裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

28日

火曜日

吉兵衛はなぜ遠くまで聞こえるの

 小田原・みのや吉兵衛商店の蒲鉾、干物、塩辛等は皇室献上品としてその名は遠く海外まで鳴り響いております。朝、6時半起床。天候は幸い回復。昨日書けなかった原稿を書き出す。しかし寒い。7時半、あらためて朝食。コーンと豆のサラダ。今日はコーンの甘味を出すためによく茹でてみた。まずまず。猫はやや、食欲が回復し、自力でエサを食う。しかしまだ、パタン、とくずおれる。狂牛病じゃないかしらんと K子が言う。

 昨日のアンソニー・M・ドーソンの件もあって、見のがしていた訃報がなかったかと検索してみたら、なんと18日にアラビアの怪人ことザ・シークが亡くなっていたのがわかった。享年72歳。火を噴く怪奇レスラーとして、真樹日佐夫/一峰大二の『プロレス悪役シリーズ』以来、日本のファンにおなじみだった。もっとも、梶原兄弟はあまりシークがお好きでなかったらしく、『悪役シリーズ』ではほとんどの悪役レスラーを“本当はいい人”として描いているのに、シークだけは汚いトリックを使う(香炉の煙にまぎれて美女アシスタントが相手レスラーにしびれ薬を塗った吹矢を吹くというお笑い)インチキレスラーとしているし、後の梶原一騎による『プロレススーパースター列伝』でも、新人レスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーを徹底していじめぬく悪役として描いていた。まあ私などの世代が見たシークはすでに50を超えた老レスラーでしかなかったが、それでも何度も何度も日本に招かれていたというのは、プロモーター業界の大立て者だったという他に、エンターテイナー・レスラーとしての実力が群を抜いていたからであろう。K−1もパンクラスも結構だが、商業的格闘技というものには絶対にケレンの要素が必要なのだ。彼に学ぶことが今の若手にも、まだまだ多かったはずである。高校生のころ、レスラーの発する奇怪な文句を暗記するというのが流行って、ブッチャーが“マカラカシトモマカラ”、タイガー・ジェット・シンが“ハッタラマタハタラー”、そしてシークが“マキマキッ”であった。大学に入ってからも、酒飲んで議論しながら、よくマキマキッ、とかわめいてい たなあ、あの頃。

 ミステリ作家の芦辺拓氏からメール。芦辺氏と言えばルーフォック・オルメスなんて若い人には誰も理解できない名前を平気で出してくる(この名を聞いて長新太のイラストを思い出した人は同志である)のを読んで笑ってしまった記憶があるマニアックなミステリ作家氏であるが、この日記の愛読者だそうで、恐縮。2月に行われる旭堂南湖氏の探偵講談の会へのお誘いであった。世の中には面白そうなことをやっている人がいっぱいいるものであるなあ、と嬉しくなる。その他、北海道新聞からは、懐かしモノのコラムで何かカラサワさん、書けるものがありますか、などとメールがくる。懐かしモノで書けるものがあるかどころか、それ以外の原稿というのをあまり書 いた記憶がないのだが。

 資料など買いに、また他の雑用もあったので外出。郵便局で古書代金とか振込み。六本木へ出る。乗ったタクシーの、50代くらいの立派な押し出しの運転手さん、表参道を通りながら“ああ、懐かしいです、この通り”と言うので、ほう、ここらへんよく来られたんですかと訊くと、“4週間前まで、この通りに私の会社があったんです”と言うので驚く。アパレル系の会社を経営していたんだそうだ。お定まりの不景気でうまく回っていかなくなったんで、去年の末で畳んでタクシーの運転手になったのだという。“実はもうひとつ、パソコンのシステム関係の会社も友達と始めたんですが、そっちはまだ準備段階で、儲からないし、時間が余っているんで、タクシーの運転手でもと思って”と笑う。なんでタクシーかというと車が大好きなのだそうで、社長時代は国際ラリー大会にも趣味で参加したことがあるとのこと。自家用車もランドローバーだったのだが、維持費がかかりすぎるので軽自動車に買い換えたら、
「驚きました、初めて軽自動車というのに乗りましたが、燃費が安いんですねえ」
 とニコニコ笑っている。もと大名が開いた汁粉屋に入ったような気分になる。

 家族で乗るときは娘に昔買ってやったBMBを使っているとか、次のチャンスのために、業務が終わるとトレーニングジムで走り込んで体力を養っているとか、いい育ち方をしたもの特有の楽天性があって、どこか焦点がズレている、そのズレ具合が何か好もしい。それにしてもよくまあ、タクシーやる踏ん切りがつきましたねえと言うと、“社長仲間で、やはりこの不景気で倒産したのがいくらもいるんですが、プライドに邪魔されて、働くことが出来ないのをたくさん見てますから。……私にもプライドはありますが、それは「どんな状態になっても生きていく」ことへのプライドですよ”とソフトな口調で言う。とはいえ、54歳になると道を覚えるのがつらい、と笑い、“社長時代に都内の道はほとんど走り回ったつもりでしたが、それは運転手つきで、やはり後部座席で知ってる道と運転席で見る道とは勝手が違いますからねえ”と 首をふる。何か根本的なところでアテられた十数分であった。

 ABCで買い物し、メシをどこかで、と思ったが、トツゲキがなくなると六本木ではついぞ、代替が思い浮かばない。明治屋でミニカツ丼を買い、家に帰ってレンジで温めなおしてこれを食す。カツ丼というのはどこのものを食っても味がさほど変わらないので安心な食い物だ。極めて偏食であった司馬遼太郎も、日本中どこへ行っても カツ丼があるので旅行が苦にならなかったという。

 と学会関係ML、官能倶楽部関係パティオなどに連絡いくつか。懐かしい本の題名が出て来たり。河出Sくんから電話、連絡とれない執筆者の電話番号など確認。雑用で頭がテンパってしまって、なんだかわからなくなる。K子が獣医から猫を連れて帰る。レントゲンもとったが、脊椎・足ともに異常なし。神経痛みたいなものなのではないかと思う。獣医さんに“狂牛病なんじゃない?”と言ったら強力に否定されたと のこと。K子はそれからフィンランド語教室に出かける。

 9時半、東新宿へ向かう。幸永、ちょうど本店も分店も一杯になったところだったが、K子が寸前に来て席をとっていたのでスンナリ入れた。改装された本店は竹などを壁にあしらい、換気装置も最新になり、初めて入った頃の、東急ハンズで買ってきましたというようなダクトがぐにょぐにょと何本も天井をうねくっている、脂がそのダクトの口からときどきぺとん、と落ちてくるような、安っぽい雰囲気は全くない、高級ホルモン店というおもむきになり、居心地はいいがちと寂しい。まあ、今の東京でこれだけうまい店が人知れずいられるなんてことはできない相談だろうけれど。

 コンロと網は以前のまま。で、メニューを見たら、なんと、豚骨タタキがない。あれ? と思い、何度も見返したがやはりない。店員さんに“豚骨タタキはなくなったの?”と訊くと、イエ、アリマスヨとの答え。だってメニューにないよ、と言うと、アレ? アレ? と首を傾げている。新しいメニューを作るとき、うっかり入れ忘れたらしい。前から来ている人たちはメニューなど見ないで注文するから、気がつかないでいたらしい。とりあえず、消えてなくてホッとする。あとはいつものテールスライス、極ホルモン、豚足にレバ刺し、テールスープ。味は変わらず。ただ、最後に頼んだ冷麺がちょっと変わって、以前は水キムチの汁みたいな透明なスープだったのだが、白く濁ったものになっている。豚骨スープを混ぜたのか。味は以前のものよりまろやかになって、さらにおいしい。これはバージョンアップだな。ホッピー2ハイ。以前の店はドアの隙間から寒風がヒュウヒュウ吹き込んできたが、改装されてそこは快適になった。帰りがけに店のお兄ちゃんに、豚骨タタキをメニューに入れておきな さいよ、と言って出る。

 帰宅して、猫のエサ皿を見るが、やはり食べていない。食欲がないのか、と思ってエサ皿の前に連れていくと、急にむさぼり食いはじめる。それも、いままでは缶詰が好きで、乾きエサはやってもあまり喜んで食べていなかったのに、缶詰の方でなく、乾きエサの皿の方に顔をつっこみ、鼻息も荒くバリバリと噛み砕いて食べている。病気で嗜好が変わったのか、と思っていると、おもむろに今度は缶詰のエサの方に移って、それも猛烈ないきおいでムシャつきはじめる。どうなっているのか。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa