裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

23日

日曜日

カリキュラマシーン勝つまでは

 さばどぅびどぅっばしゅびどぅば。朝7時起き。朝食、ハモン・セラノサンド。午前中に週アス一本アゲ。ブツ(きのう買ったエロ本)と共にK子に渡す。書き出しゃ早い人間なのだ。

 風呂、仕事場の整理のあと、外へ出る。リハビリのために一日一時間は歩きたい。パルコブックセンターで本を買う。“本は買うのが一番楽しい”と、ほりさんの文章にも私のコトバが引用されていたが、確かに本はドカッと買うのが最高の快楽。一冊だけしか欲しい本がないときは、また今度にしよう、とか思ってしまう。最低でも、三〜四冊はまとめて買わないと本を買うイミがない。ポール・ドゥ・ゲイ『実践カルチュラル・スタディーズ』、鵜飼正樹『見世物稼業・安田里美一代記』、泉麻人『僕の昭和歌謡史』などが今日の買い物。他に、近所に新しく開いたグッズショップものぞいてみる。

 昼飯は回転寿司ですませ(隣に座ったカップルがエビばかり6皿も食っていた)、青山まで散歩して紀ノ国屋で買い物。さすがに人出がすごい。風がある分、昨日よりは少ないかもしれないが。

 帰って休んでいたら、藤倉珊さんから電話。昨日の続きを一時間ほど。あれやこれやと話は飛ぶ。『戦闘少女の精神分析』について意見交換。そろそろ書評に手をつけないといけない。沖縄の木六さんからも電話。沖縄のブックジョイ、官能倶楽部同人誌や睦月さんの写真集、ほとんど完売だとか。睦月さんところの自殺願望少女、沖縄のユタに見せたらどうかね、というようなこと話す。

 某所でのアイアンジャイアント批判に曰く、“最後にジャイアントが復活するところがいけない、壊れたままの方が感動は深かった”・・・・・・うーん、懐かしい。かつてのヤマトのTV放映終了直後の、“森雪は生き返るべきではなかった”論者と同じ。オタクって進歩しないんだなあ、イイゾイイゾとうれしくなった(誤解を招く表現だがまあ、説明すると長くなるし馬鹿には説明してもわからないし、いいや)。

 9時、夕食。里芋と刻みアナゴの煮物、ラムのジンギスカン風、カツオヅケ。LDで小林旭『波涛を越える渡り鳥』。渡り鳥シリーズ6作目、ついに海外ロケを敢行するまでになった大作だが、予告編で“ツタレン・カーメンの秘宝”などといい加減極まりない文句が出てくるあたり、やっぱり日活。

 食事のあと、クサヤの干物でイッパイやっていたが、パッケージの文句の一部がホワイトで修正されている。何かと思って修正をはがしてみたら、“島娘のように素朴な味わい”という文句だった。まあ、そりゃまずかんべえとは思うが、こういう事例を見るたびに、私はポリティカル・コレクトネスが嫌いになる。コトバというものは重層的な意味を持つものであり、それ故にどんなコトバでも取り様では差別語となる可能性を持つ。逆に言うと差別的用語に差別的な意味あいしか取れないのも、言語感覚が鈍い証拠である(これは筒井康隆もつとに指摘していた)。例の石原都知事の三国人発言、あれは政治的にひどい発言であったが、コトバとしての三国人の定義を問題にすると焦点がぼやけてしまう(井上ひさしの読売新聞のエッセイなどそのまずい例だった)。早い話、三国人というコトバそのものに感情的な否定感を持ってしまうと、日活アクションなどまるで楽しめなくなってしまう。あれはあれで笑って楽しむべきもので、そこらへんの整理が頭の中でつけられないのは馬鹿を露呈しているようなものだ。和田誠がインディアンをばったばったと殺してしまうボブ・ホープの『腰抜け二挺拳銃』と、『折れた矢』のような人種問題を扱った西部劇との両方に魅力を感じることを述べ、
「それを認めないと、映画ファンにはなり得ないのではないかと思われる」
 と発言している(『お楽しみはこれからだ』)のは、まったく正しいのである。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa