裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

12日

日曜日

トリビア・ニュートン・ジョン

 母方の祖父はノーベル物理学賞受賞者、マックス・ボーンである。朝7時半起床。それほど寒くもなし。朝食、K子に焼きチーズサンド、私はコンソメ(オニオンではない)スープと温泉卵。果物、モンキーバナナとオレンジ。入浴の最中に、母から黒豆の補充などが届く。母はK子の特訓空しからず、デジカメ画像をメールでK子や豪貴に送ることに成功した。以前、電話の留守録の解除法がわからず泣いていた68歳にしては実に大した進歩である。

 読売新聞日曜書評欄、メンバーが一新してから、あまり個性的な書評子というのがいなくなったな、と思っていたが、最近はそれぞれかなり手慣れてきて、紹介に工夫をこらしはじめているのは好もしい。東大助教授の佐倉統氏は今回、人間の自己認識の問題を扱った神経医学者トッド・ファインバーグの『自我が揺らぐとき』(岩波書店)の書評の中に、全くジャンルの違う『唇が動くのがわかるよ〜腹話術の歴史と芸術』(V・ヴォックス、アイシーメディックス刊)のことを持ってきて、視点を多面化させようと試みている。持ってきかたが必ずしもスマートでなく、収まりよく挿入されているとはお世辞にも言えないが、その試みは評価されてしかるべきだろう。

 それに比べて、工夫もなければサービスもない、それどころかまったく読書意欲をそそらない、何だこれはと読んで呆れるのが、今回もまた作家の大原まり子氏の書評である。この人の書評の下手糞ぶりは以前にも何回かこの日記で取り上げているが、とにかく文章がひどい。取り上げるポイントをつかむカンというようなものに徹底して不足している。そして、TPOを心得ていない。以前にこの欄で書評を担当していた東浩紀氏も、腰の定まらぬ下手くそな文章と評価基準のマンネリズムで、読むたびにこちらを呆れさせていたが、大原氏の書評を読んでいると、東氏はまだ文章が上手 だったのではないか、とさえ思えてくる。

 読売の書評委員による書評欄は通常、長文評(21文字×37行)五つと、短文評(出版社名、値段含めて21文字×20行)四つで成り立っている。今回大原氏の評が置かれているのは短文評の方、すなわち僅々四二○文字の中で、どう一冊の本の内容、刊行意義、そして読みどころのポイントを示して読む者の読書意欲をそそるか、で評者の腕が問われる場所である。原稿用紙一枚強のスペースでは、とても一冊の内容全ては語りきれない。いきおい、イメージ中心の書評となる。例えば今回同じ短文評を担当している早大名誉教授の子安美知子氏は、森洋子・著『子供とカップルの美術史』(NHKブックス)の、帯にも謳われている“図像学”という、この本のキーワードをそっくりカットして、一言も評の中に用いていない。そのかわりにただひたすら、この本の図版に描かれている子供たちの生き生きした姿と、ある年齢以上の読者には共通認識となるであろう懐旧的感傷に筆を費やしている。一般読者に耳慣れない図像学という、解説を要する単語を入れてはこのワクの中では語り切れない、という判断からだろう。またノンフィクション作家の工藤美代子氏も、相撲史の労作『史談 土俵のうちそと』(武者成一、雲母書房)の紹介を、著者の相撲に対する愛のことを中心にして語り、内容は第一章のざっとした紹介のみに止めている。煩雑を嫌った、いわば読者本位のサービスだ。それぞれに工夫がある、と言うか、この文字数で本を紹介しようと思えば、工夫がなくては書けるものではないのである。

 ところが大原まり子氏は、ここで評すべき本(ちなみに瀬名秀明の短編集『あしたのロボット』。これをとりあげたのは、別に『CUT』2002年11月号で山形浩生氏が同作を、あまり褒めて評さなかったことへの反発、ではないと思うが……)の内容を、ただダラダラと並列に述べ立てるのみなのである。作者紹介で三行、本全体のテーマらしきもので三行、残り十四行で『ハル』『夏のロボット』『見護るものたち』『アトムの子』(『アトムの子ら』と誤記)の4本と、連作ショート・ショートの内容を全部紹介しようという無謀なことをやらかす。ざっと勘定しても題名込ミで一本につき三行弱。いくら短編でも、たった六十余文字で内容を完全に紹介できるわけもない。それぞれに舌足らず、そして自己満足のものにしかなっておらず、ここからこの本の魅力、著者の描きたかったことなどを読みとれるほど眼光紙背に徹した読者がいようはずもない。“人とロボットと犬による地雷除去作業が、どこかアニミズム的な感覚を呼びさます”(『見護るものたち』)など、いったい地雷除去とアニミズムがどう結びつくのか、判じ物めいた感想でしかなく、これでジレて本を手に取る読者よりは、理解不能で読む気をなくす読者の方がまず十数倍はいようと、わかりそうなものではないか。本の全体像を俯瞰するためにやったと言いたいのかも知れないが、それならば何故、『亜希への扉』一本だけは紹介されないのか。出来が落ちるわけでもなかろう、“楽天ブックス”の新刊紹介等ではこの作品を第一に推しているくらいなのだから。

 本書全体のテーマらしきものに触れた四行目にこうある。“人はなぜロボットに惹かれるのか。私たちの欲望がロボットというカラッポの器に投影され、ロボットの存在が、逆に人間を照らし出す”と。ところが最後には結論として(?)こんなことが語られる。“もしロボットに正義という目的を与えれば、「正義の名の下に殺人を犯す可能性がある」。果ては戦争であり、人間と同じだ。ロボットは、愛のない人々の似姿でもある”。正義もなければ愛もないカラッポの存在だからこそ、人間の本質を照らし出すのではなかったのか? 十行前に書いてたことと矛盾するような内容を平 気で書くほどこの著者はモーロクしているのか?

 いや、私は別にモーロクだとは思わないし、著者に論理的思考能力がないとも思わない。要はこの大原まり子という人には、与えられた字数を見て、その範囲内で語り得る最大限度の内容、その範囲内で工夫できる最も効果的な本の勧め方、というようなものを頭の中で構成する能力が、たぶん徹底的に欠けているのだ(それはこれまでの彼女の書評を読むとよくわかる)。それだから、書いているうちにスペースがなくなって、それを前後で調整するうちに、つい舌足らずなものになってしまうのだ。私はこの人の本業たる作家としての評価をここでウンヌンするつもりはない。しかし、書評と創作はおのずと別物だとはいえ、こうまで構成能力に欠けた文章を読むと、どうしても作家という肩書の鼎の軽重を問いたくなる気持ちがフツフツと沸いてくるのである。

 昼は外で回転寿司でも食べようと出る。が、日曜のこととて雑踏甚だしく、江戸一の前はちょうど昼時もあり長蛇の列。あきらめて東急本店地下の紀ノ国屋で買い物だけして帰宅、残っていたメシに梅ガツオのふりかけをかけ、サヤエンドウの味噌汁で一杯。アヤメ米なので冷や飯にふりかけだけでもうまく食えた。

 原稿、クルー誌エッセイ一本アゲ。昨日のランチョンをネタにする。朝、快楽亭から電話あって、2月11日(勤労感謝の日)、空いていたら横浜にぎわい座にまた梅田佳声先生と出演の依頼。予定確認のため連絡をちょっととったが、OKである。於さんなみの、百万石怪獣酒場から帰京の翌日だが、こういうのはテンション下がらないのでいい。少し書庫をあさると、紙芝居関係の資料もいくつか出てくる。これらとロフトで以前やったのを組み合わせて、20分ほどの紙芝居トークを仕立てあげようと思う。ちょいと試しに朗読してみるが、これはひょっとして、発展させればライフワークになるかも、という手応えが感じられる。語りの見本として、小沢昭一『日本の放浪芸』の節談説教(説経)から豊島照丸師の『阿免樓駄尊者』(アヌルダ尊者。免は実際にはその上に少の字が乗っかる)、祖父江省念師の『忠臣蔵・寺岡平右衛門の段』を聞く。いや、これはもちろんモデルにするには古怪に過ぎる語り芸だが。とはいえ、語りと節とを自在に織り交ぜながら、トウトウと語っていくその語り口は見事と、聞き惚れる。

 で、そのことを快楽亭に連絡しようと思ったら新しい電話番号のメモがない。問い合わせしてなんとかつきとめ、コウイウモノヤリマスと連絡。面白がってくれた。入れ違いに永瀬唯氏から電話。と学会MLで議題にあがっている、新しい二次会会場の予約の件。IPPANさんが格好なところを見つけてきてくれたのである。連絡事項のみ話して、珍しや三分で終わった。

 9時、夕食の準備。豚バラ肉と豆腐の韓国風鍋、一夜干しサバの焼いたの、アジの粟漬け。粟漬けは簡便版で、昆布〆のアジを買ってきて、これに茹でて冷ました粟をまぶし、上から三杯酢をかけてしばらく冷蔵庫に置く。それとアナゴのわっぱ飯。品数は四品もあるが、豚バラと豆腐は先日の残り、サバ文化干しは半身280円、アジ昆布〆が360円、アナゴ切り身が割引で300円。野菜も含めて総材料費1200円であがった。それでサバもアジも鍋も大変結構。

 9時半から二人で夕食。晩食だな。DVDで例の如く『サインはV』であるが、泉洋子というキャラの登用はどうも失敗だったように思う(まあ、これはこのキャラの後の知名度が物語っているが)。プロデューサー直々の登用であったらしいが、顔も性格づけも、斎藤清六に似ているのが気になって。これでDVD6巻まで見終わり、次の巻の発売は今月18日。K子はもう禁断症状。二人でなんだかんだ雑談しながらジョン・ヒューストン『白鯨』など見る。若きハリー・アンドリュースはしかし、ポパイそっくりだな。このアンドリュースやレオ・ゲンなどイギリス俳優の演技に比べて、グレゴリー・ペックは熱演だが大根だ、とK子言う。表情の微妙さをあまり出してはいけない(カリスマ的雰囲気がなくなる)役だからこれはつらいが、よくやってはいると私は思う。私のお気に入りのロイヤル・ダーノ(これはアメリカ人だが)は予言者エライジャ役でワンシーンのみの出現だが、適材適所の配役。何か松文館のNくんに似ている。人間の心を一瞬取り戻しかけたエイハブがスターバック(ゲン)と目を見つめ合い、しかし白鯨の出現で復讐鬼にかえったとき、モビィ・ディックと一瞬、目が合う。この対比が凄い。さらにその後『名曲アルバム』ロシア編などを見ながらロシアばなし、珍しく二人でずっと12時過ぎまで。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa