裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

1日

日曜日

アショカ王に釣瓶とられて貰い水

 しょせん王様にゃよ、わしらの暮らしのことはわからんで。朝、7時50分起床。胸のあたりがひどく寒い。手や足が冷えるというのはわかるが、胸が冷えるというのは初めてである。朝、中華スープパスタ。唐辛子パスタと普通のを半々にする(トイレでヒー、とならぬ用心。この年まで痔とは無縁で来ているので)。

 新聞に訃報二つ、ラジオ声優加藤道子氏死去、84才。第一回紅白歌合戦(もちろんラジオ)紅組司会者というから、放送の歴史そのものみたいな人である。ただし、第一回というのは1951年、『歌合戦』というタイトルになってからであって、その前身である『紅白音楽試合』(GHQのクレームで“合戦”の文字はまかりならんとされて題名を変更)は1945年、司会は水ノ江滝子と古川ロッパだった。水ノ江滝子の方はまだ生きているんだから凄い。

 さらに10代目桂文治死去、80才。パルコのCMでスクーターに乗って走っていたのももう二十年くらい前だったか。あの起用は、要するに“最もパルコらしくない人”という意図でのものだったろう。その時期から、変遷する世の中とは次元を違えた、寄席という、時の止まった、狭い世界に生きていた人であり、それ故に価値のある人だった。私はこの人の高座は、前名の伸治の時の方がよく聞いていたと思う。子供には大変にわかりやすく、笑える落語ばかりで、それだけに“まあ、あまり大物の人じゃないナ”と、小生意気なことを思っていた。今にして思えば、この人の伝えていた、いかにも長屋の八っつぁん熊さんといった雰囲気を、もっと味わっておけばよ かったかな、とも思うが。

 四コマの原作渡したK子から、赤尾敏の顔とか、アメリカの新式セックス法とかの図版などが欲しいとメールが来たので、ネットでしばらく検索。赤尾敏の顔などというもの、ありそうでなかなかネット上にない。昼、外へ出て、すき家でキムチ牛丼。

 帰宅して原稿書き。『フィギュア王』、原稿用資料はすぐに見つかって書き出せたが、図版用資料が見つからない。まあ、それはまず後回しにして、原稿のみ(10枚半)書き上げて、5時半メール。まず、サクサク行った方。文中に、中村修二教授への特許料200億円支払いの話が出てきたが、これまで会社が青色発光ダイオードの開発に対し、氏に支払ったのはボーナス2万円のみ。200億の支払い命令はその額の100万倍。今朝の産経抄が、あまりに発明者の権利ばかりを優遇するのもいかがなものか、と書いていたが、しかし痛快を感じざるを得ないのは、このわかりやすい“一文惜しみの百失い”的な実例だろう。会社が落語の『一文惜しみ(五貫裁き)』の徳力屋万右衛門に見えてくる。

 稲葉振一郎という人が、私の1月19日の日記について、何か言っているようである。自衛隊が向こうで殺されれば、小泉や石原が即、憲法改正の動きに乗り出すわけで、反戦反米派だけに自衛隊の死が利するわけではない、楽観的な唐沢はアマい、との趣旨らしい。この人は、私があの日記のあの文言を、楽観で書いたと思っているのかしらん。どう読んでもそうはとれないと思うのだが。あ、私を単純な現行憲法護持 派と思っているのか?

 6時、新宿のマッサージ。サウナ、汗だけはだらだらと流れども、肩から胸にかけて、やはり冷え冷えとした感じあり。筋骨隆々たる黒人客が一緒にいたが、日本人がサウナに入るとすぐ出て、外で待ち、誰もいなくなるとまた入る。潔癖性の黒人で、黄色人種などと一緒は汚らわしいと思っているかのようである。マッサージはいつもの力持ちの女史、今日の揉み方はこれまで長いこと揉んでもらっているうちでも最高に気持ちよく、全身に活力みなぎる感じ。と、いうか、普段は痛いくらいの揉まれ方 が、ちょうど快感になるくらい、あちこちが凝りきっている。

 一旦帰宅し、調べもの少しした後に9時、下北沢『虎の子』。カウンターで、水菜とじゃこの豆腐サラダ、牛すじ煮、豚ロース焼き、つくね鍋など。テーブル席にやたら声の大きい男女の一団あり。イヤでも話がこっちに聞こえてくる。“わたし、うちの父が嫌いでさあ、どうしてもダメなの”“えー、父が全然ダメなの?”“うん、吐いちゃう”とか明るくはしゃいだ声で話しているので、家庭不和をなんであんなに楽しそうに話すのか、不思議だったが、よく聞いてみたら“牛の乳”を聞き違えていた のであった。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa