裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

9日

日曜日

じゅんでーす、張作霖でーす

 三波春夫で……。朝7時50分起床。台風接近とのことで、雨がかなりしぶくような感じで降っている。朝食、ソーセージと田舎パン、モモ。読売新聞書評欄、今週は先週の反省か、760円の新書などを書評書の中に入れている。その姿勢は結構であろうが、ここの書評欄が、なぜ読んでいて隔靴掻痒的な気分になるものばかりかというと、書評子の多く(ことに、○○大学教授とか助教授といった肩書のヒトに目立つのだが)が、本を“いかに面白いか”ではなく、“いかに役にたつか”という価値観で評価しているからだ。その分野の専門家なら、“役にたつ”も本を買う際の大きな選定基準だろう。だが、一般レベルの教養と読書意欲のある大多数の新聞購読者にとり、まず、本の価値判断は、その本がいかに知的興奮を味あわせてくれるか、によるのではないか。本を“役だち度”ではかる行為は、決して純粋な読書人のソレではないと思うのである。今週の評の中で言えば、清水徹氏の『書物について』(岩波書店刊・4600円!)を取り上げた松浦寿雄氏(東京大学教授)の文章にその傾向が顕著である。結論部分で松浦氏はこの本を“読むという身体行為の孕みうる「複数性」に対して捧げられた、大いなるオマージュ”としているのだが、しかし、そこでの松浦氏の読み方は、この本から現代における書物の危機について“どう対応すべきか”“いかにして再編成しうるのか”“重要な示唆”等々のポイントを汲み取るという、極めて実利的、前向きなものなのである。これはオマージュという概念とは正反対のベクトルにある読み方ではないかと思うのだがどうか? そもそも、“読むという身体行為の孕みうる「複数性」”という日本語が、一般読者向けの書評上の文章として適当なものかどうかを、編集部はもう一度考え直してみる必要がありはしないか?

 原稿たまりっぱなし。何とか今日じゅうに数本は片付けないと、と思いつつ、数トンはあるかと思える体をひきずって仕事机の前に座る。Web現代からやりはじめるが、材料は揃えてあり、すでにメモ段階で規定枚数には達しているのだが、つながりがどうしても面白くいかない。資料調べのネット散策が、途中から逃避にかわる。これではイカンと思い、また仕事にもどり、また逃避して、の繰り返し。

 今週末に迫った山口のきらら博、結局ギャランティや乗り賃は後から請求書を出して振り込み、という形になった(最初はトッパライで現場でもらえるということだった)との知らせがあり、ちょっとガッカリ。いや、いただけるならどんな形だってかまわないのだが、それだと芸人として“出演”というムードでなく、公人として“出張”的なイメージになっちゃうんだよなあ。オマツリ的ノリがそがれるのである。

 1時過ぎ、トラッシュフェスのビデオ撮り。サヨリさんとビデオ会社の人たち二人とで、ジオポリスで流すオープニングビデオを撮影する。ネクタイしめて背広来て、ヒッチコック風にしゃべってみる。2時間ばかりこれに費やされる。いつもこういう撮影のときにはネコが割り込んできて一回か二回は中断されるのだが、今日はおとなしく、階下に引っ込んでいたのは感心。これに気をとられて、昼食を食べ損ねた。ミニカップラーメン一個とおかき一枚食って、虫やしないとしておく。

 5時過ぎにやっとWeb現代完成、メール。少しリキみすぎたか、という内容になるが、まあ笑いはとってあるつもり。無理に気力を振り絞って書くので、どうしてもこの時期の原稿はリキんだものになるのである。それから海拓舎。時間がこないだから少し開いてしまい、構成のイキオイが失せてしまったので、メモ的なものも含め、これまでのもの全部まとめてフロッピーに入れて、Fくんに渡す。来週一週間で、前半も含め一斉に手を入れよう。

 そこからタクシーで青山に行き、紀ノ国屋で夕飯の買い物。6時過ぎるとやはり売り切れのもの多し。帰宅して、頭の中のゴチャゴチャをしばらくからっぽにして、料理に専念。改めて、料理は私のホビーなのだな、と思う。油揚と大根の煮物、キンキ鯛の蒸し物、それと豆ゴハン。ビデオで『映像の世紀・第3集“それはマンハッタンから始まった”』を見る。コットン・クラブのショーからKKKの大行進にいたるまでの貴重映像(自宅の木にふざけてヨジのぼる芥川龍之介とか)は非常に面白いが、間をつなぐCG映像がダサい。番組自体が6年前あたりの製作で、やっと導入したCGの機器を使ってみたくて仕方がなかった、という感じの映像である。ナレーションがコットン・クラブのことを“ジャズのメッカ”と言っていたが、いいのか? という感じ。私も以前、NHKでメッカと言って撮り直しさせられたし、植木不等式氏も同じくNHKのラジオででメッカと言ってダメをくらい、“じゃあ善光寺と言い換えましょうか”と言ったという話もあるくらいなのだが。イスラム原理主義が過激になり始めたあたりからの規制か。

 その後、DVDでウルトラQ、キングコングなど、見かけになっていたものを消化する。キングコングの後、カール・デナム役をやったロバート・アームストロングつながりで、ビデオでボブ・ホープの『腰抜け二挺拳銃』を見る(この映画の中のアームストロングはしどころのない、つまらぬ悪役であるが)。前半のテンポのタルさがアメリカ製大作コメディ映画の特長か。つまり、最初に西部劇なりサスペンスなりとしてキッチリと骨格の整った設定があることを観客に説明しておき、そこに強烈な個性を持った主人公がからむことによって話がだんだんコンガラかってきて、コメディになる、という構造である。この方法がもっとも主人公の個性を際立たせるベストなのだが、欠点として、主人公の出てきていない部分が極めて退屈になる、ということがある。この映画にもそれが顕著だ(小林信彦がこの映画を、気に入ってはいるらしいがあまり積極的に評価しないのもそれが原因だろう)。昔の観客はそれでもジェーン・ラッセルが出ているだけで喜んでそのストーリィ部分を観ていたんだろうが、今はそうもいくまい。最近の喜劇映画が“ハナから笑わせる”ことを強いられていることが、優れた喜劇俳優の出現をはばんでいる要因かもしれない。ちょっと見るつもりが、結局1時までかかって全部見てしまった。酒のつまみに、こないだ“まさ吉”でもらった数の子明太。魚卵で魚卵をあえるという、よくわからないコンセプトの食べ もの。

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