裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

10日

金曜日

君たちキウイ・バンパイア・マンゴーだね

 そう言えば『フライトナイト』の吸血鬼は血を吸わないときは果物を食っているという設定でした(蚊みたい)。朝、知り合い総出演的な夢を見て(内容はつまらず)7時15分起床。朝食、バジルスパゲッティ。テレ朝『スーパーモーニング』で平沢勝栄議員が“北朝鮮からの亡命はプロの亡命屋が関与していて、彼らはその支払いを日本政府に求めている”と発言、鳥越俊太郎も渡辺宜嗣も知らなかった事実らしく大いに驚き、それをめぐってさかんにやりとりという一幕あり。この平沢という議員、田中真紀子騒ぎの時には彼女の代弁者という立場で大きく名前が出、その後北朝鮮騒ぎが起こったときにはその問題の専門家として大きく名前が出、と何か最近のニュースで常に目立つポジションを確保している。もっとも、例の松文館社長逮捕もこのヒトが支持者から焚き付けられて警視庁に指図した、という噂があるが。

 トゥーンML関係で書き込み少し、ネット古書店さんとの連絡も少し。それから書き下ろし原稿に入って、どうだこうだと。午前中はあっという間にすぎる。四街道の『懐古館ろびん』(閉店してます)の片平さんの息子さんから昨日葉書でちょっとある件で連絡あり、葉書にあったe−mailアドレスになんべんメール出しても戻ってきてしまうので、こちらも葉書で返信を書いて速達で出す。

 1時45分、新宿までタクシー、そこから中央線で阿佐谷。Web現代の写真撮影 で中野なのだが、その前にこの連載で阿佐谷の、学生時代の下宿跡を訪ねてみる、というのが出来ないかと思い、前調査に立ち寄ってみた。改装中の駅北口を出て、生まれて初めて自分の口座を作った三菱銀行阿佐谷支店(いまだに私のカードの暗唱番号はこのときの数字だ)とダイヤ街脇の商店街をずっと抜けて歩いてみる。ポツンポツンと新しい建物が建っているが、いやしかし、驚くほど当時(二十四年前)の光景がそのままに残っている。入り口すぐ脇の菓子パン屋はパン売場はきれいに改装されていたが、タバコ売場の窓口はあの頃と同じ。当時は痩せて背の高い、白い口髭を生やした、『地底探検』のピーター・カッシングそっくりの爺さんが店番をしていたが、さすがに代替わりした模様。雰囲気はいいがあまりうまくなくて、学生時代も一度くらいしか入ったことのない洋食屋も健在。もっともその隣の、大きな赤ちょうちんの破れたのをブラ下げていたホルモン焼き屋は無くなっていた。ここは後に植木不等式氏や松村克也監督と再訪したことがあるが、ホッピーなる飲料の味を初めて知ったところであり、見知らぬ相客と青臭い芸術論だの政治論だのを戦わせたり、イカサマ競馬師のオヤジさんから、競馬の八百長のやり方のノウハウを伝授されたりしたこともあったところだった。

 この通りを最後に訪れたのは7年前のちょうど今頃、ガロの長井勝一氏が亡くなって、南阿佐谷の自宅にお線香をたむけに行ったときだった。とり・みき氏とかも誘ったのだが“私はガロ出身作家じゃないから”と断ってきて、こういうところで屈折しているからこいつはダメなんだとかブツブツ言いながら、結局一人で行った帰りにぶらついたのだが、そのときはさほどの感傷も抱かなかった。今回、そのときに倍加して胸がしめつけられるような思いになったのは、私が老化した証拠だろう。“オバケ屋敷”と呼ばれていた廃屋は7年前にもう取り壊されて駐車場になっていたが、もう一軒、その先にあって、草木が庭にボウボウに茂り、空き家のように見えて中からラジオ(しかも必ず洋楽)がいつも聞こえてきていた家は、なんと庭の木々などが一応(雑駁にではあるが)手入れされていて、その全貌を初めて拝むことが出来た。こんな大きな屋敷だったのか。そのかわり、ラジオの音は聞こえなくなっていたが。

 なをきの『ホスピタル』のモデル(もちろん、外見のみ)になった河北病院は入口近辺が改装されていた。徳川夢声から寺山修司まで、有名人が多数この病院で息を引き取っていることもあるが、いろいろと当時から問題あるウワサも流れていて、“シニキタ病院”などとも呼称されていたが、ますます繁盛っぽいのはめでたい。世界で一番甘いぜんざいをくわせる『うさぎや』も隆盛らしく客がいっぱい入っていたが、その近くの、当時から“商売なりたっているのか?”と不思議だった靴・地下足袋の店は閉ざされていた。

 さらに奥へと歩いていき、冬の陽射しが最後の輝きを保つ2時過ぎの晴れわたった空に、『玉ノ湯』の煙突が立っているのが見えたときは無性にうれしくなった。阿佐谷で二度目の住居となった近藤サマ離れの隣りにある大きな銭湯で、学生街らしく夜中の一時過ぎまでやっており、ここあるによって私の阿佐谷生活は優雅なものになっていた(なにしろ、札幌の家で二階の私の部屋から風呂場へ行くよりも、この銭湯に下宿から行く距離の方が近かったのだ)。そして、その隣の下宿が……仰天したことに、これがそのまんま、残っていたんですねえ。表に面した弁当屋こそ無くなって空き家のようだったが、その奥の大家の婆さんの住居も、その奥の離れも、しっかりそのままで残っている(路地に扉が附けられていて中には入れなかったが)。『近藤』と書かれた紙の貼られた郵便受けもそのままである。まさか、あの婆さんが生きているとは思えない(私たちの下宿していた当時すでに八十代)が、娘がまだ住んでいるのだろうか。

 探索はそこまでにしよう、と思っていたのだが、この離れが(取り壊し待ちのようにも思えたが)残っていたことで、もう少し足を延ばし、東京で最初に住んだアオイ 荘の方まで行ってみよう、と、名物の五叉路(阿佐谷駅、中杉通り、早稲田通り、高 円寺方面、馬橋公園方面への5本の道が交わる)を越して行ってみる。右側にあった戦前の床屋をそのまま残したような理髪店はもうかなり前に閉めたようで、しかし店などはまだそのまま。よく揚げ物を買ったり、当時もう珍しかったおそ松くんふりかけなどが売られていた、名物の大橋惣菜店も跡形もなし。後でネットで検索したら、平成10年にご主人の体調不良で閉店してしまったのだとか。ここのハムカツとポテトサラダを買って(フトコロに余裕のあるときはエビフライ)、玉ノ湯で一風呂浴びたあとそれをサカナに飲む缶ビール(ビールを買うのは下宿から一軒おいた、ちょっと小林麻美の目と目の感覚を広くしてみました、という感じの美人の奥さんがいた酒屋。これは健在)の味はいまだに忘れられない。私の好みを覚えてくれて、トンカツの揚げ加減を軽くしてくれていた奥さんは元気かな。おおいとしのぶくんの奥さんにそっくりだったんだが。

 で、その先を歩く。ここから先は住宅街で、さほどの思い入れもなし。しかし、若かったとはいえ、当時から“駅から遠いなあ”と思っていたが、やはり今歩いても遠い。近藤家の離れが駅から五分で、アオイ荘はそこからさらに七、八分歩く。友人などに道を教えるとき、“まだ歩くのか、どこかで間違えて通り過ぎてしまったんじゃないか、と思った頃に倉庫が見えるから”とよく言っていたバラック建ての倉庫は、まだそっくりそのまま。しかし、その先にはちょっとお洒落な住宅が並んでいて、
「ああ、やはりもう建て直されたか」
 と、おかしなことにやや、ホッとしたのだが、そこでどうも記憶がトンでいたらしく(上記の道案内が頭にあったからだろう)、その二軒の家の先に、なんと、全部当時のままで、ありましたですよ『アオイ荘』。ひと気はなかったが、“瀧澤”という表札もそのままで、雨戸も開けられて、まだ住人がいる模様。ではあの婆さんがまだ生きているということか? 7年前、訪ねたとき偶然にもこの婆さんに会って、ソバをおごられてしまった。そのとき、もう90近いと聞いていたのだが、すると今、何歳なのか。ちょっと恐ろしくなった。二階の下宿部分へ通じるドアも、当時のまま。ここの玄関で、あの頃つきあっていた彼女と……イヤそこまで思い出すこともない、と記憶をうち消したが、意識の上では唐突にタイムスリップを起こした。

 私はノスタルジック派のように言われているが、それは思い出というものが失われているものだからで、こうまで自分の過去のようなものがそっくり残っているとなると、感傷というよりなにやら古い傷のようで、いささか胸焼けがする。美化しようもない記憶というのはヤッカイである。なにやら頭がクラクラするのを覚えて、駅の方へと歩き出す。近藤家のあたりをフラフラしながら歩いていたら、向こうから歩いてきた女の子が“あら!”と手を振った。一瞬、あの頃のあの子が出現したか、と思って(そうなるとトワイライトゾーンの世界だ)、ギョッと立ち止まった。が、よく見ると最近の記憶にある顔だ。なんと宇多まろんだった。カレシと手をつないで歩いている。驚いた偶然で、今の彼女はここのすぐ近くに住んでいるのであった。いやあ、しかし西手新九郎、憎い演出をするものだ。彼女に出会えたことで、妖術が溶けたように、意識が現在に引き戻される。新年オメデトウを言い、20日のロフトの打ち合わせも兼ねて飲もう、と約束して、別れる。

 気がつくと2時半、30分間の過去への小旅行。昼飯を食っていなかったことに気がつき、蕎麦屋の『太古久』へ入る。またここで瀧澤の婆さんに会わないか(7年前はここで顔を合わせた)と思ったが、おらず。天せいろを食う。当時より味は上がったように思う。食って駅前の和菓子屋『鉢の木』で花びら餅を買うと、時間きっちりとなり、中央線で中野へ。Web現代Yくんと落ち合って、中野ブロードウェイの写真撮影。阿佐谷の件も話すが、あまりに自分一人の思い出ばかりで、こりゃ原稿にはならんな。撮影は一時間程度で終わる。いままで知らなかったが、すでに一階にもオタクショップが侵出していたのだね。まんだらけの生原稿やサイン色紙売場で、いまさっき会ってきたばかりの、まろんちゃんのカレシの原稿があったのに苦笑。ウワサの、秘密の地下2階への階段というのは見つからず。残念。ルノアールで今後の予定打ち合わせ。今度の連載はエロがあまりないので読者が減っているのではないか、と心配だったが、そんなことはない模様でひと安心。

 中野厚生会館で古書即売会をやっているので、Yくんと別れてそこをのぞく。日輪閣の『秘志生態風俗選』のバラなどがあったので何冊か。あと、昭和三十年代のものいくつかで、数千円使った。中央線で新宿へ。そこからタクシー。少し体を休めて、来ているFAX、メール等に目を通す。

 8時半、家を出て参宮橋『クリクリ』。ケンとエリーの二人に新年の挨拶、花びら餅を進呈。すぐ食べて、喜んでくれた。もっとも、鉢の木の花びら餅は昔に比べ、味が落ちた。餅が固くならないように砂糖を入れたためだと思う。料理はトマトとセロリのサラダ(各種チーズのみじん切りがソースの代わりをつとめる)、タルタルステーキ、仔羊のロースト、自家製パスタ。K子も大満足。四人で雑談いろいろ。他のお客さんもいたのにすまんことでした。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa