26日
日曜日
夜霧よ今夜も麦芽糖
昨日、水飴なめながら思いついたシャレ。“麦芽糖の盗賊”なんてのも考えた。朝がた、猫がよったかよったかと布団に入ってきて、寝床の中にいるK子に体をぴったりとくっつけてじっとしている。心なしか、顔も体もひと回り小さくなったようだ。ひろってもう十四年、いつまでも子猫みたいな甘え方ばかりしているので気がつかなかったが、もう老猫なんだよなあ。K子は例によって、“安楽死ってどうやるのかしら”などと言っているが、その裏で、足を悪くしている猫が階段を上がり降りするのが大変だろうと、上下のフロアに、共に寝床とエサ、水、トイレなどを用意してやっている。何と優しい。人間にこの優しさをどうして(以下略)。
朝食、ソラマメ(昨日四谷の帰りに丸正で安かったので)を、K子には他の野菜と炒めて、私はモヤシと一緒にスチームして。モンキーバナナ2本。読売新聞日曜読書欄の評者で、文章の末尾に“冬の夜長にぜひどうぞ!”と書いている人がいた。この “冬の夜長”にちょっとひっかかる。
文法的に言えば間違いでも何でもない。意味の上からもそうだろう。冬は確かに夜が長いわけだし。しかし、日本語において、本来、“冬の夜長”という言葉はない。もともと夜長は季語で、秋の夜の形容なのである。“夏の短夜”と対になる言葉として“秋の夜長”がある。ちなみに春は“日永”、冬は“短日”がヒルヨルの長さを表す季語である。単に夜が長い、という意味ではなく、“ああ、いつの間にか夜が長くなった。秋なのだなあ”という季節のうつろいに対する詠嘆が込められている言葉なのだ。もちろん、現代人はこんな季語だの季節のうつろいだのというものにこだわってなどいられない。“秋より冬の方が夜が長いのだから「冬の夜長」で何が悪い”と言われればそれまでだ。広辞苑でも、“多く秋の夜にいう”とはあるが、別に秋の夜に限ったこととはしていない。しかし、単なる言葉咎めと言われることを承知で言えば、まだ、“冬の夜長”という言葉は日常日本語にはなりきっていないはずだ。語感の優れた人(私はそういうわけでなく、ただ単に季語の知識があったので引っかかっただけだが)であれば、どこかに落ち着きの悪さを感じる用法であることは確かだと思う。それは、例えばGoogleで検索してみれば、“秋の夜長”でヒットするのが約4万5000件、“冬の夜長”が約1200件という結果が出ることを見てもあきらかだろうと思う(しかもこの1210件の中には“なぜ「冬の夜長」とは言わないのか”という内容のものも含まれている)。確かに誤用もテクニックのうち、ではある。私も強調のため、意識的に誤った使い方を用いることがある。が、ここのは意識的なものではよもやあるまい。ものを書く商売、まして多くの読書人が目を通す書評欄に文章を書くものであれば、語の使用には油断あるべきではないと思うのだが。
母から電話、結局ソフトをダウンロードする必要があるらしく、平塚くんに頼んで送ってもらうことにする。仕事わさわさ。猫が歩き出そうとしては、左後肢が効かないため、左側にぱたん、と倒れる。まだ、自分の体にどんな異変が起こったか、認識できないのだろう。あわれである。この寒さで神経がやられたのか。暖かくなれば、元にもどりはしないかとも思うが、そうもいかんだろうなあ。昼は外に出て、新楽飯店で五目焼きそば。濃いめのあんがうれしい。食べ終わって帰ろうとしたら、店内にいた渋谷系の若いお客さんが立ってきて、握手を求められる。オタク大賞を見たとのこと。突然のことで、アア、ソレハアリガトウゴザイマス、今後トモヨロシク、イヤイヤ、ハアハア、ソレデハドウモ、程度しか口から言葉が出なかったのは情けない。こういうときに気のきいたことのひとつも言わねば、と思う。
それからHMVでしばらく時間つぶしをした後、東武デパ地下で食料品買い込み。帰宅して、コミックボックスのアニメ特集用の作品解説原稿を書く。昨日のニュースで、ジャンプの現役編集長高橋俊昌氏が24日に死去との報。ワンピースの映画の製作発表の最中にいきなり倒れて亡くなったとのこと。使い古された言葉ではあるが戦死、というのが最も適当している。死を悼みながらも、同業者間の会話は“いつかはこういうことになると思ったが”に収斂されていくであろう。出版関係者の葬儀の席での話は“この仕事は体に悪いでなあ”というものばかりで、作家組合だか石屋の組合だかわからない、と嘆いたのは阿川弘之だったか。私もこのところ、朝方など、心臓のへんがケッタイしたりしている。人ごとではない。まあ確かに、体には悪い仕事 だでなあ。
しかし、悼みはしても同情はあまり出来ないのはその直前に『B−GEEKS』の10号で、ジャンプの短期間打ち切り作家たちの悲惨な有様を紹介した『ちゆまんが大王』を読んでいたせいか。今年の新年第一号で切られた(何もおめでたい新春第一号で切らずとも)という道元宗紀など、この訃報をなんと聞いたか。1998年、新連載がわずか15週打ち切りのあと、まだ20代で“ストレス性栄養失調”でこの世去ったしんがぎんという人もいる(まだ高橋編集長就任前であるが)。いや、とはいえプロの世界だ、こういうことは最初から覚悟の上でなくてはマンガ家などになれはしない。しかし、マンガ雑誌編集というのは、常にこういう消えていった者たちの怨念を肩に背負う、因果な職業だということは覚えておいた方がいい。
永瀬唯氏から電話。母堂の看病のこと、SF周辺の言論人の月旦如例。8時半、夕食の準備。K子はエサに混ぜた薬を食べようとしない猫に、錠剤をスリつぶして溶かし、スポイトで口に注入しようなどとして四苦八苦。夕食は大根鍋。短冊に切った大根をネギ、生姜と共に胡麻油で炒め、昆布と鶏で出汁をとった鍋で煮て食べる。あと生ハム、豆腐のあんかけ。DVDで『サインはV』いよいよBOX最終巻に突入。ミリ役の泉洋子、“明るすぎてみんなに嫌われる”という、これまでの、いや、これ以降もひょっとして少女モノにはないのではないか、というキャラクター。よくこいう設定をひねり出した、と感心するが、欠点は、ジュン・サンダースが嫌われたときは視聴者はジュンの心をおもんぱかって彼女の味方をしたけれど、ミリの場合は見ている方も一緒になって腹を立ててしまうことだろう。そのミリからジュンの欠場というニュースを引き出す悪役(だろうな)の新聞記者に砂川啓介。ドラえもん大山のぶ代の旦那だが、特撮つながりでいけば『超人バロム1』の松叔父、木戸松五郎。この松五郎役は就職試験の万年浪人という役だが、この設定、同じ砂川啓介が演じた『意地悪ばあさん(初代青島幸男バージョン)』の万年浪人生、万年浪男からそのまま引き継いだような気が。
その後、『弾丸特急ジェット・バス』。冒頭のナレーション“飛行機が墜落する映画があった。船が転覆する映画があった。ドイツの飛行船が破裂する映画もあった。……今度はバスだ!”でわかるように、当時(1976年)大流行だった乗物パニック映画の大パロディ。原子力エンジンで突っ走る大型観光バスというアホ設定(内部にボーリング場はある、プールはある、ピアノの弾き語りつきのバーはあるというウルトラ豪華バス)の上に、乗り込む客が『M★A★S★H』のサリー・ケラーマン、TV『ソープ』のリチャード・マリガン、『ローズマリーの赤ちゃん』のルース・ゴードン、『トム・ジョーンズの華麗な冒険』のリン・レッドグレイブ、ドイツの飛行船破裂映画『ヒンデンブルグ』にも出ていたルネ・オーベルジョノア、『刑事コロンボ』のフレデリック・ウィルソン刑事ことボブ・ディシー。バス爆破をたくらむ石油組織の、鉄の肺に入った(その中で女を抱いたりしちゃう)黒幕になんと名優ホセ・フェラー、バスの開発者の博士に『スティング』のハロルド・グールド、バス運行オペレーターに『スーパーマン』のネッド・ビーティ、医者に『可愛い魔女ジニー』の殿役ラリー・ハグマン、ガタイはベラボウにいいのにショックに弱く、すぐ気絶してしまう副運転手に、『ローラーボール』のジョン・ベック、そしてヒロインは最近メチャ渋い名女優になったストッカード・チャニングが、清涼飲料水の洪水でおぼれかかるという凄まじくアホなシーンを体当たりで演じており、彼女の昔の恋人(お定まり)で、バス運転の天才だが、以前冬山で遭難したときに乗客全員を食って生き延びたというあらぬ噂(本当は足一本しか食ってないのに)を立てられ、やさぐれているヒーローに『第二章』のジョゼフ・ボローニャが扮している。ふう、くたびれた。この他、『遊星からの物体X』や『トワイライト・ゾーン』にも出てきた顔だが、何という名前だったか思い出せない人もいる(ああ、イラだつなあ)。とにかく、これだけの顔ぶれが、馬鹿馬鹿さの極みといったギャグを大まじめに演じている。また、感心なのはギャグの数がとにかく多いこと、馬鹿馬鹿しいギャグほど丁寧に撮っていることで、同じパロディでも大味な『ホット・ショット』などよりよほどワサビがきいていて、絶対に世間的評価はされない作品なのかも知れないけれど、私の中ではコメディ作品の中でもかなり上位に入る傑作なのである(いずれ、この作品を中心にしてパロディ論・ギャグ論を書こうかと思っている)。