裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

2日

金曜日

ビジュアル、キカジュアル、イワジュアル

 ビジュアル系の猿(って、多いよね)。朝、8時起床。敷き布団が一枚きりだったせいか、背中に洗濯板を打ち付けられたようにガキガキ。起きあがるときにイデデデとうめく。胃も荒れているらしく、ズキズキと痛む。額に寝ながら汗をびっしりとかいた。風邪ではなく、昨日の生牡蠣に当たったか? とも思うが、やはり症状的には風邪であろう。朝食、やっとパンプキンシードの入ったパン一切れをコーヒーで流し込む。しかし、ここまで重い風邪をひくのは、年末の疲れがかなりたまっていたせいか、とも思い、また、逆にこれが正月休みでよかった、とも思う。せめて正月は何もしないで休め、という天の指示かもしれない、と、思うことにする。

 家に二十年くらい前からある温灸機で背中を暖めて、それから母がガチガチの背中をマッサージしてくれた。七十とは思えぬ指の強さである。K子はスティック糊で、去年一年の領収書類をファイルに貼り付けている。この作業のためにアスクルから購入した、事務用のスティック糊を何本も用意している。こういうことには燃える女であるなあ、と感心。母も私もこういう仕事が一番の苦手。実に機能的には優れた嫁を貰ったことになる、と、それはさすがに母も認めている。

 また二階に戻り、敷き布団の下に、押入にあったマットレスを敷く。仏教色と道教色が混じり合ったような奇妙な図柄で裏地が金色。ハテなんだろうと思う。鼻を近づけて嗅いでみると、かすかにではあるが線香の匂いがする。ひょっとして、親父の遺体を寝かせておいたものか? とも思う。後で訊いたら、なんか義理で買わされた、波動の出るマットレスとかいうものであるらしい。

 じっと横になりながら、ぼんやりした頭で『歎異抄』を読む。歎異抄の原文と、その現代語訳、用語解説が先にあり、その後に、その内容を敷衍した野間宏の解説がつくという構成であるが、驚いたのは野間の文章の異様さである。たぶん、テープ起こしなのだとは思うが、しゃべり言葉特有の繰り返し調を、そのまま文章にしてしまっているせいか、ボケの来た老人のしゃべりみたいにくどい調子になっている。
「私は僧にあらず俗にあらずということは、ありえないことであると少し前のところで言い、しかも親鸞はそれが自分の身であると言っていると書いた。僧にあらずば俗であり、俗にあらずば僧であって、それ故に僧にあらず俗にあらずなどということは実際にはありえないことなのである。しかし実際にありえないことがある。それが自分の身であるということは、一体どういうことなのだろうか。それはそれが架空にあるということであって、それが架空としてあると考えてはじめて、このことは成り立つのである。そして私は“僧にあらず俗にあらず”という言葉によって、親鸞は、この世には実際にはないのだが架空としてある一つの位置を考え、そこに自分を置くことを見出した、とするのである」
 わかりやすく言おうとしすぎると文章というものはかえって意味をとりにくくなるという、一つの好例であろう。
「私はいま架空の位置と言った。しかしそれは架空の位置であるとはいっても、そのような位置を見出すのは、じつにむつかしいことである。それはあるかなしかの、じつにわずかな狭い場所なのである。それはわずかな狭い場所というよりもあるかなしかの、境い目といった方が、よいだろう」
 などという箇所を読むと、この著者は俺を馬鹿にしておるのか、とさえ思えてくるのだが。

 昼はパス。K子は雑煮を食ってごきげん。さらに作業を進めている。モバイルを使いメールチェック。読んでますメール、今日も多数。若い女性が多いのが意外。“おれんちの近所の住人です”という人がこれまでで5人もいるのが不思議である。あのあたりに、何か地脈のつながりでもあるのか。“オレンチ・コネクション”はちと、ベタすぎるシャレであるが。あと、と学会MLで、昨日のトリビアの正月特集に関するツッコミというか、感想というか。

 寝床と、ストーブ前のソファをいったりきたり。『歎異抄』の野間文体、すでにハマってしまっている感じ。
「(親鸞の“愚禿”という名乗りについて)愚とは辞書によれば、オロカということである。オロカでドン(鈍)なのである。それ故、愚禿を髪の毛のない愚かもの、あるいは愚かな禿という風に考えてもよいが」
「(親鸞が夢で聖徳太子からお告げを受けたことについて)もちろん夢と人間の関係は、いまなお十分みきわめられているわけではなく、夢を芸術の根拠として考える現代の芸術にも、多くの弱さがあり、また単調なひびきがつきまとっている。しかし夢を根拠のないものとして軽く見る考えは、今日においては文学の中でも力を失ってきているのである。夢は意識にとっては根拠のないものであるが、それ故に逆に根拠のないが故に意識的な根拠をこえて、人間の根拠にせまるものだからである」

 便意があって何度もトイレに行くが、軽い便秘状態で、いきんでも何も出ない。まあ、今日などは出すほどのものを何も食べていないのであるが。夜はおかゆを作ってもらう。白粥であるが、これが絶妙な味。漱石の“腸(はらわた)に 春滴るや 粥の味”の句が実感できたことであった。梅干しでいただく。他にホウレンソウと椎茸のポン酢、煮豆腐も作ってくれて、K子は煮豆腐で熱燗を飲んでいた。それもうまいが、今日ばかりは純粋に粥と梅干しだけを味わいたい気持ち。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa