裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

24日

金曜日

大阪でトゥームレイダー女やさかい

 東京へはようついてゆかん(アンジェリーナ・ジョリー談)。朝7時までぐっすり眠る。起きてダラダラとミクシィなど。旅先でないとこういう自堕落感は味わえず。8時、朝食、下のレストランに降りて。ホテルのバイキング形式朝食でご飯があるときは必ず納豆で食べることにしているのだが、ここの納豆、あまりうまくなかった。見ると大阪納豆というメーカーである。やはり納豆食の伝統のない大阪のメーカーのものはうまくないのか? あとはシャケとモヤシの味噌汁、巨峰など。

 そのまま出て、地下鉄乗り継いで心斎橋へ。ホテル日航大阪の裏手にある銭湯“清水湯”まで。大阪の朝は、ホテルのせせこましいバスタブでなく、ここでゆったりと大きな浴槽につかるのが習い。この近くの『ホテル・カリフォルニア』を以前、大阪での定宿にしていた時からの習慣だが、ホテル・カリフォルニアは見てみたら、改装もされないそのままの造りで、他の名称に変わっていた(ホテル・カリフォルニアと私の関係については『トンデモ本の世界T』を参照のこと)。銭湯は350円、もう同額払うとサウナとラドン湯が使える。ジャグジー風呂、電気風呂などにじっくりつかって、汗を流す。湯当たりするほど入って、テラテラした顔で通勤客で混雑する地 下鉄でホテルに帰り、12時過ぎまでまた寝る。天国。

 天国もそう長く続かず、12時50分ころまでモバイルで『創』対談ナオシ。それから持ってきた他の原稿などもやる。おぐりゆかからメール、髪型を変えるのだがテレビに差し支えないかという問い合わせ。問題ナシと答える。“食い倒れてらっしゃいますか?”と書き添えてあって、そうか、今日は夜までずっとこのまま原稿書きだから、昼は下のレストランのランチか、近くのコンビニで弁当を買って部屋ですまそうと思っていたのだが、大阪に来てそんなモノ食っては私の美食家としての看板にかかわる、と思い直し、2時ころホテルを出て、近くをぶらつく。黒門市場というのがあったのでぶらりと立ち寄ってみる。よさげなお好み焼き屋があったので入って、名物という牛すじ・九条ネギ入りお好み焼きというものを頼む。すじ肉の他にコンニャ クなども入っていて、濃厚な味。

 もともとお好み焼きは、鉄板の上で小麦粉を焼き、その上に煮た牛すじやコンニャクを乗せた大正時代の“一銭洋食”がルーツと言われている。たこ焼きの元祖のラジオ焼き(ラジューム焼き)も、最初は牛すじやコンニャクが具であった。この店のお好み焼きが牛すじやコンニャクを入れるのは、先祖帰りというわけである。店内のテレビでは穂積隆信が娘と妻の死を書いた『積木崩し』の新著の刊行記念パーティで、インタビューを受けている。好きな役者だったんだが、こうなるとただの汚れ芸能人 でしかないな、この人も。

 その後、しばらく黒門市場を散歩。小さいがなかなかいい感じの市場。入り口のところに、“黒門ラーメン”というよさげなカウンターのラーメン屋がある。今夜の食事の帰り、あいていたらここで〆にしよう、と悪いことを考える。女房が一緒だったら絶対できないことである。普通は女房から解放された男は風俗とかキャバレー(大阪は今でもアルサロ全盛なのか?)に行くのだろうが、私はラーメン屋に行くのであ る。色気には縁のない男だ。

 なんば近辺をぶらつく。いい骨董工芸屋があったので、いくつか買い物。帰宿したら、ちょうど掃除が終わったところ。急いで原稿にかかり、FRIDAYの四コマネタ出しにかかる。お題が地味めのものだったのでなかなか難しい。南湖さんに、今夜の待ち合わせ場所を連絡。おぐりには“お好み焼き(牛すじ・九条ネギ入り)を食べ ました”と報告。

 講談社Tくんからは一時間後にネタOK、質も高いとの返信。出先で資料もロクになく書いたものだったんで心配だったがまず、一安心。とはいえ、こういう季節ネタの方が先日のモー娘。ネタなどより、ネタの濃さなどの勝手がわかる分、気が楽かもしれない。モー娘。ネタはこれまでのこの連載の中でも反響が高かった回なのだが、こちらも編集者も、“果たしてどのネタがどの程度のレベルのものなのか”がサッパリつかめぬまま、モーオタの友人H氏などに監修してもらって書き上げた。なぜモー娘。に“。”がつくか、などという薄ネタはコラムの方に回したのだが、Tくんはじめ編集部一同、このコラムに“へぇ”の嵐だったとか。わからぬものですよ。編集部 からはモー娘。ネタをモー一回。やれとのお達し。

 6時、地下鉄谷町線、谷町四丁目駅まで。出て、大阪歴史博物館で行われている、『生人形と松本喜三郎展』を見に。昨日、地下鉄内でこのポスターを目にし、なんだこれは、と驚いて、行くことを決めたのである。松本喜三郎は寛永から明治にかけて活躍した生人形師。生人形というのは見世物の一種で、様式のない、生きている人間そっくりに造られた人形(現在で言うところのリアルフィギュア)である。そのリアル人形でジオラマのように、実際の事件の再現や縁起物、ちとエロがかった風俗などを見せる興業。松本喜三郎はその代表的作家で、生人形という名称も彼が考案したものである……というような知識は古河三樹『図説・庶民芸能−江戸の見世物』(雄山閣BOOKS)などで知ってはいたが、その生人形の実物を目にするのは初めて。出かける際、改めてチラシを確認したら、入場は夕方5時までとあるのであちゃあ、と一瞬思うが、よく読むと“金曜日は午後8時まで”とあり、運がいい、と喜ぶ。

 まず、展示されている生人形群の、とても江戸・明治に造られたとは思えない、その完成度に驚く。まったく造形的に古さを感じさせない。これは当たり前の話で、先に書いたように、これらの生人形たちには“様式”というものがなく、ただ、目前の人間を細部に至るまでリアルに再現して、目にはガラス製の眼球、髪や眉や睫毛には本物の人毛を一本々々、植え込んだというもの。日本人の顔や体の造作というものがそんなに極端に変化していない限り、これらの生人形の造形は古びようがないのである。そこらへん、芸術的な彫刻などは、その時代その時代の流行の様式に常に縛られ て、時間という枠を超越し得ない。

 それを如実に表しているのが松本喜三郎の代表作と言われる『谷汲観音像』だ。谷汲観音というのは、西国伝わる伝説で、道に迷った巡礼者を、厨子の中にいた観音像が動き出して導くという奇瑞を見せたというエピソード。この地上に現出した観世音菩薩をリアルに描くにあたり、やはり松本喜三郎も、そこは他の人形とは異なり、仏像の様式で描かれた観音様の顔を模すしかなかった(喜三郎自身、大変に観音を信仰していた)。しかし、ただ、観音様の顔を仏像から起こすのではなく、彼はそこに、出来るだけ、生身の人間らしさを加えることに心血を注いだ(衣装にはところどころ紗などを使って、生身の肌の色が透けて見えるなどのエロチックさを加味することも忘れなかったのは、いかに信仰篤い喜三郎とはいえ、そこに興行師としての感覚を働かせていたからだろう)。その結果、完成した谷汲観音像は、神々しさとエロティックさが奇跡的に同居したような、何ともいえない魅力にあふれた傑作となった。明治の人々は、観音が発する濃密な色香にノックアウトされたことだろう。奈良や飛鳥の美人像をわれわれ現代人は、芸術という色眼鏡を通さなくては美人と認識しない。まして色っぽいとは思わない。すでに色あせた様式が邪魔をしているからだ。しかし、この喜三郎の美人は、基本に“人間そのまま”がある、いや、それしかない。だから こそ、今見てもなお、色っぽいのである。
http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/ikininngyou.htm

 さらにこの博物館には、明治に入ってから、アメリカのスミソニアン博物館からの依頼で喜三郎が二年の歳月をかけて制作した、『貴族男子像』が展示されている。これは当時の日本人をモデルにした全裸の成年男子の立像だが、谷汲観音とは逆に、一切の理想化をしていない。運動不足で細い手足、突き出ている腹、そしてぶらりと垂れ下がったペニスにいたるまで、克明な描写がなされている。西欧の彫刻美術が、いかにリアルを目指そうとその根底にあるギリシア的人体美(を人体像は目指さねばならないという暗黙の縛り)から自由でないのに比べ、この像はそういう“常識という名の束縛”を脱し、アートではありえず、しかし単なるマネキンというにはあまりの迫力と、そしてグロテスクでキッチュではあるけれども、まぎれもない感動をこちら に与える、一種の存在感を周囲に漂わせている。

 しかしながら、天才・松本喜三郎の残したこれらの生人形たちは、その没後長きにわたって、人々の脳裏から忘れられ、散逸していった。館内で流していたビデオによると、喜三郎の子孫の家にも、いま、残る喜三郎の彫刻は、生人形展の背景用に造られたカニの像(これも見事なものだが)一点のみだそうである。何故か。明治以降の美術界が生人形を芸術品として認めなかったからである。美術館でなく、見世物小屋に飾られたものである、というだけで、価値のないものとして低く扱い、蔑視し続け たためである。

 この展示会のパンフレットに、展示会実行委員長である熊本市現代美術館長・南嶌宏氏の文章が掲載されているが、その文章の中の、生人形を美術とみなさなかったアカデミズムに対する、もはや怨念に近い怒りの言葉には、ちょっと驚くものがある。
「生人形とそれを排除し続けてきた近代のありようを考える体験は、美術と美術でないものを分かつ、その根拠を問うことなく、排除すべき反近代的分子には死を与えるというアカデミズムの、滑稽にして暴力的な正体を突きつけられる経験と言えるものでもあった」
「私は人間の無垢なる諸表現にヒエラルキーを想定する、その排除の哲学こそがアカデミズムの本質であることを、この生人形の調査を深める中で、改めて実感することになった」
 ……うーん、アカデミズム嫌いは私も人後に落ちるものではないが、ここまではさすがに言わない。現代美術館々長という職であれば、どちらかといえばアカデミズムに近い立場なのではないか、と思えるところだが、南嶌氏の反、いや抗アカデミズム 的態度はゆるがない。

 氏は、“私は彼の作品のすべてを評価するわけではない”と保留をつけながらも、 村上隆のフィギュアを取り上げ、
「村上に勝利を思うのは、彼が日本絵画の本質とする“スーパーフラット”なる美意識においてでなく、美術の外部にあって私たちを救済してきたアニメやフィギュアといった、美術より一段下位に見下されてきた存在、それはグリコのおまけやTAMIYA模型、あるいはリカちゃん人形でもいい、そうした大量生産、大量消費され、その姿を現物として残すことなく、私たちの網膜と触覚を通して、心に、精神に、永遠の喜びを付与し続けてきた、聖と俗をともに称える真なる富を友に、その表現を果敢に世に問うてきたからである」
 と、その存在が百数十年前の松本喜三郎と重なりあう、と言う。

 この怒りは要するに、ある日本を代表する公的美術機関から、生人形に大きな影響を受けたある大家の作品を今回の展示のために借り出そうと交渉したとき、高名な芸 術作品であるそれを
「見世物の生人形のような展覧会に貸すことはまかりならない」
 と鼻であしらわれて断られたことに対する憤慨がモトになっているらしい。この展示が喜三郎の故郷・熊本と大阪でのみ開催され、東京に回ってこないのは、上記の理 由からではないかとカンぐられる。

 南嶌館長は、よーしわかった、オマエらの助けは借りない、上等じゃねえか、とここで尻をまくる。見世物で結構、俺たちは見世物として生人形をリスペクトするかん ね、と。それで困ンのはアンタ方アカデミズムだよ、と。
「私の中で、この生人形を美術としてではなく、あくまで見世物細工の誇りとして、 あえて美術館なる場所に君臨させたいという決意が固まった」
「依然として民衆から乖離し続けるアカデミズムが、自らの歴史でもある、近代から現代への捏造の権威の歴史にその内省のまなざしを向けることができるのかどうか、その大きな試金石として、この生人形の展覧会が存在するというべきかもしれないのだ」
 ……いささかコーフンしすぎの感はあるが今、アニメやマンガに対し、遅ればせも極まりながらもコミットしてきたアカデミズムが、これまでのこの分野への冷ややか な仕打ちをまず頭を下げて詫びるどころか、
「われわれが論ずることによってアニメやマンガを芸術の域に引き上げてやろう」
 的な居丈高な態度をとっていることに、以前から腹の立っていた身としては、このタンカに思わず快哉を叫んでしまうのも確かなのである。いいぞ、南嶌!

 会場を回っていたら、ばったり開田夫妻に会う。ちょうどよかった、と今日の南湖さんとの落ち合い場所などを確認。また別れてそれぞれに回り、帰りにミュージアムショップでパンフや関連書籍、オモチャなどを買いあさる。領収書をとって見たら、ここのミュージアムショップはお土産屋さんがやっているらしく、“××煎餅”と書 いてある領収書だったのに笑う。いかにも大阪だ。

 荷物が両手をふさぐまでになったので、一旦タクシーで帰宅。荷物置き、改めてホテルを出て、梅田紀伊國屋前に行く。ところが、紀伊國屋前の大スクリーンの下で、と言われたのだが、そこにいつまでたっても開田夫妻が現れない。携帯に連絡が入り“いま、スクリーンの下なんですけど”と向こうが言う。大スクリーンが二つ(階段をはさんで左右)にあるとは思わなかった。別々の方で待っていたのであった。

 スポニチの大阪支局のN氏に紹介され、タクシーで心斎橋へ。ソニープラザ前で南湖さんを拾い、味のある裏通りを通って、N氏の知り合いのカメラマンさんが経営しているというふぐ料理店『ふくふく』へ。昨日は扶桑社の予算で開田夫妻に御馳走したが、今日はお返しという感じで、あやさんのスポニチの官能小説連載打ち上げのお相伴をさせていただく。ふぐ刺し、伊勢エビ造り、ハモ、松茸入りてっちりと、なかなか手銭では口に出来ないものをいただけるのも、ギョーカイ人の幸せ。サラリーマンに比べたら将来の保証はゼロに等しい身なのだから、これくらいのいい目は見てもいいのだ、と言い訳しながらいただく。メンバーもメンバーで、盛り上がらないわけもなし。酒は名焼酎『百年の孤独』のゾロ品であるという『一生の孤独』。オタクには縁起の悪い名前だね、などと言いながら。南湖さんの東京売り出し計画、帰京した らすぐ動きますよ、と例により大言壮語。

 焼酎をあっという間に空にして、なおビールだなんだと飲み、ベロになる。N氏がなんとタクシーチケットを切ってくださる。これはこんど、コラムの一つもロハで書かないと相済まぬ。南湖さんがベロの私を心配して、タクシーつきあってくれる。日本橋で降りて、まだ黒門ラーメンやっているので“食べましょう、あれ食べましょうあれ”とダダをこね、無理に南湖さんを一緒に引きずり込み、ここでまたビールとラーメン。しかし、出てきたラーメンはとんこつに細麺、切り昆布などが入った完全な博多風なのでちょっとガッカリ(金龍ラーメンみたいな味を期待していた)。トイレに猛烈に行きたくなり、二すじほど啜ったところで、帰りましょう帰りましょうと南湖さんせかして(ひどい男だね)そこを立ち、彼を地下鉄駅に見送って、ホテルに帰る(1時半ころ)。すぐさまトイレにかけこみ、ホッと一息、何が何やらわからぬ状態でベッドへ。ラーメンあまり食べられなかったのはダイエットのためにはよかったかもしれない。かくて大阪の夜は更けぬ。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa