5日
土曜日
サンバルカン八番娼館
遠い異国の地で、ゼロガールズやらないかと騙されて……。(オタクネタ+文芸映画ネタ)
※コミティア『米澤嘉博を語るトークライブ』司会
朝8時50分起床、まだ食事の電話はならないので、ちょっとネットなどやって待ち、電話来て改めてこれから風呂使うことを告げて、入浴。
9時半、朝食。阿藤快の『ぶらり途中下車』を見つつ。スイカ、コーンスープ。外は快晴、暑くなりそうである。
自室に戻り、K子の置いていった、再々度復刊された『薔薇族』を読む。コミケで売るような作りであり、続けていくにはいい形かも。書誌的な内容になっているのは昭和ゲイ文化の検証研究をする者にとって有難いだろう。
日記つけ、マイミクさんたちの日記チェック。某マイミクさんの日記に、私が大傑作と認める映画を全く認めぬ記述あり、おやおやと思って別のマイミクさんのところに行ったら、さっきのマイミクさんが人生の大傑作とする映画をケチョンケチョンに書いている日記あり、人によって評価がかくも違うか、と苦笑。
昨日予告したように今年初めての半袖シャツに上っ張りのみ羽織り、11時半に家を出る。地下鉄丸ノ内線で赤坂見附、そこから銀座線に乗り換えて新橋、さらにゆりかもめで国際展示場前まで。ゆりかもめ、連休の親子連れやカップルで満員。蒸し暑ささえ感じる気候と合せて、幼い頃ワクワクした“夏休み”気分を連想させる。
かなり早めに着いたので、改札口でオノを待つ。“ひったくり注意”の張り紙の絵がマイミクのTさんではないか? と思った(あとで確認したら違うとのこと)
オノ、風邪っぴきで、ゴホゴホひどい咳をしながら来た。休ませてやればよかったと思うが、亭主のマドが連休はホラービデオ見まくりを計画しているらしく、ホラー嫌いのオノに“仕事に行け”と言うらしい。
コミティア、朝からミクシィのいろんな人の日記で
「今年の人出は異常」
「コミティアなのに行列が出来ている」
と書かれていたが、初めての二ホール使用で、確かにちょっとコミケを思わせる人の群。人数的には十分の一くらいだろうが、それでも一万数千人の入りである。ちょうどYさんから携帯に電話あり、控室に案内される。今日のトークの打ち合せ。パネリストのみなさん(青林工藝舎浅川満寛、河出書房新社伊藤靖、平凡社野口ひろ子各氏。米澤さんの各出版社の担当編集者諸氏)と挨拶、ベルさんこと英子さんはいま、一部のトークを聞いている(私の担当は第二部)ところだとか。Yさん、このトーク実現のためにかなり神経使っている模様。
やがて、一部のパネリストの皆さん(呉智英氏、みなもと太郎氏、藤本由香里氏、村上和彦氏)が戻ってくる。呉先生久しぶり、で挨拶したら、いきなり
「西原克成のあのNHKブックスはと学会で取り上げないの?」
とフラれる。『内蔵が生み出す心』のことらしい。弁当がちょうど配られたので、食べながら話をする。
「まあ、どうも小物っていうか、師匠の三木成夫先生は凄い人なんですが……」
「三木さんはありゃ宗教だからね。あそこまで言い切られるとコッチは否定できないしな。今西錦司と同じだよなあ。あ、ところで三木さんのお嬢さんがボクの教え子でね、今日も来てるんだよ」
なるほど、それでいきなりの西原本ばなしか。
「副島クンなんかはどんなバカ言ってもそれで宇宙開発が遅れるといった実害はないけどさ、西原は医者だろ。ああいう考え方が広まるとアブナいんじゃないか。大体さ、腸が脳と同じようにものを考えるというその証拠がさ、“日本には昔から「腹で考える」と言う言葉がある”なんてことなんだぜ」
「海野十三の『生きている腸』みたいですね」
などという会話。
あと、『東外流外三郡誌』のことも出て、斎藤光政氏の『偽書「東日流外三郡誌」事件』のことに触れ
「あれは面白かったですね」
「うん、ありゃ傑作だ」
と意見が一致。今、古田武彦周辺はどうなの、と訊いてくるので
「私の友人ですが、以前弟子だった人物が今は古田批判の急先鋒に回っています」
と言うと、ソリャー面白い、と喜んでいた。
「しかし、古田だって昔の『親鸞』とかは、いい研究書だったンだぜ。なんであんな和田喜八郎みたいな詐欺師に引っかかるのかなあ?」
と言うので
「インテリは自分が世間知らずであるというコンプレックスを持ってるから、ああいう土俗のパワー持った人間の前では弱いんですよ。呉先生だって、中沢啓治のマンガには批判能力失うじゃないですか」
と言ったら苦笑して
「イヤ、そうだ、確かだなアそりゃ」
と。晋遊舎で呉先生の『はだしのゲン』解説を、批判というわけではないがダシに使って作品批評をやったエクスキューズをここですませてしまったワケだが、呉さんもそれを認めてしまうところが流石。
そんな雑談をしていたおかげで、ほとんど準備もないまま壇上に上らねばならず、しかし前もってYさんに
「これこれ、こんなとこでまとめます」
と言っておいたし、野口さんが生前、米澤さんがメモして渡していた企画書の覚書を持ってきたというので、それを最後に使おうと頭の中に入れる。
会場スペースに、椅子は100席以上用意されていたが、その周囲に、倍くらいのお客さんが立って見ていてくれる中、第二部『サブカルチャー評論家・著述家としての米沢嘉博を語る』を開始。始まる前に、今日はとにかく、司会進行役としての役割をフル回転させようと決めて始めたので、各発言者の発言の中のキーワードをメモしてそこから先に話をつなげつつ、あまり米やん大賛美にならぬよう、聴衆を飽きさせぬため三人の編集者さんの話を一巡させる間に一回は笑いがとれるよう、神経を配る。さすがにベルさん感覚が鋭く、こっちの要求を言外に察知した内容の発言を折に触れて発してくれた。今までほぼ語られてなかった、
「米澤さんは誰が嫌いだったか?」
というような件もフってみたが、ちゃんとパブリック・エネミー的な○○○の名前を出して、私がさらにそれをタキつけ、客席で聞いていた呉さんが身体をよじって笑った一場もあり。
「マンガはその時代の情動である(はずorべき)で、どんな作品もその発表された時代相と共にある」
という米やんの基本姿勢に関しても確認がとれ、表現論に傾きがちな最近のマンガ評論のムーブメントの中、意を同じくする者として励みになった。
野口氏の、マンガ以外の米澤さんの話もよく、伊藤氏がまた“場”“情動”“時代”“諦念”などというキーワードを話の中に織り交ぜてくれるので、そこから次の話題へと移っていけて、スムーズにトークが進む。特に“諦念”という話が興味深かった。一般に米やんを知る人々が印象としてあげる誰に対してもの笑顔、あれが
「ある種の諦めのようなものから来ていたのではないか」
と言う話が今回のキモ、か。
「マンガは大衆文化なのに、その大衆にほとんど届かないマンガ評論に意味なんてあるのか」
という思いと、しかし、自分の愛するマンガについて語りたい、伝えようとせずにはいられない、というその情念の間のジレンマが、米澤さんの、あのフラットな論旨、フラットな文体を産んだということ。マンガを語る場を確保するために、余計ないさかいを避けていた部分があって、だからこそ、笑顔でどんな人にも対応していたのではないかと、かなりこういうトークにしては人間性の深いところにまでメスを入れられる。なかなかないことではなかろうか。
さらに、それは自分の元に集中したコミケ主催者という立場故の理由も大きかった、というところにまで論が発展し、浅川さんが
「それが編集するものにとって、米澤さんにもう一歩、強烈な個性を感じられない不満と言えた」
という証言につないでくれて、コミケという大きな物を背負ったがゆえの責任感が評論家・米澤嘉博をスポイルした部分もあったのでは、という方向に持っていきたかったのだが残念ながら、一時間半などあっという間。
まとめに入って、野口さんに例の企画メモを読み上げてもらい、その守備(興味)範囲の驚くべき広さに驚き、英子さんの語る家庭での米澤さんの姿のエピソードから
「裏米澤、黒米澤の話も残しておかないとね。これからもコミケが続き、すでに若い参加者には米澤嘉博の名前を知らない人も増えているけど、コミケが続く限り、彼の名を冠したブースは出しておくべきだし、さっきのメモからより具体的に彼が何をしたかったかを推し量るために、残された膨大な蔵書の整理分類、目録作りが必要でしょう」
と話し、最後に英子さんに〆メて貰ってちょうど一時間半。我ながら凄まじいナビゲーションぶりであり、昨日の、司会の都合も時間も関係なくパアパア壇上でしゃべっていた私を見た人が今日の私を見たら、別人だと思ったかもしれない。……で、こういう役割も案外好きなのである。
大いに聴衆のみなさんも盛り上がってくれて、最後は大拍手だった。『ブジオ!』の頃愛聴者だった、という新潟のファンの人(あの頃は受験生だったが無事、国家試験に合格して歯医者になったという)に挨拶され、また、呉先生が、話に出た三木先生の娘さんに紹介してくれた。
「お父様の『胎児の世界』は私の読んだ三大奇書のうちのひとつです」
と挨拶。
楽屋に戻ったら、伊藤さんが
「本当にしゃべりやすかったです」
と言ってくださり、呉先生までが
「盛り上がったねえ! よくまあ、時間通りやって最後にあんな風に盛り上げることが出来るもんだ」
と感心してくれて面目をほどこし、ホッとした。ラジオで一年半、パーソナリティをやったおかげであろう。Yさんが、心底ホッとした感じで、挨拶してきてくれた。内輪話を聞いて、ちょっと感動。そこまでとは。
バーバラがキョウカちゃん連れて楽屋に。会場で藤本さんにあの人は誰ですか、と聞かれ(私の妻子と思ったらしい)
「あれは私の出版スタッフで、口を開くと同人誌の売り上げのことしか話さないオンナで」
と説明していたのだが、楽屋に入っての開口一番が
「今日は同人誌が凄く売れました!」
だったので一部で大いにウケる。米澤さん唯一の弟子であるライターの想田四さんと名刺交換(と、いうか私は今日は名刺を配りすぎて切れてしまった)する。小学館の楳図本の私がコラム、想田さんが書誌でご一緒の予定。
風邪っぴきのオノとバーバラ母子は連れ立って帰り、われわれゲストとスタッフはすでに撤収が始まっている会場を後にして、ワシントンホテルの和食『三十三間堂』で打ち上げ&懇親会。京都生まれのみなもとさんが
「何で三十三間堂って名前なんだろうかね?」
と言うと、みんな揃って
「平田弘史の『三十三間堂外伝』で……」
と口走るのが、いかにもこういう集りで可笑しい。行って見るとなるほど、窓際に沿って席が設けられているので、ウナギの寝床のような作りであり、これは確かに三十三間堂。
呉先生、藤本さん、ベルさん、浅川さん、想田さんと一緒の席になる。何かゴキゲンの呉先生の独演会となり、共産党員のペンネームの歴史、グルジアとロシアの違い、無学な親のおかげで子供の名前がヘンになっていること、小林信彦の『横山やすし伝』の高信太郎の描写は可哀相であること、女性が電球を使ってオナニーするというのは都市伝説である話、イボコロリプレイはどうかという提案、水木しげる先生の娘さんたちのこと、早稲田は昔いかにバカの入る大学と見なされていたかという逸話、ガリ版刷りのテクニックの話、人の好き嫌いの逸話、大学出の人間は死ぬまで単位不足の夢を見る、という経験談、佐藤まさあきのルサンチマンは何に起因するかという推理、モデルガンの歴史からタモリの出自の話、貧乏して病気したら共産党の病院かものみの塔の病院に行けばいいということ、聖書解釈と偶像崇拝のエピソード、萩尾望都と竹宮恵子の比較論、独身男性と料理の考察、などなど、森羅万象知らぬことなしという勢いで話しまくって、聞き手をアットウ。
「そしたらノノムラくんがそこでさ」
「先生、ノノムラくんて誰ですか」
「東海高校時代の友人だよ」
「いきなり出てきても誰も知りませんよ、そんな人」
とはいえ、高校時代の友人の名までスイスイ出てくるその記憶力はすごい。3時間半、とにかくすさまじい知識の洪水にさらされる。なんとかついて行きはしたが、ヘトヘトになった。
Yさんを呉さんに紹介。古書店ばなし。Yさんのところでは、いいものが入ると米澤さんに
「これ、米やん買わないとカラサワさんとこに行くよ!」
と勧めていた由。
料理がまた、どんどん出てくる。お造りから豆乳しゃぶしゃぶになり、これで終わりかと思ったらとんでもない、焼き魚は出る天ぷらは出る炊込みご飯は出るで、腹がいっぱいになった。スタッフのみなさんにも挨拶、裏米澤ばなし、大いにやりましょうと言われる。米澤さんが私の本を褒めていたという話を聞いて、ちょっと意外な気も。あの笑顔の後ろに、ちょっと私のいいかげんな(非・体系的な)仕事への批判があったかな、と思っていたのだが。
8時半、お開き。ベルさんに新宿での二次会に誘われるがちょっと未完成原稿のことを考えて辞退、りんかい線から埼京線の継続で新宿まで一本で行けて、そこからタクシーで帰宅する。電車の中で、浅川さんから、田中徳三監督・伊福部昭音楽の天理教の映画『扉は開かれた』のビデオの話を聞く。
上がったテンション下げるためにホッピー二杯。DVDでいろいろミステリものなどかけちらかしながらネットで今日のトークの感想をサーチ(自分の評価はこういうテンション上がっているときはアテにならない。客観的なものが必要。こういうときにこそ批判も探さないといけない。大方好評の中に一件、単なる好き嫌いではあるが悪口があったのに逆に安心する)1時半、就寝。