13日
日曜日
おぐりよ今夜もありがとう
うわの空公演・夜の部に通いつめる小栗由加ファン。朝7時に起きて入浴、8時バナナとミカンで朝食、メールチェック。ネットコンテンツ連載についての件など。ミ クやって11時出かけ、両国駅。
松屋でキムチチゲ定食食べ、両国亭へ。『幻の南湖』第四回。最近はさすがにその面白さが定着したか、満席、補助椅子を出す(まあ、ここは普通の椅子も補助椅子も同じだが)盛況。と学会MLでも宣伝したのだが、久留夫妻、IPPANさん、それ からFKJさんなどが来てくれた。
他の知り合いは白夜書房でお仕事しているMさん夫妻。奥さんの方は現在なんとうわの空のワークショップに通っている最中とか。そのMさんがなんとか私とのコラボ で本を出したがっている藤本和也さんとも挨拶。
「たぶん、こういう顔の、こういう雰囲気の人だろう」
と、思った通りの人物だった。
他に新潮社H女史、はれつさんなどの顔も。私のサイトの告知で情報を得てきてくれた人、かなりいたとか。“うわの空クリスマスで南湖さんのガニラを訊いてファンになって”という人も何人かいた。その中の一人は昨日、東京ドームでおぐりゆかが MCをやっているコスプレフェスタに行ったそうだが、濃くて濃くて
「常人の足を踏み入れるべきところではなかった」
そうな。
IPPANさんと、と学会東京大会の打ち合わせの叩き台作りスケジュールについて話し合う。最初の日暮里での大会での形式が非常に完成されたものだったので、そこからどう脱するかと頭を悩ませていたのだが、先日ひとつ、ひらめいたアイデアがあり、それを話すと、“あ、いいんじゃないですか”とのご意見。これならばと学会 の名物メンバーをほとんどあますことなく使えるのである。
問題はゲスト出演者。ある大物を予定しているのだが、それだと出演が終わったあとなど、専門でつく担当が要る。もう一人候補がいるのだが、その人だと大きい会場の経験がなく、見せる設備も全部こちらが用意しなければならない。気はこちらの方が使わずにすむ分、大変楽なのだが……。悩むところ。とにかく叩き台の進行台本を 早急に書くことをIPPANさんに約す。
で、南湖さん。“手伝いがおりませんので……”と、出囃子のテープ操作、幕を開けるロープを引くのも、全部自分一人でやる。まずは新作講談『坊主の火遊び』。去年の暮れに高野山に落語家の友人たちと籠もって書き上げたという新作だそうだが、高野山で坊主の不倫の話を書くというのが人を食っている。タアイない話で、落語家たちと一緒に作ったということで講談というよりは落語調。そこがいいけれど。
それから“大阪らしい講談を”というリクエストに応えてだそうだが『難波戦記より・真田の入城』。真田幸村が九度山で徳川方の監視をごまかすため、父・昌幸と妻 を続いて失ったショックで精神異常になった風をよそおい、
「アホの先生」
と町人たちに呼ばれていたというエピソードの、そのアホぶりがまったくそのまんまの上方系与太郎描写だったり、真田の軍勢がやがて集結し、大阪城へ入城する際のオノマトペ
「ざっざざざっざ、ざっざざざっざ、ちゃっぷんちゃっぷん、こっつんこっつん」
をしつこいくらい繰り返す(“ざっざざざっざ”は九度山から大阪城まで歩いてややすり切れた草鞋の立てる足音、“ちゃっぷんちゃっぷん”は腰の竹筒に入った水の揺れて立てる音、“こっつんこっつん”は槍の石突きが大阪城の石畳に当たる音)と ころが大阪講談らしいところか?
しかし、南湖さんに限らず大阪の話芸には、まだ
「日常の言葉でない、大勢を相手にしゃべる際のリズム、イントネーション、ひっくるめて高座調子というもの」
の様式が色濃く残っている。それだから、内容などなくても聞いているだけで心地良いし、その“語り”自体に酔える。
この語りの様式は東京ではすでに滅びてしまったものである。すでに東京の話芸は落語といい講談といい、“内容”でしか聞かせられない。内容で言ったら、古典の半分以上が実にタアイないものである。だから古典話芸は東京ではもはや残れない。浪 曲がまず滅び、講談が滅び、落語もいまや風前のともしびである。
なぜ、演芸がその演芸を演芸たらしめている様式がこのような有様になったかというと、原因のひとつに、演芸評論家というものが(まあ、評論というものが活字の土俵でしか語れないというハンデがあって仕方ない部分があったとはいうものの)、話芸というものを本来、つけたしでしかない“内容”でばかり語ったということがあげられる。“なにを語るか”の方に、近代的教養を持った若手たちが熱を入れはじめ、“どう語るか”の部分、最も客に直接触れる部分をネグレクトしてしまったことで、結局、もっとフレキシブルに、多様なことを語れるテレビや映画のメディアに、語りという芸能は敗北してしまったのだ。東京の芸能は評論家が滅ぼしたとさえ言えると思う。いや、芸能に限らない。映画もマンガも、“内容”でしか語らない評論家ども のせいでおかしなことになりつつあるのではないか?
大阪は評論の分野で、東京より遅れた。それ故に、古い芸能が古い形で生き延びている。僥倖と言うべきだろう。古い形を残しながら、その形の中で新しいものを語ろうという南湖さんの試みが、ゆっくりながらも次第に認められつつあるのは、“語りの形”にこだわっているからではないか。賢しらな内容を語ろうとしていない、古典を古典として語り、ときどき現代の目からのツッコミこそ入るものの、薄っぺらい新 解釈など入れていないところで安心できるのである。
それは紙芝居『原子怪物ガニラ』の語り口にも言えることだし、本日のメイン、探偵講談『シャーロック・ホームズ 六つのナポレオン』にも言える。ガニラはやっとこれまでの切りのところの先まで進んだが、相変わらず話はサッパリ進まない。そこがひとつの味であるし、『六つのナポレオン』も、後の対談で山前譲さんが言っていたように、ホームズは大した推理などしていないのだが、そのクラシカルな語り口の中で、19世紀末のロンドンと大阪が奇妙に混交し、何度も繰り返されるフレーズがあたかもこの作品を古典芸能の一編であるかのような錯覚さえ抱かせる。語り口に酔 うためには、内容はかえって邪魔、という場合すらあるのである。
終わって打ち上げはいつもの江戸和食・隅田。“エドワショクスミダ”てえから韓国料理かと思った、とお馴染みのギャグ飛ばしつつ。道々、芦辺拓さんと小劇場演劇論。店ではワセダ・ミステリクラブの人たちなどと翻訳探偵小説ばなし。エラリー・クイーンの国名シリーズには名犯人がいない、という話になって、なるほど犯人の名前を誰一人記憶していない、しかし消去法なら、と
「『スペイン岬の謎』の犯人は、あの人ではない」
「『シャム双子の謎』の犯人は、あれではない」
「『チャイナ橙の謎』は、そもそも犯人はどうでもいい」
などと指を折る。ああ、またもや一般人の皮が破れてミステリオタクの地が。
K子もやがて加わって、芦辺さんとなんやらかやら。K子は小栗虫太郎を“つまら ない”と一刀両断に切って捨て、その切り捨て方に芦辺さんが
「K子さんはわれわれがつい、幻惑されてしまう虫太郎のレトリックにごまかされない、希有な人だ」
と、絶対過大評価なのだがしかしまあ、ハタ目ではそう言えるかも知れない、という賛辞を送っていた。南湖さんは獅篭とも今度一緒に会をやるとか。
二次会はなんとかいう、やたら料理や酒の注文の通らない店で。今年は南湖さんを強力にバックアップしますと宣言。いや、出来れば南湖さんに個人的に大阪講談を習いたいとすら思った。しかし、K子が帰りの電車の中で
「南湖さんが一番静かだった」
というくらい、私、芦辺、山前の三人、しゃべる々々。
帰宅したら講談社『週刊現代』から次の〆切メール。ヤンマガにいたデスクが前回の私の原稿を大変気に入ってくれた由。それこそ、内容ばかりにとらわれず、マンガにとって有益な批評を心がけたわけだが、現場にいた人間にその趣旨が認められるということは、その目論見が機能していたということだろう。ややホッとする。