裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

9日

月曜日

スウェーデンのご厚情を深く感謝

 スウェーデン大使訃報。朝6時に目が覚める。有馬ってところは山に囲まれているせいか陽が差すのが遅く、まだ窓外は真っ暗。手ぬぐい引っかけて浴場へ。昨日と同じ泥色の湯の中に沈む。本来私の好む温泉の用い方は湯治宿に十日くらい居続けをして、風呂に入ることと読書以外には何のやることもない怠惰を楽しむことなのだが、計画立案マニアであるK子と一緒だと、なかなかそういうダラダラを楽しめない(そもそも今の私に十日間もの休みなんぞとれない)。せめてこれからは毎夏に三日くらい、一人で温泉籠もりをするか。賄い方の母が上京してきてくれるから、彼女のメシ を気にしなくてもすむようになるし。

 部屋に帰ってまた布団に寝そべり、ウトウトする。7時半、布団をあげに来たので隣の居間に移動し、モバイルなど。昨日のN川さん、湾岸さんから出演御礼のメールが来ていた。なんとも早い。私はこういう御礼関係が遅いのでいつも自己嫌悪しているのだが。あとは全て仕事関係、帰京してからのこと。この居間にマッサージ椅子があるのでそこに寝そべり、マッサージ受けながらまたトロトロ。やがて、食事の用意をしている気配が窺え、シャッカシャッカと鰹節を削る音が響いてきた。記憶というにも朧ろな幼児期、朝の台所ではこの音が毎日響いていたものだ。やがて搾り立てのオレンジジュースが供され、朝のビタミンCをとった後、呼ばれて膳の前につく。湯豆腐の支度が整えられており、削り立ての鰹節が、その湯豆腐に添えてお召し上がりください、と盛られている。この豆腐は丹波の黒豆で製せられたもの。豆の甘みと香りに、削り立ての鰹節の香りが加わり、思わずうなりたくなる味。朝の膳にも煮物などがあったが、この豆腐、それから名物のマツタケと昆布の山椒煮が最高のご馳走で あった。

 9時半にYさんYくん、迎えにくる。急いで炭酸煎餅などをみやげに買い、Yさんの運転する車で新神戸駅まで送ってもらう。この御所坊には、箱形の、クラシックな英国車“ビッグ・ベン”で神戸ポートピアホテルから送り迎えするサービスもあるらしい。これもいつか乗ってみたいと思った。新神戸駅でYさん親子と別れ、しばらく喫茶店で時間をつぶす。そろそろホームに行こうか、と腰をあげたら、“ただいま人身事故のため大幅に遅れが出ております”というアナウンスあり。あちゃあと思ったが、なんとか十分ほどの遅れですんだ。どうも飛び込みがあったらしい。

 昼は車内で神戸牛のサンドイッチ。車内でこれまでずっとトイレ読書で読み進んでいたパール・バック『大地』読了。第一部の主人公・王龍の、土に根ざした逞しさに比べ、第三部の主人公で新時代の知識人として描かれる孫の淵の頼りなさ、定見のなさは読んでいて、喜劇的なものさえ感じられる。なまじ学を修めただけに、自己のアイデンティティを足元の定まらぬものにしてしまっている淵やその友人たちの行状の描写を読むと、あきらかに作者のバックには、革命運動のような“思想”に左右される青年たちの精神的幼さをからかう目的があったのではないかと思われる。淵はその革命にすらはまりこむことができず、最後は中国の伝統と西洋の新思想との折衷の道を美齢との結婚で実現させようと決意するところで一応、ハッピーエンドということになるが、この先、淵のような性格の男が激動の革命の中を無事に生き延びられると は思えない。

 この作品は一部、二部、三部と進むにつれ、服装や食べ物などのディテールの描写が少なくなってくる。三部は特に舞台がアメリカに移ることもあって、西欧人読者にいちいち細部を説明しなくてもよくなったからだろうが、一部の王龍のエピソードが最も面白いのは、小説の筋立てが最もシンプルで力強いこともあるが、このディテールの魅力がふんだんにあることにも関係しているだろう。殊に第一部は食い物の描写が豊富に出てきて、私のような文学性指向よりは食い気の方が先に立つ読者には嬉しかった。中でも王龍の妻、阿蘭が月餅を作る場面の描写は印象深い。
「二度目に町に出かけたとき、王龍は、豚の脂身と白砂糖とを買ってきた。阿蘭はその脂身を、なめらかに、白くしてから、米の粉を持ってきた−−この米の粉は、彼らの田で作った米を、必要に応じて牛にひかせられるようになっている石臼でひいたものだ。彼女は、それに脂身と砂糖を加えて、いわゆる、月餅という正月の菓子を練りあげた。黄家では、これを正月に食べているのだ」
 いかにも中国の田舎の菓子らしい、脂っこい、腹にもたれそうなものである。それでも、読むと口中に唾がわいてくる。食の描写がそのまま、中国民衆のバイタリティ の表現につながっているのだ。

 品川駅で降りて、広くなった駅構内を延々あるいてホテル街側口に出て、タクシーで帰宅。K子は仕事場に直行。手紙類をチェック、メールなどもチェック。いろいろと返事を出したり。部屋が三日留守にしていると冷え切っている。風呂を入れて暖ま る。温泉から帰って風呂に入るのもナンであるが。

 8時半、『クリクリ』で夕食。今日はガラガラで、貸し切り状態。ここ、このあいだから休業日を日曜に変更したのだが、長い間月曜休みだったので、お客さんたちがそれで覚えてしまって、月曜には来ようとしないのである。鳥ロースト、タルタル、イカの巻きライスなど。絵里さん、ケンさんと雑談しながら食べる。炭酸煎餅をお土 産に渡した。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa