫観念にとらわれているが、たいてい、そんな視点というのは時代の流れの中ですぐ消えてしまう。残るのはこういう、実際のデータを整理して見せてくれるものだ。文章であれ映像であれ、作り手というのはこのようなものを作らねばいけない、と改めて思う。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa