30日
日曜日
ハイフェッツ黒頭巾
や、あのバイオリンの音に乗って現れ出た正義の味方は。朝6時起床。5時に目が覚めたときは頭が痛くて(二日酔い)、腕が痛くて(転んだときの打ち身)、どうしようもなかったのだが、クスリ効いたか、6時には回復。わが身体の丈夫さに感心。メールなどチェックする。“読んでます”メール続々。うれしいことである。他に、ちょっといい気分になる情報もあり。朝飯は昨日伊勢丹で買ったまい泉のカツサンドですまし、風呂入り、50分に来た芝崎くんとK子、三人で荷物をそれぞれ分担してかついで、出動。タクシーがさすがに晦日であまり走っておらず、NHKのところまで行ってつかまえる。なんとか荷物、トランクに入った。高速が空いていて、レインボーブリッジ近辺が朝焼けに映え、まことに美しい。運転手さんと世間話。来年はあの佐川急便がタクシーに進出し、一層厳しい状況になるだろうと。
コミケ会場近くで、やはりタクシーの運転手さん“ひええ、三十日の東京にこんなに人がいるところがあるんですか”と驚いていた。例年通り、会場入り、ブース設営に入る。感心したのは、毎度、机の上に大量にチラシが乗っており、それを取り捨てるところから作業が始まるのだが、今年はその上にコミケ特製の紙袋が置かれていたこと。これに入れて捨ててください、ということだろう。対応がきちんと出来ているのである。奥平くんがもう来ていて、旧ソ連軍歌集のCDのジャケットを制作している。何か、2ちゃんねるあたりでコミケでテロを起こす、といったような書き込みがあったとのこと。そう言えば会場に来るとき、救急車と消防車がサイレン鳴らしていたが、ソレか? と思う。テロにしちゃ早すぎるが。
今回は隣が左眠田さんのウォーマシン、右が鶴岡のドリフト道場。それからひとつおいて右がおたくを面白くする会と岡田さんのところだが、その“ひとつおいて”が何と早稲田大の落研である。ひょっとして立川流が西館に行ってしまったのは、ここと間違えたか? と思う。早稲田出身だが司法試験受験生で落語などとはカスリもしていなかった談生さんが立川流座談会の中で、“ウチの大学の落研の連中なんか、人の顔もまともに見られれない社会不適応者の集まりで”と言っていました、と教えてあげたら、早稲田の皆さん、苦笑していた。
ロトさん、畸人研究会、その他知り合い関係に挨拶。鈴之助は自分のブース持っているが、どうも話ぶりや動作がナヨナヨっぽくなった。K子と、貫通するとやはり、女っぽくなるものなのかねえ、と感心(何に)する。ドリフトで売っていたカルタと絵本が大傑作で、絵本をすぐ購入(カルタは昨日幸永でもらった)。気楽院さんが自分のブースにと学会誌(9号再刊)を委託で持っていってくれる。西館に行き、談之助さん夫妻とキウイさんに挨拶。志加吾さんはチケット忘れて並ばされているそうである。マンガのネタを拾うやつは拾うように出来ている。委託で立川流本家を100部、と学会ブースに持ち帰る。しかし、どうしてここの西館と東館はこうまで遠いのか。今朝はあまり寒くないということもあるが、すっかり汗をかく。カスミ書房さん(コミケスタッフである)にバッタリ出会って挨拶。いろいろと話す。コミケ管理委員会でも“立川流本家”が申込みされたとき、“談志が来るのか?”と話題になったそうである。K子と眠田さんが事務運営のことでヤイノヤイノやりあっていた。10時、お定まりの拍手と共に2001年冬コミ、開幕。
最初は人気ブースが正面にあることもあり、ウチのような評論系はやはり出足が遅いか、という感じで、K子と芝崎くんがちょっと不安そうな様子だったが、次第に波がこちらに押し寄せてくる。ペーパー、たった三折のホチキス誌で300円は暴利のような気がするが、もともとコミケの値段は御祝儀相場だし、会誌9号が700円なので、これと一緒だと1000円ポッキリになって数え間違いが少ないだろう、という配慮である。ヤナセくんが持ってきてくれたと学会誌の復刻バックナンバーも順調にはけ、ペーパー300部、立川流本家、どちらも12時半までに完売となる。差し入れもいろいろいただいた。ダンゴになった客が後ろから手を延ばして取って読むので、持ってかれないかとハラハラする。実際、一部、持ってかれた。また、ペーパー買ったあとで、呼び込みやっていた会員のKさんに“へ、人の揚げ足とって商売できるとはいい気なもんだ”と、毒づいたヤツがいた。で、言ったあと、近くの会員たちにフクロにされることでも怖れたか、急ぎ足で立ち去ろうとしたが、500円払ってお釣を受け取っていない。“ちょっとあんた、オツリだよ、オツリ!”と呼び止めると、ノコノコ帰ってきて200円受け取っていく。アンチなんて連中は所詮こんなものである。小柄だがやたらオーラのある美人がやってきて、“すいません、ここ、睦月先生のブースですか?”と声をかけてくる。卯月妙子さんだった。アップリンクのイベントのチラシを委託されたので、置く。卯月妙子と駕篭慎太郎筆のチラシは貴重かも。ナンビョーY子さんのサイトのファンだそうで、ゼヒ書き込んでください、と言っておく。
握り飯食って、西館の立川流と開田さんたちのところに陣中見舞いに行こうとしたが、何と人出で人出で、エスカレーターが二機、壊れたそうで、階段のあたりがえらい込み様である。実行委員会のスタッフが悲鳴に近い声で誘導していた。やっと、動いているエスカレーターのところまでたどりつき、その途中で後ろを振り返ったら、あたかも民族大移動といったおもむき。うひゃあ、と声をたてる。
西館、立川流のところでは無事入れた志加吾がサインの真っ最中。通りすがりの女性がそれを見て“ゲゲッ、ホンモノだあっ”と叫んでいたのが面白かった。開田さんのところに挨拶に行くという談生さん父娘を案内して西1へ。途中で美好沖野さんに出会った。結婚のお祝を述べる。談生さんが“回り全部知り合いですか”と呆れていた。娘さんはコスプレを見つけては喜んで声をあげていた。開田さんのブース番号をド忘れしたので談之助さんに聞いたら、むこうもと学会と混乱してデタラメを教えたので、ちょっと迷う。案内窓口で談生さんが自信満々に“開田裕治先生のブースはどこですか”と訊くが、こんな若いコにカイジュウのブースを訊いてもわかるはずもなし。あたりの客やカンバンの様子を見て、談生さんに
「えーと、ここはどうやら耽美ですね。アッチの方に特撮のニオイがしますから、とりあえず行ってみましょう」
と歩く。西館は東に比べ、客層、ブース層がハッキリしていてわかりやすい。何のアテもないままに、特撮臭が強い方へとずんずん歩いていたら、ホントに、中で一番そのオーラのただよっているところで開田さん夫妻が座っていた。我ながらオタク嗅覚の鋭いことよ(談生さんは呆れを通り越して、周囲の状況に腹を立てはじめていたようである)。
開田さんたちが打ち上げ場所の駒形どぜうの場所を知らないというので、そこからまた東館に戻り(これがまた難行であった)、撤収準備が終わったK子と芝崎くんを連れて、また西館へ。さっきがピークだったらしく、今度は比較的スムーズに歩くことが出来た。立川流ブースで委託分の売上を精算。開田さんのところに地図を渡し、われわれは渋谷へ帰る。フー、という感じ。これで今年のノルマも果した。K子は仕事場へ。私は風呂に入りなおし、しばらく横になる。眠るでもない覚めているでもない中で、数字の羅列がずーっとスクロールしていくだけの夢を見た。
5時半、渋谷駒形どぜうにて打ち上げ。と学会、立川流、開田さんの怪獣の一巻きが合流。会場では会えなかった睦月さんにもここで会えた。人数、あわせたわけでもないが予約人数(少し多めに言っておいた)にピッタリ合致。いささか幹事の鼻を高くする。どぜう鍋をつつきながら、もっぱら、志加吾たちと話す。談生さんはヘキエキした様子で、“二度といかない”と捨て台詞残して退散したとか。まるちゃんに聞いたら、ずっと立川流ブースで売り子を手伝ってくれていた女性がいて、それがキウイや志加吾にやたらジャレる。志加吾のことをカゴちゃんカゴちゃんと馴れ馴れしく呼ぶ。まるちゃんはてっきり談之助さんの知り合いだと思い、談之助さんの方では志加吾の読者だと思い、睦月さんはキウイの彼女だと思ったそうだが、それにしては、“今度鈴本でアルバイトするんですが、そうすれば志加吾さんに毎日会えますね”などと、全然業界のこと知らないようであり、いったい誰かと思ってまるちゃんが談之助さんに訊いたら“エ、そっちの知り合いじゃないんですか?”と言われたという。結局、いつの間に帰ったのか、最後まで正体不明のまま。結婚式の御祝儀ドロみたいだが、別に被害はなかったもよう。
植木不等式さん、藤倉珊さん、開田さん、あやさんなどとトメドもなく会話。談之助さんのところ、三百冊売ってかなり収益もあったようでめでたし。来年は堪能倶楽部と合同でやろう、と話す。冷酒おかわりおかわり。最後に鯉こくを注文して、食べた。私はもともと、鯉はアライは好きだが鯉こくというのはあまり好きでなく、あの長野でももっぱら塩焼きとアライを味わって鯉こくは残していたのだが、ここで食べた鯉こくは、絶品という味で思わず“うまい!”と声に出した。たぶん、うまく感じる条件が揃っていたのだろう。第一に、今日は三回も西と東を往復して身体がクタビレ切って、甘いものを欲していたということ。第二に今日でこのどぜう屋は年内の営業が終わりで、鯉こくもシッポの方だった。鍋底で長く煮られて、味がしみ込み切っていたのだろうということ。シッポの方、ことに尾びれのヌルヌルがたまらぬ美味となって舌に染み渡ったのである。次回も食べてこんなにうまく感じるかどうかは保証の限りではない。
8時半、お開き。玄関のところで志加吾の発案で私が音頭を取り、三本〆。オタクの三本〆でやるべきだった、と後で気がつくがまあいいや。それぞれ、まだまだ飲み足りないらしく、二次会だあ、と散っていったが、私とK子は早々と帰って寝る。やれやれ、今年は間際までいろいろ気にかかることがあって、神経を使ったコミケだったが、終わってみれば実にスムーズな展開と進行。それにしても、私はこんなことをいったいいくつまで楽しがってやるのだろうか。五十になってもやるであろうか。まあ、三十のときに今の四十代を予想していなかったのは確かである。