裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

23日

日曜日

マッカーサーゆえ

 マッカーサーゆえ〜進駐〜マッカーサーゆえ〜消え行く〜。朝7時15分起床。朝の報道番組に出てくる人々のどれもこれものキャラ立ちに驚く。和泉元彌のオフクロさん、板橋の殺人事件被害者の父親、それとチリのあの横領犯の女房。三者とも、個性というよりは与えられた役柄を見事にこなしている俳優という感じ。類型を脱して典型になっていると言うか。朝食は昨日と同じポテトサンド。読売新聞、『人に本あり』欄で土井利忠氏が天外伺朗であることをカミング・アウト。で、彼が精神世界に目覚めるきっかけとなったロブサン・ランパの『第三の眼』(光文社)を紹介。この本に出会えたことでAIBOが開発できた、と言う。この『第三の眼』、昨日実は原稿の資料で十何年ぶりに書庫から取り出して目を通したばかりだったので驚く。世の中にはこういう出来事を単にオモシロい偶然ととらえる人と、何かそこに見えない糸があるのだ、と考えてしまう人がいる。前者が私のような人物になり、後者が土井氏のような人になる。世間には“土井氏はそれだからAIBOを開発でき、お前には出来ぬのだ”と考える人と、“第三の眼にハマった人物とAIBOの開発をした人物とが同一人物であるということ自体が、オモシロい偶然”と考える人がいる。後者の方が私にはオモシロい考えであるような気がする。それに、ロブサン・ランパってインチキだってもうバレちゃってんだし。

 ニフティの調子が昨日から悪かったが、今朝はパソコンまで調子悪くなり、この日記のコーナーにまったく入れなくなる。書き込みはできるのだが。平塚くんにメールで教えを乞うたら、ちょうど渋谷に行く用事があるので3時ころそちらへうかがう、との返事。それまでに用事をすませてしまおう、と、急いでメシを食って(タンタン麺)銀座へ出かけ、山野楽器でオフクロに頼まれていたビング・クロスビーのCDを買う。近藤書店で『キネ旬』を探すがナシ。3階の洋書イエナに行き、1月の17日で閉店する店内をひと渡り見回す。思えばこの店に始めて足を踏み入れたのは、まだここが改装前の、板張りの床で、カウンターに注文の洋書のタイトルを告げると、その奥の、小階段を上がった倉庫に入ってとってきてくれるシステムだった頃だった。何か、その倉庫の中が“知の宝蔵”に思えて、ああ、あの中に入ってみたい、と本気で身悶えしたものである。その宝蔵の中から注文したチャールズ・アダムスの新刊画集を出してきてくれた年配の店員さんが、若造の私に“あ、この人、面白いですよねえ。日本人にはどうもこの、ブラック・ユーモアがわからない。あなた、なかなかいいセンス持ってますよ”と言ってくれて、私は大いに自尊心を満足させられた(商売上のお世辞ではあったろうが)。その当時は今のように楽に棚の間を逍遥できるような作りでなく、天井まで届く書棚に本がギッシリ詰まっており、背伸びをしたり台に乗ったりして、みんな本を取っていた。せまい階段のところにまで棚がしつらえられており、歩く人はみな、他の客の邪魔にならぬよう、体を横にしてスリ抜けるようにしなくてはならなかった。しかし、客たちはみんな本屋というものはこういう作りで当然と思っていたし、また、何故かこちらの方が落ち着いたものである。消防法などでもう、こういう構造にすることは許されないのだろうが、あの、四方全てが本に囲まれている、という快感は、ちょっとなかった。イエナが無くなる、というショックは、あの作りであったイエナが無くなったときのショックより遥かに軽い。

 帰宅、鶴岡からの電話に少し応対。3時に平塚くん来て、さっそくパソコンを見てもらう。読み込みとか検索とかを待つ間に雑談。井上デザインには6年ほどいたが、あそこに入って初めて、人はこんなにたくさん仕事をするものなんだ、と知ったという。目標としては実用書などのデザインを中心にやっていきたいと言う。早く平塚光明なりの個性を出せば、井上くんのところとの仕事の発注の振り分けが出来るから、と言っておく。5時過ぎまでなんやかやでかかった。よく使うアプリケーションに早くつなぐためのキャッシュシステムの調子がオカシクなったらしい。今回の出張修理費を請求してくれと言ったら、独立したてなのでサービス期間です、とのことで固辞される。申し訳なし。

 後は夜までずっと、講談社Web現代の、原稿書く。エロネタをしばらくやってなかったので、調子が出ず。8分通り完成させて、夕食の準備。つくね鍋にカニの酢の物。ビデオで市川雷蔵主演『安珍と清姫』(1960)。雷蔵がちゃんと頭を剃っているのに感心。若尾文子の胸を情欲に負けた雷蔵がはだけるシーンで、乳首がチラリと見えるが、映画後半、その時のことを雷蔵が回想するシーンは、別撮りバージョンで、見えない。今のように、ビデオで何度も見返して確認できる時代でなかった頃には、ウマい演出である。映画館で観た観客は、この確認のためだけに、もう一度足を運んだのではないか。島耕二監督のニヤリとしている表情が目に浮かぶ。途中で何度も入るオペラのようなバックコーラスによる心象ナレーションには違和感。ラストでちゃんと清姫は大蛇に変身して火を吹くのだが、そこは文芸映画で、特撮シーンはホンの少しだけ、しかも幻想として処理。ここは不満である。ところで、この原話である『京鹿子娘道成寺』に関する本も、昨日、原稿執筆のために目を通したばかり。西手新九郎、年末進行的仕事ぶり。こういうことがあと何回か続けば、私にもAIBOが開発できるかもしれない。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa