裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

23日

火曜日

あなたのそばでああ暮せるならば、つらくはないわこの総長賭博

『博打打ち・総長賭博』観ながらふと頭に浮かんだ歌。朝6時50分起床。入浴洗髪如例。家で夜、風呂を使わなくなって長い。ナニがきっかけで朝風呂になったのか。結婚する前は夫婦とも夜に入っていた記憶があるのだが。朝食、7時半。イチジクの 入ったパンとサラダ、コーヒー。

 8時22分のバスで新宿、乗り換えて渋谷。肩がすさまじくこの段階で張っておりこれはマッサージ必要だな、と判断。電話入れる。急場だったので3時〜4時という半チクな時間しかとれず。仕方なし。『実話ナックルズ』の『カラサワ猟奇堂』原稿を時間までに、という感じでバリバリと書く。戦後すぐの少女誘拐常習犯(18歳の折に一念発起、“毎月一人、少女を誘拐する”ことを誓ったというロリコンの元祖、樋口芳男)の話。幸い、これと思って選んだ資料の語り口非常に面白く、また、その本に書かれていない後日談の資料もたまたま手元にあり。食事をはさんで400字詰 め7枚の原稿にしては異例の早さで書き進められる。

 弁当、菜は豚肉の自家製味噌漬け焼き。朝が完全ベジタリアン式なので、量は少ないがその美味言語に絶す。また、レタスに巻いたチーズが入っていて、こんなもの、ご飯のおかずにどうかと思ったのだが、明太子チーズで、これがきちっとおかずにな るのが面白い。

 3時、原稿メールして、そのまま新宿へ。この時間は初めてだったが、マッサージの先生、50歳台の女性であった。マッサージ師というより、学校の先生みたいなタイプの婦人。大丈夫かいなと思ったが、決して指の力とかが強くはないが、さすがは年の功で、揉む場所全てツボに入っており、快感。ただし、左足のつまさきが揉まれ ているうちに攣って参った。

 4時半、渋谷にとって返して時間割にて打ち合わせ。ケイズファクトリーのU氏、Sさん。漢字系パズル雑誌を創刊するとのことで、そこへのコラム連載の話。U氏はアスペクトのK瀬さんやK田氏と昔、ジャパンミックス社で同僚であったそうな。思えばあの会社には原稿料未支払など、かなりの迷惑を被ったが、倒産後そこから散っ た編集者さんたちに、その分を上回る仕事を貰っている。

 最初にメールを貰ったときのこっちのイメージで、パズル雑誌のコラムなのだからと、以前世界文化社の『ナンクロ』でやっていたようなミニコラムを想像していたのだが、話を聞いたらも少しきちんとした読み物で、1500ワードくらいのエッセイということであった。あと、創刊号にインタビューも載せたいとのこと。イラストのこと、読者層の想定年齢、ジャーナリスティックに行った方がいいのか教養モノ風が いいか、など、いくつかのポイントで打ち合わせ。

 打ち合わせ終わり、そのまま新宿へ出る。紀伊國屋、マイシティ内HMVなど回り買い物し、中央線で中野へ。中野武蔵野ホールで任侠映画特集、『博打打ち・総長賭博』(1968・山下耕作)を観る。ひょっとして、この作品をスクリーンで観る、これが最後の機会になるやも知れぬという思いから。この武蔵野ホール、まだ中野武蔵野館と言っていた時代から通いづめ、オカマに迫られたり、ある意味人生を変えた“超放送禁止落語会”に出会ったり(借金だらけ、問題だらけの芸能プロダクションを伯父から引き継いだのも、自分がトップに立てば談之助やブラックといった連中と好きに仕事が出来る、という思いがあったからだった)、トークをやったり、いろいろ思い出があったところ。武蔵野ホールになってからずっと、チケット売り場のとこ ろの、
「只今お座れになります」
 という札の文言が気になりっぱなしであった。どう考えても“お座りになれます”ではないかと思うのだが、慣れてくるとその間違った文章が懐かしくなるのが不思議である。この5月で閉館になるのだが、何かひとつこの館の思い出の品を、と言われたら、この“お座れになります”の札、ということになるかもしれない。

 慣れてくると、と言う話で言えば、この『総長賭博』、学生時代に名画座回りで何度観たか知れぬが、いわゆる“任侠映画”というものの右総代的なこの映画の、セオリーに慣れるまでがえらい苦労を要した。……当時まだ20歳の私にとり、この映画の登場人物たちの行動の、ナニからナニまでが理解できない、と、いうより、不条理にしか思えなかったのだ。作品の冒頭で、大陸ゴロの佐々木孝丸(今回初めて気がついたが役名がカワシマ。字は河島らしいが、川島芳子の養父・川島浪速がモデルなんだろう)の、政治結社結成の誘いを断った直後、脳溢血で倒れた親分・香川良介の跡目相続に、組で最も人望の高かった鶴田浩二が推される。しかし鶴田は、自分はもともと関西から流れてきて親分のもとにわらじを脱いだ外様の身であり、二代目は直系の子分である若山富三郎(松田)が継ぐべきだと主張する。しかし若山はそのとき、よその組とのいざこざの責任を一身に受けての入獄中。組の叔父筋にあたる金子信雄の推挙で、松田の弟分である名和宏が二代目を襲名することになる。しかし、その直後に若山が恩赦で出所。直情型の彼は、五厘下がり(自分よりヒエラルキーが一段低いことを指す任侠用語。反対語は一分上がり)の名和が、鶴田や自分を差し置いて二代目を継ぐということがどうしても許せず、衆人観座の中で怒りを爆発させ、金子を はじめ組の者たちに疎まれ、孤立していく。

 初めてこの映画を観たときの、20歳の私の違和感というのは、若山はじめ、感情を移入させるべき善人側の登場人物たちが、全員、愚か者ばかりではないか、という驚きによるものであった。このような、いわば“愚か者の祭”としか言いようのない映画が、名画だ傑作だと噂されていることが、どうしても理解できなかった。若山にとり、跡目を弟分が継ぐことは仁義に外れることである、その主張は正当である。しかし、跡目を早く決めろというのはその親分の病床での命によることであって、若山が獄中、鶴田が固辞、という状況下で、そのすぐ下の名和が継ぐことは、その裏に金子信雄のアテコミがあるとはいえ、他に選択肢がないのである(若山は鶴田が固辞をしてもそこを強いて頼むのが仁義のスジだと主張するが、それは鶴田のスジを逆に認めないことになる)。しかも、映画の後半で明らかになるが、名和宏は実は立派な任侠者で、跡目を継がして不足のある人間ではない。鶴田に“組の決めたことには従うのが義理だ”と説得され、若山もその場ではそれを承知して祝いの席に出るが、そこで“兄弟との話は話だ”と、やっぱり暴発してしまう。そのような場でのそのような怒りが、いかに正当なものであろうとも、いい結果を生むわけがないことはオトナであればわかるはずである。結局、その行為は当然のことながら鶴田の顔をつぶすことになったわけで、若山が愚かであることは言うまでもないが、実の兄弟以上に若山の性格を知りぬいている筈の鶴田も、こうなることは予想がつくだろうに、何の手も打たないのは無能と言われても仕方ない。おまけに、彼らオトナがなんとかかんとか、妥協して事を丸く収めようとしているときに、若山の組の若いもんである三上真一郎がこれまた愚かに愚かに暴走し、事態をいっそう悪い方へと引っ張っていく。若山や鶴田が泣いて馬謖を斬るかというと、これが人情にほだされて斬れない。統率者として失格の上、ぐずぐずしているうちに鶴田の恋女房(桜町弘子)までが三上を女と逃がしてやった責任をとって自害してしまう。結局、三上は女を捨てて若山の元に戻るのだから、桜町は犬死にであった。

 彼らには揃って、“義理だの仁義だのというが、その究極の目的は何か”という、目標設定がゼロなのである。鶴田の場合ならば、彼の守るべき最大の義理は、大阪で自分が若い頃、間違いをしでかして東京に流れてきたときに、何も言わず自分を拾ってくれた香川良介に対するものであり、病床の彼を安心させてやることが第一の義務であるはずだ。そのためには何を犠牲にし、何を我慢しなければならないか、という計算がまるでない。例えば、若山が出所するまでのつなぎという名目で皆に一筆をとらせ(これで自分に私心がないことは証明できる)、二代目代理として組を一時取り仕切ることだって出来たはずだ。この映画の中で最も常識ある台詞は、関西の、鶴田の旧・親分である曽我廼家明蝶の、“しかし、あの松田っちゅう男は難儀なやっちゃで”というものであろう(しかしながら彼も、鶴田が二代目を固辞したことを絶賛するあたり、トラブルの本質がわかっていない)。一応、脚本(笠原敏夫)は彼らの愚かさを正当化するために、佐々木と金子のたくらむ政治結社が大陸から麻薬を輸入しようという計画がある(その買い付けに賭博の上がりが必要となる)という設定をしているが、それだって、鶴田と若山が手を結んで動けば、あまり周囲からも人望がありそうにない(親分病気のときも、その義弟たる彼を推する声はなかったようだ)金 子信雄を排除するくらいは、簡単だったはずである。

 鶴田はじめ主要登場人物たちは、誰もが純粋な善意と義侠心から、揃って最悪な選択をし、最悪な結果を招き、最悪な結末を迎える。それに観客は喝采する。日本人の“美学”というのはこういうことなのか? これが日本人のアイデンティティの根幹にある価値観なのか? 脚本の笠原はこの作品を“サラリーマンものとして”書いたとインタビューで言っており、確かに高度経済成長期の日本の会社システムの中の歯車であったサラリーマンたちには、若山や鶴田の置かれた状況は身に染みてわかる悲哀とカタルシスだったかも知れない。だが、この作品に内包されたメッセージは、むしろ知識人たちに、(東浩紀的言い方をすれば)“誤配”されていく。その代表である三島由紀夫はこの作品をギリシア悲劇に例えて絶賛したそうだが、私にとっては、むしろ不条理劇のように思えて仕方なかった。ハタチの私はこの映画を絶賛した映画評の載った古いキネ旬を手に、名画座の席の中で、混乱していた(映画としての演出の確かさ、各演技陣のすばらしさにはもちろん圧倒され、感動した。その上でのテーマ性のことでの混乱である)。それからの私が、“日本人”を考えるとき、この映画が常に頭の片隅にあったことは確かなような気がする。というか、この作品を視野に入れない日本論は意味がない、と思うようになった。きちんとした学者の日本論で、この作品に触れていたものはイアン・ビュルマのもののみという有様ではあったが。

 滅びを美しいものとしてとらえるこの思想と、この映画を絶賛した三島の、あの一種不条理な死には、確実な共通性があった。それは三島とは正反対の立場に立っていたはずの、あさま山荘事件の犯人たちにも、この映画の中の登場人物と同じ、非合理な破滅へと走らざるを得ない運命が背負わされていた。一瞬の情念の燃焼を何よりも尊ぶ精神性、そのために現実の的確な認識や合理的な思考を破棄することを良しとする美意識。まずいことに、繰り返しこの作品を観るたびに、私もまた、そちらへとズ ルズル引き込まれていく自分を感じていたのであった。

 変な話だが、そのズルズルから何とか私を引き留めていた(結果的にであって、本心を言えばそのままズルズルとそっちの美意識への陶酔の中に入っていきたかったのかも知れないが)のは司馬遼太郎の作品だった。『坂の上の雲』などを読むと、日本のような弱小国が日露戦争に勝てたのは、当時の、まだ維新の戦雲をくぐって生き延びた世代の日本の指導者が、美意識に酔うことなく、“生き延びること”を必死で考えぬいた結果である、と定義されていた。後の日本軍で軍神とされた乃木大将を愚将として描いていることには賛否あるようだが、要するに司馬史観の中では、乃木という、滅びの美学の中に逃げ込んでいこうとする性癖のある人間(また、こういう人物 に限ってカリスマがある)は、奇しくも司馬氏も大阪人だが、
「難儀なやっちゃで」
 という評価しか与えられないのだろう。やがて、その難儀さは尊いものとされ、日本の国を、実利の国から情念の国へと変貌させていく。社会との摩擦、上の人々との摩擦、組織との摩擦、さらには社会常識との摩擦が自己正当化、自己美化につながっていき、その意識はやがて個人のものから集団のものへと拡大し、関東軍の暴走、太平洋戦争への突入、玉砕の思想へとつながっていく。いや、それは敗戦という滅びを美化し、現代においてもなお、マスコミ文化人(右であれ左であれ)の言説の中に、 脈々と流れ続けているのではあるまいか?

 そういった、日本人の精神性の中での無意識が、まさに純化した結晶のような美しさをこの『総長賭博』という映画は持っている。あれから四半世紀が過ぎ、いま、この作品を改めて観てみたとき、あのときよりはるかに素直に、この作品に感動する自分がいる。これは、すでに自己の肉体が滅びに向いつつある世代になった自分の、破滅への同調であろう。そこで流せる涙を、私は心地よく受け止めたい。……しかし、一方で私のアタマの中のある一部分は、この美学にいまだ、頑強に抵抗を続け、違和感のシグナルを高らかに鳴らしている。この違和感がまだ健在であったことをも、私は嬉しく思うのである。みんなが美しく死んでいくこの滅びの美学の世界で、唯一、“死にたくないーッ、助けてくれーッ”とわめきながら這いずり回って逃げ回り、とどめを刺されたとき、“ゴロゴロゴロ”と血泡を吹く音まで立てる金子信雄の死に様の演技に、何かホッとするものを感じるのだ。……私はあのように死ねるだろうか。案外、死に様くらいカッコよく決めようと、ナルシズムにひたった死に方をするかも 知れない。それだけはゴメンだ。

 それにしても思うのは、この時代の東映の、脇役陣の充実である。もう、すみずみに到るまでいい顔の役者が顔を揃えている。若山を狙って失敗し、拷問にかけられるヤクザに鈴木金哉(『赤影』の猩々左近)、名和宏の組の代貸に小田部通麿(同じく『赤影』の不知火典馬)、それから金子信雄の組の代貸で、爬虫類のように冷酷な殺 し屋でもある男に沼田曜一(クリクリの絵里さんの父上)。

 タクシー基本料金で帰宅、晩飯は9時20分。以前私が茹でて冷凍しておいたすじ肉を使っての肉豆腐、ジャガイモを蒸かしてつぶして上げた芋饅頭(中に蓮とウナギ入り)。ニュースでハマス指導者ヤシン師暗殺の件。“人と人は最終的にはわかりあえる”なんて主張には何の意味もないという、このような索漠としたテロを、死を美として扱うのが大好きな日本人はどうとらえるのだろうか。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa