裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

13日

木曜日

タカ派の大将

 石原慎太郎。トト、東京の位で言うと都知事なんだな。ゆうべ就寝が2時近く、それでも7時起床はバイオリズムのなせるわざ。朝食、開田あやさんにもらったバゲットでトマトサンドイッチ。それとイチゴ。薬局新聞一本。昨日、矢切隆之氏の追悼遺歌集が届く。突然の死からはや一年、感慨深し。ただ、氏のかなりプライベートな部分に関する歌(性にまつわるもの)も掲載されており、ここで歌われている対象の女性も知人だけに、かなり複雑な感想。

 11時入浴、手術以来2週間ぶりに浴槽に身をひたす。ギプスのときほどではないが、やはり垢がボロボロ出て、湯の表面に汚い皮膜を作る。気のせいか、浴後、かなり腫れも引いたように思う。埼玉の古書店S堂から目録着。子細あってこの一年、古書展通いや目録買いを封印していた(最低限の必要書は買っていた)が、そろそろ解禁かな、と、とりあえずウン万ほど、注文。まだ様子見。

 昼はパルコ上のおしゃれな中華屋でランチ定食。2時、時間割で東海大学編集局の雑誌『望星』インタビュー。“サブカルチャーと30代”について。カルチャーにおけるテラ・インコグニタを既に失ってしまった世代の混迷と憂鬱、そしてその先にあるもの。80年代における情報テクノロジーのビッグバン的膨張によって、前準備なしに無理矢理アイデンティティをグローバル化しなければいけなくなった極めて不幸かつ、オモシロい世代、という切口で2時間、語る。編集のS氏は40代後半、私が40代前半、インタビュアーの女性が20代後半。欠席裁判で30代批判噴出。

 帰宅、原稿書き。催促電話、催促FAX。徳間文庫から久美沙織『新人賞の獲り方教えます』解説依頼。この元本が出たとき、これは流行る、と思った。この本は小説を書く、という行為から精神論を完全に捨て去っている。ものを書くのに大事なのは技術、新人賞をとってデビューできるものを書くコツなのであり、人生論や精神論ではない、ということを、はっきりと口にこそ出さないものの、実例を挙げて証明しつくした。書くに価する内容があるからものを書くのではなく、書くという行為の中に身をひたしたいから書く、という、創作における新たなるモチベーションを提示してみせた。ヤングアダルト小説から発してJ文学なるジャンルすら生んだ、表現行為への餓えという若者たちの新たな欲求を満たすための、これは最初の手引き書だったのである。そんなことを久美さんに語ったことがあったが、それがこういう形で仕事になったか。

 書庫で昭和30〜40年代のB級雑誌をひっかき回し、記事検索。“確かああいう感じの記事がこういう感じの雑誌に掲載されていたはず”という記憶にのみ頼って調べているのだが、なにしろこの時代のエロ記事なんてものはどれもみぃんな似たようなものであり、また、それを掲載している雑誌がどれもみぃんな似たようなものなので、探し出すのに大苦労をする。しかしながら映画とかエロとかマンガとかいう大衆芸術は、こういうルーティンが大量に生産されている時代が実は最もそのジャンルの隆盛している時代なのだ。そのルーティンパターンこそ時代のニーズの最良の証言であり、これを価値がないと切って捨てる者には、結局“時代”ってものはわからんのじゃよ。

 業界紙原稿一本アゲてFAXし、買い物。夕食の支度にかかっているうち、テレビ(日テレ『フジリコ』)収録終わったK子がアシ役に頼んだ芝崎くんと帰ってくる。カニとキクラゲの炒めもの、ソラ豆、茹で白海老、ハモンセラノでビール。芝崎(以前島崎と誤記)くんは現在と学会員ながら、前はあすかあきおハマりだったそうで、書店員だったとき、“たまたま”棚に並べようとしていたカール・セーガンの『コスモス』でヤハウェの元写真を見つけ、愕然大悟してその瞬間から懐疑派になった、という人。ビデオで『飛頭魔女』。要はチャイナ版『首だけ女』なのだが、最初はただの妖怪だった首だけ女がやがて愛を知って母親となり、子供と夫を守るために悪い妖術使いと戦う、という展開になって仰天。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa