裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

29日

土曜日

珍念の男

 一生小坊主。朝、7時半起床。朝食、昨日と同じもの。果物はデコポン。朝、果物を食べるのはダイエットによろしくないそうだが、これは母親が子供のころから私に植えつけてしまった習慣。タバコみたいなもので、冷蔵庫に朝の水菓子がない、と思うと心配で(何がだ)夜もねられない。そう言っておいて、忙しいときなどコロリと食べるのを忘れたりするのだが。

 年の瀬もおしつまり、あちこちにメールで挨拶。新年の予定など。今年は7日まで札幌に滞在してます(6日、とお伝えしていたところもあったが7日が正しい)。芝崎くんと電話でコミケ打ち合わせ。午前中はそこで配るチラシなどをコピーする。

 12時、仕事場から居間に行く。暖房が切ってあるので冷えきっている。昨日、寿司屋でもらった稲荷ずしがあるのだが、寒い部屋で冷たいスシをボソボソつまむのは何か気分が落ち込みそうな図なので、外へ出て、兆楽でミソラーメンを食べる。最初ここのミソラーメンを食べて、うまいなあ、と感心したのだが、金沢のSさんからもらったみそかラーメンの味を知ると、もう何か索漠とした味に感じてしまう。うまいものを知るということ、困ったこともあるのである。ここの調理場に、比較的新しく入った、小柄な爺さんがいる。ギョウザやチャーハンなど担当なのだが、この人が何かにつけ、いじめられている。最初は新入りで要領がわからないからかと思っていたが、いまだに怒鳴られたりしている。記憶力に自信がないのか、作りはじめる前にいちいちカウンターの注文票を確かめてから動くので、毎度行動がワンテンポ遅れるのである。それを、炒めもの係の、図体のデカい親父が、何かにつけてののしり、嫌味をいい、ミスを見つけて怒鳴る。ちょうど、ジャイアンとのび太みたいな関係であるらしい。世の中には自分の記憶力・判断力に絶対の自信を持つタイプと、それに自信がなく、何かというとそれを確認して、自信家タイプにはトロいと思われている人物とがいる。小・中学校のころの私がまさに後者であったため、この小柄な爺さんは他人と思えないのだが、しかしまた、客にしてみれば、何回も注文票をチェックされると、果して大丈夫かいな、と心配になるのも事実なのである。

 1時から時間割で打ち合わせ予定なのだが、まだ時間あるので、パルコに寄り、新しいワイシャツを買う。帰りに一階のイッセー・ミヤケに、春物の面白い柄(クスリのカプセル)の女もののシャツがある。これはどこかでネタの図版に使えるかもしれない、と思い、イッセーだけに高いけれど、K子に着せておけば無駄にもなるまい、と考えて衝動買いする。プレゼント用でお包みしますか、というので、いらん、と言うと変に思われるかもしれないと思って、おねがいします、と頼むと、何やら御丁寧に包みはじめ、しまいに香水までかけようとするので、ソレはいいです、と断る。そんな匂うもの持って打ち合わせにいけない。

 時間割、行ってみるともう年内の営業は終わったと見えて、シャッターが降りている。前からその可能性は考慮していたので、第二待ち合わせ場所の東武ホテルで、二見書房Yさんと。Yさん、いきなりミスター高橋の『流血の魔術最強の演技』を出して、“読みました?”と言う。“読んだ読んだ、おとつい読んだ”と答えると、“うわぁ、やっぱり読んでいたかぁ!”と残念そうに叫ぶ。コレ、面白いですよぉ! と自慢したかったらしい。Yさんは昔、プロレス本を作っていて、猪木にインタビューしたこともあり、そのときもやはり、裏の打ち合わせのことを(この本ほどはっきりした形ではないが)聞いて、あとで“あれは活字にしないでくれ”とクギを刺されたらしい。しばらくプロレスばなしに花が咲く。この本、やはり猪木サイドや、ガチンコ勝負信者たちにより、苦情殺到(苦情人気でどんどん売れている)らしい。“さすが講談社ですね。ウチくらいのところだと、恐くて出せません”とYさん、うらやま しそうに言う。

 この本、しかしいろんな娯楽業界に敷衍できる内容を持っていると思う。例えば娯楽小説、例えば映画。日本人はやはり、よく出来た娯楽作品に、“そりゃ現実にはないだろう!”という反応を示しがちで、これが日本にハリウッドのような、スカッとした娯楽大作映画を生まれさせない原因になっているように思うのだ。アメリカ人というのは、フィクションの世界のレベルに自分のテンションをキュッとチューニングするノウハウを持っているような気がする。愛国心、などというとらえどころのないモヤついた概念に全国民が一丸となれるところが、かの国の面白さであり、困ったところでもある。日本人が現在、愛国心という言葉にヒステリックな嫌悪を示すのは、結局、日本人というのは“行けば行ったきり”になってしまう人種なので、そこを恐怖しているのだろうが、アメリカ人は、イザこのとき、という場合にのみ、自分の中の愛国心や信仰心をグンとレベルアップすることができる。そこが、日本人にとって理解できない能力なのだろう。

 Yさんと盛り上がったのはやはり馬場という人の大きさ。猪木はプロレスの天才だが、馬場は天才がたまたまプロレスをやった、というタイプなのだな。馬場の名文句に、“プロレスはあれ、みんな本気でやってるんですか?”という質問に対しての、“毎日本気でやってたら体が続くわけないよ”という、例によって葉巻のケムに巻いた感じの答えがある。つまり、“本気でやる時だってあるんだよ”ということだ。この答が猪木の口から出たら大騒ぎになったろう。結局、猪木は馬場のスタイルではかなわぬことを悟って、本気勝負を表看板にするしかなかったのだと思う、とYさんが言った。

 私が好きでよく引用する本に群雄出版社の『激突! 馬場派vs.猪木派』というの(1983)があるが、その中で馬場派が、猪木派をしょせんは理論武装したミーハー、と言い切っていたのが、その当時、猪木的・新日的プロレスに、どこか割り切れないものを感じていた私に膝を叩かせたものだった。ガチンコ勝負なんて、マジにやればとても人にショーとして見せられるものではなくなる(K1をガチンコだと興奮している連中にもそれは言いたい)。所詮は猪木派のプロレスだって、ガチンコを標榜したショーに過ぎないのではないか。このミスター高橋の本は、長いことの私のその疑問を氷解させてくれた名著であった。前記群雄出版の本の中にあった、馬場派 の、猪木派に対する
「プロレスとはそんなに偉いものなのか」
 という問いかけこそ、私がこれまで、ありとあらゆる分野に向けて発し続けたものである。
「ミステリとはそんなに偉いものなのか」
「SFとはそんなに偉いものなのか」
「映画とはそんなに偉いものなのか」
 落語とは、怪獣とは、文学とは、アニメとは、哲学とは、マンガとは、国家とは、エトセトラ、エトセトラ。そこから見えてくる、新しい地平こそを、これからのプロレス(いや、そればかりでなく、上記各分野の)ファンたちには語ってもらいたい。

 結局、その話ばかりで私の本の話はあまり出来ず。K子がちょっと今、書いてみたいテーマがあるというので、そっちの方のこともYさんにお願いして、別れる。一旦帰り、雑用。3時半、芝崎くん来。ペーパー誌の完成品を持ってくる。もっとも、一部のみで、後は今夜、家でホチキスするという。半分くらいこっちで引き受けるよと言ったのだが、イエ自分がやります、とのこと。書庫の奥から、明日の商品の会誌などを玄関に運び出してもらう。荷物が多くなるのでワゴンタクシーを予約しようと電話するが、どこも年末はいっぱい。まあ、無理すれば普通のタクシーでも運べると思うので、明日は朝、流しのを拾っていこう、と打ち合わせる。

 4時半、新宿へ出て伊勢丹で買い物。明日の弁当など仕込む。で、大江戸線で東新宿まで。たった一駅なのに、この線を使うと、何かいやに遠いように感じてしまう。焼肉幸永にて、恒例のコミケ前夜祭、金成由実さん上京歓迎パーティ。幹事のGさんの肝煎りで総勢二十人の飲み会。気楽院さんから『最強神学者』最新号、鈴之介さんから二丁目本最新号いただく。気楽院さんのは相変わらず激濃、鈴ちゃんのは第一作(美少年フェラ)から二作(受け初体験、挫折)を経て、ついにニューハーフ相手に逆アナルしてもらっての貫通という、三部作(?)完結編。次のネタに困っているというので、じゃあオレと寝ようか、と持ちかけたのだが、聞くと毛ジラミをうつされた(これは女性に)というのでオゾケをふるってやめる。なんだかんだで大盛り上がりになり、ホッピー飲み過ぎてグデンになって、派手にツッ転んだりする。それでも生酔い本性違わず、ちゃんと買ったものを冷蔵庫にしまったりして、明日の体調のためのクスリなどのんで寝たのは我ながら感心である。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa