裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

27日

土曜日

お子さま侍捕物帖

 若さま侍よりさらに若い主人公。朝6時半起床、事務部屋でメールなど見て、風呂に入ってまたメールなどしていると、卓上の電話で呼び出し音が鳴ったので、新聞を郵便受けからとって、食堂へ行き朝食。窓からの陽光が昨日比で倍はさしている。イ チジク入りのパンにソウメン入りコンソメなど。

 土曜は基本的に弁当ナシ。空のカバンを下げてバスを待つ。停留所のところでも青空を見上げたが、雲一片たりとない、深い青が視野一杯に広がる。改めて、“こんな色を人類は誕生したときから頭の上に置いていて、よく気が変にならないものだ”と 言う思いにかられそうな、そんな好天。

 仕事場に到着、しばらくいろいろ雑用。チケぴで舞台公演の予約などする。メールあちこちに出したりしていたら、もう昼過ぎ。参宮橋まで行って、ノリラーメン。ひさしぶりにこういう健康に悪そうなものを食べる快感。そこからまたバスで渋谷駅に戻り、半蔵門線で神保町へ。古書会館、趣味の古書會。地下鉄の駅から出たところでちんちん先生こと菊地祐司にバッタリ会う。金ペン堂で万年筆を作ってもらって、その使用法を聞きに行った帰りとのこと。また、中学生くらいの若い男の子に、“『メレンゲの気持ち』見ました”とサイン求められた。

 趣味の古書會、そう大きな買い物はせず。700円、500円くらいの雑本中心に買う。一番大きな買い物は岩波書店の『デュマの大料理事典』。買って出て、田村書店に立ち寄ったら、棚に同じものがあった。値段を見てみると、私が買った値段より四割増し、しかも状態は私の買ったものの方がよし。こういうときの、何の役にも立たないがしかし非常に深い満足感が、ものを買い集めるという行為の原点である。

 岩田次男氏のこともあり、ちょっと確認でカスミ書房さんにも立ち寄るが、鉄扉が閉められていた。さもあらん。神田書店などにも寄ってみるが今日は買わず。半蔵門線で帰宅。帰ってみたら、カスミ書房さんからメールが来て、昨日葬儀が終わったこ とを告げてくれていた。5月に偲ぶ会を催すとのこと。

 くたびれて少し横になる。4時にまた家を出て、新宿へ。シネマスクエアとうきゅうにて、映画『殺人の追憶』観賞。チケットを買い、まだ時間に余裕があるから喫茶店にでも入るか、と思い、一応様子を見ておこうと三階の劇場へ行ったら、もう階段 のところに行列が出来ていた。評判のいい映画だとは聞いていたが。

 入場して、パンフレットを買おうとしたら“カラサワシュンイチさんですね?”と声をかけられた。この劇場の宣伝部の方だそうで、“初日に来ていただいてどうも”と、宣伝資料をいただく。かたじけなし。“韓国映画はお好きですか”と訊かれたので、“特に選って追いかけているわけじゃないですけど、最近本数が増えているので自然に”と答える。これは社交辞令で、これまであまり韓国映画を好んではいないのであった。この作品は以前に試写会の招待状を貰ったが見逃して、あとで評判がかな りいいことを知ってくやしかったので、今日、足を運んだのである。

 シネマスクエアとうきゅう、場内の飲食を禁じられているのが私のように“映画はポップコーンとコーラと共に”を主義としている人間には困るが、椅子はゆったりしていて見やすい。場内、結局7分の入り。やがて上映が開始され、2時間10分、スクリーンに没入。宣伝資料をロハでいただいたから言うのではないが、たぶん、ポップコーンの持ち込みが許されていても、映画にのめりこんで最後まで手をつけずに終わったのではないかと思う。それくらい熱中した。韓国映画を一挙に見直してしまっ た2時間10分だった。

 陰惨な猟奇殺人事件をテーマに描いていながら作品にただようユーモアに何度も笑い、演技陣の巧さに舌を巻き、監督の“絵作り”の腕の確かさ重厚さに仰天し、主人公たちが真犯人像にギリギリまで肉薄するシーンに手に汗握り、一転して事件が追憶の彼方になった20年後に飛んでの、ラストの余韻(それは美しく、懐かしく、また 限りなく不気味で恐ろしい)の素晴らしさに喝采したくなる。

 80年代の韓国で実際に起こった猟奇連続殺人事件の記録を元にしており、時代背景も含めて細部が非常にリアルなのだが、しかしただリアルなだけでなく、娯楽作品としてのフィクションの折りまぜ方も堂に入っている。例えば、フィクションとして監督が持ち込んだ設定に、犯人が殺人を犯すのは必ず雨の日で、しかも音楽番組に決まった曲をリクエストしている、というものがある。捜査が行き詰まり、主役の刑事二人が感情的にぶつかったときに、まさにラジオからその曲が流れ始める、といったギミックの使い方の巧さ、追っていた容疑者の姿を見失った次のシーンで雨がポツ、 ポツ、と降り始める、映画的サスペンスの盛り上げ方の巧さにホトホト感心。

 80年代韓国は全斗煥の軍事政権が全土を覆い、作中に何度も出てくる、軍事演習の灯火管制などが国民を意識下でイラだたせていた。その一方で、高度経済成長の波が確実に押し寄せており、豊かさと貧しさの対比が、新しさと古さの対比が強調されてきて、伝統的共同体が音を立てて崩れ始めている時代でもあった。これは資料の中で佐野眞一も指摘しているように、日本の60年代とパラレルであり、この事件は、日本の吉展ちゃん事件や西口彰事件と同じく、社会の歪と混乱の鏡像のような、いかにも象徴的な事件であった。そして、このような事件を生じさせる時代というのは、ちょっと良識というものを伏せて言うなら、たいてい、ムチャクチャに面白い、躁状 態的高揚感に満ちた時代なのである。日本の60年代がそうであったように。

 韓国の映画人が凄まじくうらやましい。嫉妬すら覚える。それは、2000年代の映画の技術と問題意識とで、このドラマチックな時代を描けるからである。この作品を支えている要素の一つに、80年代の貧しい田舎町の圧倒的リアリズムがある。銭湯、薬屋の店先、バス、食堂などのひとつひとつが、やたらな生活感と共に描かれている。それは、日本における60年代に相当するノスタルジック性である。かの国には、まだ、探せば“貧しさ”を描写できる場所が、風景が、人の顔がこれだけ残っているのだ。日本では、逆立ちしてもここまでのリアルさで60年代を描けない。時代の匂いが残っていた70年代には、まだ日本映画がそれを描けるだけのリアリズム性を有しておらず(日本映画はそれまでは様式美の世界であった)、やっとそれを描けるリアリズムを獲得した現代では、すでに、60年代的光景はほぼ、絶滅してしまっているからである。この映画の製作費は、監督によれば、普通の韓国映画よりちょっと高い、くらいであるそうだ。それで、これだけ重厚なノスタルジック、かつドラマ チックな“絵”が撮れる。あに地団駄踏まざるを得んや。

 脇の役者の顔もいい。最終的容疑者になるパク・ヘイルの能面のような美しい不気味さと、対照的な怪優(馬鹿演技というアジア映画の伝統を、このような映画の中でちゃんと受け継いでいるところが頼もしい)パク・ノシクのイノセントさ。彼が、あと一歩で真相を語るか、というところで電車に“持ってかれる”シーンは、凄惨な場面なのにもかかわらず、なにやらスラップスティック喜劇のようにさえ見えて笑えてしまう。褒めてばかりであるが、実際、隅から隅まで感動しつくしてしまったのだから仕方ない。ツッコむとするなら、監督のポン・ジュノの顔があまりにオタク顔、というところくらいである。実際に日本のマンガが大好きなオタクらしい。たぶん、この作品における事件描写などには、浦沢直樹の『Monster』あたりが影響を与 えているのではないかと思う。

 見終わって、まだ待ち合わせにまで時間があるので、東口のビデオショップに立ち寄り、にっかつビデオ『悶絶! どんでん返し』とウディ・アレンの『ヴァージン・ハンド』のビデオ、それに『ゴッド・アンド・モンスター』のDVDを買う。地下鉄新宿三丁目駅まで。伊勢丹入り口のところで、母とK子と開田夫妻と待ち合わせ。五人でドイツ料理『カイテル』に向かう。K子主催のドイツ料理の夕べ。すでにK川さん、植木さん、I矢さん、S山さん、S川さん来ていた。それにT橋くん、FKJさんも加わり、あとパイデザ夫妻で総勢13人。パイデザ夫妻が遅れたが、奥さんが体調不良で欠席。とはいえ、ちゃんとパックを持ってきて、これに入れて料理を持ち帰 るように、と平塚くんに指示を出しているのが笑える。

 ケストリッツァで乾杯。オードブルが出て、それからホウレンソウのポタージュ、ソーセージ盛り合わせ。ビールはつぎにフランケンハイムのアルト。母が植木さんを見て、“あら、そんなに太っていらっしゃらないじゃない”と言うので、“最近、老眼がすすみまして”とつけ加える。開田さんが“こないだはつい、パンを食べ過ぎて最後の方、料理が食べられなかったので”とパンを控えていたが、案外アッサリとデザートが出て、コースが終わってしまった。アレレ。人数揃えれバ特別料理を作るカラ、とカイテルさんが言ったのだが、それを忘れていたんではないか、とS山さんの曰くであった。K川さんが飲んだビールには、赤いさくらんぼのシロップが垂らされて色がついていた。後でまた席についたカイテルさんが勧めてくれた日本酒にも、女性にはこのシロップが垂らされて赤く色がつく。それを、特別製の杯につぐと、ハー ト型になる。母が感心して、その杯を欲しがっていた。

 出て、まだみんな当然物足りないのでへぎそばに行くが満員。土曜日で仕方なし。路上バーにはゲイたちがやたら大勢たむろ。他のメンツは植木さんとどこか中華の店に行ったが、われわれは地下鉄で開田夫婦と帰宅する。何か中途ハンパな腹のあんばいだった。寝床で渡部昇一『文科の時代』などを読む。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa