裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

25日

土曜日

親子は一世、夫婦は二世、ルパンは三世

 泥棒は四世(よせ)。朝方、どこか大きな居酒屋のようなところにぎゅうぎゅうに人が入っていて、私が着席している席の後ろに黒澤明とビートたけしの二人連れが来て座り、いろいろ仲よさげに雑談などしているのに聞き耳を立て、有名人の話を聞けてラッキーだなあ、と喜んでいる夢を見る。辻元清美なんかも出てきた。寝床の上を猫が歩くが、何か後ろの方の左肢が動かないようで、ビッコを引きながらのたのたと歩いている。K子は、どこかに飛び乗ろうとして落っこちて骨折か捻挫でもしたのではないかと言う。しかし、だったらもっと痛がる筈だ。ただ、歩きにくそうなだけで ある。

 朝食、コーンとモヤシのスチーム。モンキーバナナ。ニューヨークの母から電話。プロバイダがフリーダイヤルなのでこっちからはかけられないので、アクセスポイントを聞いてくれという件。さっそくかけて聞き出す。母が契約しているプロバイダはニューヨークにアクセスポイントがないので、他のところを借りることになるとのこと。その件をオウム返しに伝える。その後何にも言ってこないところを見ると、うま くつながったか? メールはまだだが。

 ラエリアン・ムーブメントが日本人のクローンを作ったと発表。海外でこの騒動以来、信者数が増えているとのことなので、日本でも一丁、と信者数拡大をねらったのであろう。あれだけアヤシゲな情報でも人は信じてしまう。どうしようもないとは思わない。人は何かを信じていないと生きていけない動物なのだ。信仰の問題をなおざりにしてきたがために、このようなアヤシゲな宗教にまで、人は頼らざるを得ない状 況になっているということである。

 昼はその母の送ってきたカレー。ひと瓶は平塚くんにあげたのだが、今回のは水っぽくていつものよりは不出来である。渡米前夜にあたふたと作ったやつだからか。食べて仕事、1時半に家を出て四谷へ。梅田佳声先生『猫三味線』通し公演。四谷駅前でベギラマを待つが来たらず、連絡ミスだったかも、と気にしながらコア石響へ。朗読会などによく使われているスペースらしいが、非常に入り組んだ路地の奥にある。入るとお菓子をくれた。紙芝居の感じを出そうとしたんだろうが、残念ながら高級菓 子である。もっと安っぽい駄菓子でなきゃ。

 会場は40人程度の入り。寒いので年寄りは外に出ないのかもしれない。丸の内線で事故があったそうで、それで開演時間に遅れて、間に合わないと思って帰った者もいるらしい。ちょっと寂しい客の入りであった。しかし、梅田先生は元気いっぱい、例によって拍子木を鳴らしつつ現れて、『猫三味線』にかかる。内容はこの裏モノ日 記の2001年5月2日に、前半のことが語られている。

「旅の宿で同宿した商人を自殺に見せかけて殺し、その商人の家へ乗り込んで娘をたぶらかし、乗っ取ってしまう悪侍、高大三郎が主人公。その商人の飼い猫、お玉が一人(いや、一匹)だけ大三郎の悪人であることを見破り、敵意を示すのだが、大三郎はかえってお玉をとらえ、三味線屋に命じて、自分の妾が弾く三味線の皮にしてしまう。しかし、猫の怨念は、大三郎が店の娘に孕ませた子にのりうつり、生まれた赤ん坊は猫の顔をしていた……という、陰惨なもので、ここまででなんと長講一時間二十分。首吊りに見せかけて殺された商人が発見されるのが、旅籠の下女が庭で見つけた目玉(カラスがほじくった)から、というところや、その幽霊が岡っ引きのところへ訴えに出てくるとき、首吊り死体なので首が長く延びており、幽霊と知らずにそれに対面した岡っ引きが“はて、首のやけに長いおひとだ”などと独りごちるところ、三味線屋が見ている前で大三郎が猫を絞め殺すところなど、見世物的なブラックさで、絵も語り口調も極めてアナクロ、私は大満足だったが、女性客などはヘキエキしてい た様子」

 今回はその後半も。猫の顔をした子を生んだショックで娘は発狂(その母はショック死)して、行灯を倒し、店は火事になって、全員焼死。子供だけは番頭が助け出すが、大三郎はその番頭を殺して赤ん坊ごと川に投げ込んでしまう。しかし、番頭の亡霊が赤ん坊をつれて娘のお時のもとに現れ、この子を育ててくれと言い残す。お時は家の屋根裏にその子を隠して育てるが、とうとう村人にかぎつけられてしまい、その猫娘はいずこともなく姿を消す。一方、大三郎は殺した商人の後を継ぎ、二代目喜助となって、妾のお清を正妻に直して家に入れ、二人の子まで作って、店も以前にまさる繁盛。あるとき仲間内の寄合で料亭に行くと、芸者になったお時が座にはべる。喜助が父の仇と知るお時は、庭で喜助を刺そうとするが、逆に喜助はこれを返り討ちにして殺してしまう。死骸の処理に困った喜助は、料亭の板前の宗介に頼んで川に捨ててもらおうとするが、その宗介を猫の子供が襲い、お時の死骸を取り戻す。一方喜助は、しめ殺した玉の皮で張った三味線の音に精神錯乱を起こし、自分の息子を殺してしまう。われに返って自分のしたことに愕然とした喜助は、お清と娘を連れて田舎へ逃げる。だが、そこまでも追ってきた猫娘は、喜助の娘を殺し、お清も殺すと、断崖の上まで喜助を追いつめ、喜助と共に下の滝壺の中へと真っ逆様。人々が見守る中、喜助の死骸の上で三味線をかきならしつつ、猫娘もまた、渦の中へと姿を没し、後に三味線だけが浮かびあがってくるのであった……。というもの。

 ストーリィは単純な因果応報ものだが、善人悪人関係なくボコスカ殺され、何の救いもなく、最後は水の底へ、憎むべき仇であるわが父親と共に黙って沈んでいく猫娘の姿には、何か巨大な運命(因縁)にもてあそばれる卑小な人間のアナロジー的なものが感じられ、一種の異様な感動を禁じ得ない。しかし、ここでストーリィを紹介しただけでは『猫三味線』は理解できまい。紙芝居というものは演者がその7割を受け持つ話芸である。このドロドログログロなストーリィを梅田佳声という人は、極めて軽妙に、笑い(ブラックなものではあっても)を交えつつ進行させる。尻取り歌から都々逸、謡、物売りのかけ声、“ねんねん、猫のお尻に、カニが這い込んだァ……”という、一昔前なら(いや、二昔か?)誰でも知っていた、えらい大人の前では決し歌うことができない、だからこそ歌い続けられてきたナンセンス替え歌など、およそ庶民が親しんできたコトバ遊びというものを全て押し込んで、陰気な怪奇劇を伝統性の中に蘇らせた。われわれがものごとを“芸術”のワク内でしか評価できなくなってから忘れ去られていった大衆芸能を掘り起こして示してくれたのである。

 このホール、使い勝手などがよければこちらも何かで、と思ったのだが、出入りが不便な上に寒く、第一場所がわかりづらい。途中休息の折に水飴が配られたが、紙芝居と言えば水飴、という“型”の縛りからは、もう脱してもいいのではないか。佳声紙芝居はすでにレトロ芸から脱して新しい伝統芸能にまで昇華されているのだから。

 佳声先生に挨拶して帰宅、K子は猫を病院に連れていった。猫の話を聞いて帰ったあとだけに気になるが、原因は不明。加齢で脊椎にどこか故障が出たのではないか、ということ。クスリが出たが、ビタミン剤あたりらしい。食欲がないのがちと心配なところである。Web現代原稿アゲてメール。ふう。9時、神山町花暦。土曜で空いている。刺身、アジ塩焼き、砂肝唐揚げ、おでん。今日はアジはそれほどでもなし。代わりに、というわけでもなかろうが砂肝絶品。ここでバイトしているK子のアシの子は、この店の通路の窓(地下一階にあるので、階段のところの窓から、店が空いているかどうかをのぞける)から、幽霊がのぞく、という怪談をやはり聞かされたそう である。

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