裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

8日

日曜日

ブギウギで神軍

 ノリのいい神軍やなあ。朝、7時起床。この部屋はポートピアホテル南館なのだが本館に比べて部屋がやたら広い。20畳くらいあるのではないか。そのくせ浴室は昨日のスイスホテルに比べてチャチな感じ。シャワー使い、昨日の晩のプレンデトワールで朝ご飯。やはり混み合っている。あら皮の肉の脂がまだ全身をゆったりと包んでいる感じなので、おかゆにして、あと温泉卵とトマトジュースで朝食。朝からシューマイや炒飯、野菜小包籠がバイキングにあり、それを食べている人がいるのは南京街を有する神戸の朝食の特長か。まあ、私も中華饅で朝飯とかはよくやるから人のこと を言えないが。

 部屋に帰りメールなど確認。東雅夫氏から、こちらの提案にかなり積極的な返事のメール、打ち合わせ期日を決めましょうとのこと。すぐ返事をと思ったがスケジュール表が手元にないので、帰京してからということに。旅の前半を終わり、着替えなどの荷物をまとめて宅急便で送る。今日はこのポートピアアイランドから出発のマラソン大会があるとかで、ホテルの外で何人かが足慣らしに走っているのが見える。この旅行の前に、原稿の資料で宮武外骨のマラソン排斥論を読んだばかりだったので、何となく苦笑が浮かぶ。外骨が徹底して糾弾したのは、まさにこの阪神マラソン大会で あった。

 外骨はマラソン競技をアメリカかぶれの極悪事と罵倒し、“過度の競争の為め走り労れて気息奄々殆ど死者の如く成れる競争者を社員(主催の新聞社)共が皆寄つて集つて、或は萬歳の声を以て鞭ち、拍手の音を以て励まし、強ひて其手を引張て決勝点 に引摺込むなど、悲惨極まる虐待を敢てして”いると難じている。
「斯くの如く人道無視の蛮的興業を再びせんとするは其無謀其残忍、実に是悪鬼悪魔以上の行ひである」
 ……ひどい言い方ではあるが確かに、ランニングは全スポーツのうち、競技中の突然死率が水泳やサッカー、登山を抜いてトップだし、高橋尚子選手などの、年齢に比しての肉体(女性的な)の発育の遅れを見ても、ホルモン分泌とかに異常が出ているのではないか、と思えてしまうし、“心臓破りの丘”なんてところを選手が苦悶の表情で走り抜けるところや、足の痛みに堪えて苦痛の極みのような様子でヨタヨタ走っているところを、テレビでワクワクしながら見ている、などというのは、どうもあま りいい趣味とは思えないのである。

 そんなわけで、ゆっくりしていると混雑するというのでシャトルバスで三宮へ。乗り込むとき、入り口ドアのところの注意書きに“指づめに注意”とあって、非常に懐かしい思いにかられる。二十年ほど前、なをきと二人で大阪・神戸を回ったことがあり、その当時はいまより関東・関西の文化がはっきりと色分けされていて、私たち兄弟にとっては見るもの全てが新鮮だった。中でも、地下鉄のドアに貼られたシールの“指づめ注意”という文句には大ウケだったものだ。このダイレクトな表現こそ関西の真髄、とさえ思ったが、東京の連中があまり面白がるもので恥ずかしがったのか、いつの間にか消えてしまった。非常に残念だったが、こんなところにまだその表記が 残っているのを見つけて、何か非常に嬉しい気分になる。

 三宮で、某公営放送局Yくんと待ち合わせ。時間があるので喫茶店に入る。喫茶店ばかり行っている旅行のような気がする。雑談いろいろ。今度のと学会にまた西原理恵子さんが参加を申し込んでいるが、入会する気なんだろうか、とか(と、言っていたら今日のメールで、二次会までしっかり完全参加、ということだった。気合入って いることである)。

 すぐYくんから電話あって、三宮駅に戻る。休日でバスが混んでいるというので、タクシー分乗して。六甲トンネルを通って有馬へ。このトンネル、井上の家が神戸にあったとき、訊ねて通ったのが初めてであった。もう四半世紀くらい前か。やたら長いトンネルで、途中で六甲のわき水を飲めるポイントまであった、とYくんに話したら、運転手さんが“ああ、あそこはもう閉鎖されましたわ。トンネルの中で駐車すると危ないですからな”と。その前に、何か水が汚れていたとかいう報道がなかったっ け?

 二十分ほどで、有馬着。いかにも温泉町という雰囲気の町並みの、かどの一等地に立派な作りの炭酸煎餅本舗があり、これがYくんの実家。タクシーが停まるのを見て店内から駆け寄ってきてくれたのは以前、マップルウィークリー『週刊日本の名湯』の有馬温泉の巻で、有馬温泉活性化委員会“まちなみ部会”代表として写真が出ていたYさんのお父さん。私が“あ、お顔を見てすぐわかりました”と言ったら、向こう も同じ台詞を発し、声がハモった。

 この店は二号店で、この上の湯本坂というところを上がったところに本店があるのだそうな。宿(陶湶 御所坊)のチェックインが1時とゆっくりなので、荷物だけまず置いてもらって、湯本坂をYさん(当然だが名前が同じなので、お父さんの方はさん、息子はくんで区別する)の案内で回る。本店は木造の、極めて風情のある作り。ここで手焼きの焼きたて炭酸煎餅をごちそうになり、腰掛けて少し雑談。やはりこの店も震災の影響で傾きかけたのを、梁を補強するなどしてかなり手を入れて復活させたのだそうな。向かいの薬局の軒下にある“tabacco”の看板が懐かしい。ウチの薬局にも昔はこの看板がかかっていたもの。棚の上に古いいい色の焼き物が置かれている。古瀬戸ですか、と訊いたら、この有馬の先の三田というところで昔焼いていたもので、古三田です、とのことだった。三田は東京にも三田牛を売り物にしているところがある。ずっと“ミタギュウ”だと思っていたら、サンダと読むんだそうで ある。今日はじめて知った。

 坂をさらに上って、人形筆の店を見学したり、“金の湯”という温泉で観光客が足湯を使っているところを見たり(普通の歩道の一画で、みんなが靴を脱いで足を湯にひたしているのはちょっと異様な光景)、さらに坂を上がって境内に泉源がある有馬天神を参拝したり、また行基が開山したという『温泉寺』なるダイレクトな名の寺にも詣る。神仏混淆で賽銭箱の前に叶緒が下がっているが、鈴ではなく、銅鑼を鳴らす 仕組。

 そこで昼食を、ということになり『花の宿』というレストランに入る。今夜泊まる御所坊と同じ経営らしい。カウンターもあり、その向こうには大釜が据えられて、ご飯の炊けるいい香りがしている。ここで、Yくん、われわれ一行が食事。懐石風で、雲丹餅、黒豆、小海老の唐揚げなど十品目くらいの突き出しの他に、ホタテしんじょのお吸い物、三田牛のローストビーフの糸づくり、ブリ照り焼き、蕪蒸しのかにあんかけ、さらにご飯には小にしん(イワシかと思ったらにしん)の塩焼きがつく。K子が、この三田牛のローストビーフがいたく気にいったようだった。なんとしかも、Yくんがここを奢ってくれる。I矢くんたちが恐縮して、このお礼にはと学会東京大会の招待券を贈ろうか、と言っていた。彼ら三人はこれから御所坊で湯だけ使い、そのあと帰京なわけだが、“しまった、こんないい食事が出るのならもう一泊することにしておけばよかった”“カラサワさん夫妻だけが今夜おいしいものを食べるのはくや しいから、帰ったらチャイナハウスで晩飯を食おう”などと話している。

 ここでようやく今夜の宿泊先の御所坊へと。部屋を整える間、ステーキハウスにもなっている喫茶店で待つ。ここでお茶請けに出された黒豆のタルトが美味。先の『週刊・日本の名湯』にはこの宿のことを“現在の建物は昭和初期に建築された木造3階建てで、大正ロマンの世界を感じさせる”と、ちょっと九九に合わないことが書いてあるが、要するに、建った時点ですでにレトロチックであったということだろう。建て増し々々で広げられたらしく、われわれの案内された部屋も、いったん階段を下りて、また上がってというようなデコボコした作りの先にあり、ここらあたりのややこしさがいい。“聲”の間というところに通される。十畳はある広々とした座敷に、八畳くらいの洋風の居間、窓際には縁側風のスペースがとられ、小テーブルと椅子が置かれている。さっき昼食のときに飲んだ酒でいい気持ちになっており、押し入れ(これがまた広くて、中に蛍光灯がつく。K子が“ウォークイン・押し入れ”と言った)から枕と座布団を引っ張り出して、ゴロリと横になったら、もうたまらず、グーといい気持ちで寝入ってしまう。その間に入浴すませた三人が“じゃあ、これで帰りますから”と挨拶したが、横になったままムニャムニャと何か言ったきり。

 結局、起きたのが5時近かった。部屋付きの女の子(渋谷を歩いていてもおかしくない感じの子が着物と前掛けをしていると、女中さんのコスプレですか、と言いたくなってしまう)が、この部屋はお食事用にして、布団を敷くのは隣の部屋に、と言ってくる。隣室は“楽(実際はサンズイがつく。ラクと言う字で、大きな池という意味である)”の間といい、タニザキジュンイチが泊まった部屋です、という。こういう間違いも、いかにも若い女の子っぽくって、可愛い。何でも知ってるような口をきく 私のようなヤツは嫌われるのである。

 部屋を移ってみると、作りがかなり違う。こっちは入ったところが和室で、隣の部屋が、段を二段ほど降りた形で居間になっている。こういう風に部屋に段差があるのは、やはり有馬が山道にある待ちだからなのか。一部屋ごとに作りが違っている宿というのは、以前イタリアのフィレンツェで泊まった、修道院を改造したJ&Jホテルの日本版、といった雰囲気である。入り口のところに、この部屋を愛したという谷崎潤一郎の直筆の手紙が飾ってある。読んでみると、大阪の編集者宛のもので、原稿の締切がもう過ぎていますが、まだ十八枚しか書けていません、十八枚はいかにも中途半端ですが、すぐ後を続けて送りますから、とりあえず受け取ってください、後続の原稿がもし遅れるようだったら、先にその十八枚だけ東京へ電送しちゃってかまいません、という、原稿遅延の詫び状であった。いかにも私が泊まる部屋にふさわしいと苦笑。文豪谷崎も所詮は締切に苦吟するモノカキ。書いた原稿の質は違っても、生活 スタイルは同じ。

 浴衣に着替えて風呂にいく。私は左足が病気と手術で変形しているので、スリッパがうまく履けない。さんなみで湯殿に降りていくとき、いつも左足のスリッパがぽーんとスッポ抜けて階下に落ちていってしまう。フラットでもそうだった。階段のある宿はそんなわけで苦手だったのだが、この御所坊のスリッパは、布製で、足先を柔らかく包んで、階段を上がり降りしても脱げない。これには感動。このスリッパのメー カーを聞いて帰ろうかしらんと思ったほどであった。

 有馬の湯は鉄分を含み、その鉄が酸素と化合して赤く染まった(要するに鉄サビの色)褐色の湯である。浴場に入ると、すぐにあるのは透明なジャグジー風呂だが、外への口があり、さっき表で見た足湯のような、赤茶色の湯が下にたゆたう通路が折れ曲がって続いている。そこを進んでいくと、次第に湯が深くなっていき、半露店の湯船にまでつながっているという仕組である。一センチ、体を沈めるともう、褐色の湯に隠れて体が見えなくなる。ちょっと舐めるとむやみに塩辛い。海水の三倍の塩分を含むという。何のことはない、赤だしの味噌汁につかっているようなものである。ワカメにでもなった気分で、湯気に煙る中に身をひたし、ふうと息をつく。年末年始は仕事に追われてほとんど休むヒマもなかった。今回の旅行が実質的な正月旅行というわけである。ゆっくりと体を温めながら、我が身の来し方行く末をじっくりと考えようと思ったが、これが見事に何も頭に浮かばない。すでに『トリビア』ブーム以降のことは考えて、布石を打てるだけ打っていて、それなりの動きも出てきている。と、いうか、現在進めている作業はその一環なわけで、来し方行く末なんてもんじゃなくまさにその渦中にいるのである。思い返すような余裕は薬にしたくもないのである。

 上がってまたゴロチャラ。6時半ころYくんYさんが親子揃って来訪。一緒に夕食をとる。ここの料理は山家料理というもので、もちろん料理長もYさんの知人で、今日はYさんも食べるということで気張ってくれたそうである。田作り、すり身煎餅、擬製豆腐などの突き出しに、ひらめ、カワハギ、明石蛸、まぐろのお造り盛り合わせ(カワハギのキモが甘くて最高。まぐろの、まるで霜降り牛かと思える脂の乗りも凄かった)、焼き豆腐、菜の花、ウド等の野菜、帆立豆腐に水菜、水前寺海苔、それに黒米と餅米の団子のお吸い物(本日最も評判のよかった一品)、ニシン、エビイモ、新タケノコ、ナスの山椒煮、蟹の甲羅焼き、蟹の酢の物、それに三田牛のミニステー キという、文字通り山海の珍味を一どきに味わう豪華版であった。

 もちろんおいしいが、最高の料理はYさんの話。老舗の跡取りに生まれながら早稲田を出て(息子のYくんは慶応なんだが)広告代理店に勤め、やがて故郷で店を継ぐまでの話も面白いが、震災を体験し、文字通り傾いた店と自分の街を復興させることに心血を注いだエピソードはつい、このあいだのことだけに聞いていて迫力がある。 K子が例によって聞きながらポンポンと好き勝手な批評を述べる。有馬のような土地ではこういう女性は珍しかろう。Yさん、なんだかK子を気に入ってしまったようで、“K子さんを是非うちのワイフに紹介したい、うちのワイフとK子さんは何か、似とる”とスゴいことを言いだし、その場で携帯で奥さんを呼びだし、“カラサワさんご夫妻をこれからお連れするから”と言い出す。奥さんは震災後、“ブティックをやりたい”と言いだしてお店を開き、旦那さんの炭酸煎餅よりも稼いでいるというビジネスウーマンである。そこらがK子と相通ずるのかもしれない。浴衣のままでどう ぞ、というので車にそのまま乗り込む。ここらがいかにも温泉街だ。

 夜の有馬を走って、西宮のYさん宅へ。“ワイフ”(この言い方、『サザエさん』で覚えたのだが、実際に使っている人となると、Yさんが初めて会った人、じゃあるまいか)なる人に挨拶。“もう、うちの人がみんな私のことを話してしまって……”と出てきた奥さん、なかなかのやり手と見た。Yくんの家庭はみなユニークな人材揃いである。家を飛び出した長男に変わって代々の店を継いでいる弟さん夫婦とも挨拶した。つい四ヶ月前に生まれた赤ちゃんもいて、ここには常識的な“家庭”がある、という感じだが、ワイフさんの方はやはり自己主張強く、五年に一度は引っ越しをする、という。K子がうらやましがり、話が合う。なるほど、似ているのかもしれぬ。弟さんに、本当にこの近辺ではTBSラジオが受信できるのですか、と訊ねた(なにしろ、今回の旅行の本来の目的はソレなのだ)ところ、近くに岡場という地域があっ て、そこだと状態は悪いが、まず大丈夫とのこと。

 一時間ほどお邪魔して、11時にまた、送ってもらって御所坊へ。“これにだけは入っておいてください”と言われた檜造りの風呂へ入る。Yさんが“あれに浸かるとお姫様になったような気分になる”と保証した風呂である。ただし、家族風呂で、一度に一家族しか使えない。別棟の離れにその風呂はあるので、入り口にスリッパがあるかどうかを確認してから入る。12時までなのだが、11時半まで、他のお客が使 用していて、何度かのぞきに行く。

 離れに石畳を踏んで、縁側から上がる。二室ある離れで、一室が湯殿、もう一室は茶室だ。要するにこの檜風呂は、茶席の客をもてなすというコンセプトらしい。北大路魯山人が星ヶ丘茶寮で客をもてなしたときも、まず五右衛門風呂に入れたという話があったなあ、と思い出す。秀吉愛好の湯にふさわしい豪勢な趣向だ。夜の闇の中、檜風呂は湯船の底に玉砂利を敷き詰めた、なかなか優雅な風呂であった。部屋に敷かれた布団は、マットレスがまるで羊羹みたいに分厚い。床暖房の暖かさと銀泉に浸かった暖かさ、それにわざわざ息子の友人が来たからと家族総出でもてなしてくれたY家の暖かさと三重にポカポカした中で眠りに落ちる。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa