20日
日曜日
カネテツのザジ
ザジはあこがれのパリでかまぼこを買おうと思いました。朝4時半起床、起きたらちょうどコミビアの放送時間。相変わらずテンポのいい編集に感心。間がつまれているので、わたしとおぐりがコメディ演技のベテランに見える。バナナを手渡すところは、ただ喜ぶばかりでなく本当に食べさせればよかったな。いや、シャラポワ的な興味じゃなくて(あわてて言う)このコーナーで実際にものを食べるシーンはそう言えばやってなかった。地味な回だけに、それくらいのサービスはしておくべきだったと反省。ミクシィ日記の方に元・裏モノ会議室の光デパートさんが感想を書いてくれて いて、
「おぐりさんの口に既視感があると思っていたら、ふいに気がつきました。あれは忍 者ハットリくんの口だ」
と。呵々。
メールチェック。『アニメ夜話』から、収録日の都合を聞いてくるメール。何事もなかったかのような文面に驚く。謝罪は一辺倒、なんら解決させようという努力のあとなし。たぶん、そもそも問題があったと思っていないのだろう。自分たちの都合のみ優先させて、
「是非出演をお願いします」
と言われて、こっちが怒っただけマヌケであると思われたままホイホイ出演できると思っているのか。ここまで軽く見られていたとは気がつかなかった。こちらの不覚である。つくづく情けない思いにかられながら出演お断りのメールを返信。
もう一度寝る。案の定ロクな夢を見ない。巨大な社判を抱えて襲ってくる佐川一政と戦う夢(なんだ、それは)を見た。佐川氏と言えば、このあいだこの日記に、彼の父親が本当に亡くなって、『創』で佐川氏の父死亡の記事を読んでいたので驚いたと書いたが、その日記を読んで『創』編集部もびっくりしたそうだ。ウソだとは全く気がつかなかったそうで、今更訂正記事を載せていいものかどうか、迷っているそうである。
8時朝食。ミカン、バナナ、クノールカップスープ。ホリエモン特集のニュース番組見る。世間には反フジ、反サンケイグループの連中も多いのだからもう少しフジ支配後の明確な構想をブチ上げられればまだ味方も増えたと思うが、それが全然ないところがネック。双方向性なんて言ってるが、そんな程度のものなら自分で放送局立ち上げた方がなんぼかましである。夢とか未来とかという言葉をちりばめた、お菓子の家みたいな企画書が世間向けには必要なのだ。ダミーであっても、こういうのは作っておかないと。
岡本喜八監督死去の報、新聞で読み、いろいろ感慨深し。私の青春とは何だったのか、と煎じ詰めると、池袋文芸座地下の、あの閉鎖された空間の固い椅子の上で岡本喜八映画をオールナイトで観ていたときに集約されるのではないか、と思う。それくらいハマった人だった。個性とは畢竟“スタイル”だ、というメッセージが映画ばかりか、あの黒づくめの(パンツも黒、トイレの便器も特注の黒、赤ん坊が生まれたと きのおしめも黒という伝説があった)生活様式からも伝わってきた。
フェイバリット作品として『あゝ爆弾』とか『殺人狂時代』を挙げるのは今更だからやめておく。それより、“なぁんだ青春映画かあ”とバカにしながら観た『青葉繁れる』が、いかにも岡本喜八というスタイル満載で処理されており、丹波義隆一世一代の好演であったことも含めて、改めてこの監督の才能に舌を巻いた記憶で印象に強い。青春の葛藤と煩悶という本人たちにとって真剣なものが、実は第三者的に見れば極めて自分勝手で滑稽なもので、自分たちのことを親身に思う教師(ハナ肇)を救おうとして起こした行動が、結局その教師を退職させることになってしまうという“青春の無為さ”を、ここまで情緒に流れず描ききれるのは岡本喜八を措いて他にあるまい、と思わせた。
この描き方の背景には、戦争という、まさに“無為な青春”を自分が送らされたことへのルサンチマンが隠されていることにも、なんとか意識がいく年齢にはなっていた。それだけに、そのルサンチマンが、この監督の第二の天性たる“スタイリスト”の仮面をつきやぶってまで時折突出することに、ある面での違和感も感じないではいられなかった。『江分利満氏の優雅な生活』の後半でも、せっかくの前半のあの快調なテンポを戦争へのこだわりがかなり崩してしまっていたし、『ダイナマイトどんどん』も同様、『英霊たちの応援歌』などに至ってはそれがストレートに噴出した感じで、観ていていたたまれなかった。『独立愚連隊』『独立愚連隊西へ』の二作くらいか、その弊から脱し切れていたのは。また『日本のいちばん長い日』は、その映画の性質から、戦争の被害者の方より支配者たちの方を中心に描かざるを得ず、逆にそれが、戦争指導者たちの狂気(それが荒れ狂うものもあり、静かに発せられるものもあ り)を描く方に回って、いい感じにまとまった作品になっていた。
だから、この人のスタイリストぶりには、そのあふれるルサンチマンを世間の目から覆い隠す露悪的な仮面、といった陰が常にあった。黒づくめの殺し屋たちがまるきり漫画的に動き回り殺しまわり殺されまわる『暗黒街』シリーズが痛快なのは、人間なんてしょせんは将棋のコマさ、というひねくれたドライな人生観が、情緒を徹底し て廃して映像テクニックの中のお遊びを見せてくれていたからだろう。
はっきり言えば、どこまでも情緒の国であるこの湿気った日本において、岡本喜八のこのドライさを受けて演じられる俳優というのは、そうそういるものではない。だから、岡本映画には、その監督のセンスとぴったりあった常連俳優たちが絶対に必要だった。それが砂塚秀夫であり、平田昭彦であり、岸田森であり、高橋悦史であり、 中谷一郎であり、佐藤允であり、そして分身とも言える天本英世だった。
彼らが一人欠けるたび、また老いて、現実をカリカチュアライズした漫画的動きが出来なくなるたびに、岡本作品のセンスが、こちらに伝わりにくくなっていった。晩 年に近い作品群も、それなりに佳作ではあるものの、観ながら
「ああ、ここに岸田森がいれば、平田昭彦がいれば」
という思いは常にあったものだ(『青葉繁れる』が私にとって印象的だったのは、ちょっとだけ出てくる岸田森以外、常連俳優をほとんど使わずに岡本喜八イズムあふ れた作品になっていたからだった)。
いまごろ雲の上で、彼らと再会した岡本監督は、嬉々として次の作品の企画を立てているに違いない。それが観られると思うと、死ぬということも案外悪いことではな いかも、と考えるのである。
日記などつけ、昨日うわの空の女性陣からバレンタインデーのプレゼントでいただ いた民芸風帽子をかぶって出勤。地下鉄に乗っていたら、
「わーたーしーの、切符はー、すてーきな切符ー」
とか、調子っぱずれな大声の歌を歌っている電波さんがいた。ネクタイなどしめ、服装だけみると普通のサラリーマンなのだが、日常はどうしているのか。
曇天、気圧大いに乱れ体調不良甚だし。昼飯はオニギリ(シャケ)と黒豆納豆、卵スープ。講談社Tくんから電話、FRIDAY四コマの件。すぐさまネタ出しにかか る。これは1時間程度で出せたが、さてコラムにえらく苦心する。
「雛人形は男雛が左、女雛が右だが、京都では逆で、こちらの方が正式」
「雛祭りはお内裏様とお雛様の結婚式。昔は結婚式は夜に執り行ったため、歌詞でも“あかりをつけましょぼんぼりに”と歌う」
「三人官女のうち、真ん中の一人は既婚女性。よく見ると眉を剃り、お歯黒をしている」
などというトリビアを、FRIDAYでやってもあまり意味がない。下ネタとからめて、と思ったが、いろいろと(クラウスの『日本人の性生活』まで引っ張り出し)調べたが、なかなか雛祭りと下ネタを結びつけるのは難しい。菱餅やお吸い物の蛤が 実は……というネタは四コマの方でやってしまっているし。
やっと一つ、民俗学ネタで見つけて、それで仕上げる。別に下ネタ好きのオヤジだからではない。こういうネタの場合、下ネタと結びつけるのが一番インパクトがあっ て“へぇ”度が高くなるのである。
気圧のせいでとにかく眠い。原稿書きながらも、モニターの前で意識がフッとなくなる。書きおろしもやりたかったがこれではとうてい無理。サウナ予約して、急いで新宿へ。しかしサウナの中でも意識失いそうになる。アブナい。休息室に行くがそこでも眠ってしまい、マッサージされながらも当然の如く気絶。ここまでひどいのは久 しぶり。ただし、ちょっとは改善。
帰宅、今日は旧ナンビョーサイト関係の人たちとの食事会。Najaさん、カーター卿、犬さん。犬さん、モノクルで来るので驚くが、ただメガネが壊れただけとのこと。それも去年のこと。早く直せばいいに。『義経』ちょっと見る。渡哲也、平幹二郎、中井貴一らの怪演に驚く。時に中井貴一演ずる頼朝の気味の悪さが凄い。義経のタッキーは案外がんばっているが、彼らと顔をこれから合わせていくとなると、食う だけ食われる予感。
「これ、評判がいいらしいね」
と言うとカーター卿、
「このあいだの『新撰組!』が変化球、今回のは直球。前々回の『宮本武蔵』は暴投 でしたから」
と。
料理はNajaさんの田舎から送られた地鶏メニュー中心に、鶏皮の和え物、鶏刺身、炙り鶏、それから首のところを出刃包丁で叩いた鶏団子と大根の煮物。骨がかなり残るが、そのコツコツと歯に当たる感覚がよし。さらにメンチカツ、チーズムースのデザート。デザートには手を出すまいと思っていたのだがツイ、誘惑に負ける。明日の体重計がちょっと不安。調理中、揚げ物の鍋がボン、と音を立てて跳ね、母が顔に少し火傷。天井にまで油のあとがついた。