9日
火曜日
ヘイ、カモン頭直弼
タイトルに意味はない。朝7時起床。寝汗をかいたのでシャツをとりかえる。汗を嗅いでみるが、ニオイはまったくない。昨日、後楽園でのトークの最中に、また例の甘ったるいニオイが鼻をつき、再発したかと思ったのだが、これは以前、汗にニオイがあったときに着ていたTシャツを着て出たからであった。洗濯してもとれないのである(家に帰ってすぐ捨てた)。このニオイの正体は何か?
朝食(ソーセージとパン)急いでとり、仕事にかかる。と、言っても、アスペクトのコラム書き足し(一本不足していた)と、文藝春秋の野平教授の本のオビ文のみ。SFマガジンとWeb現代には遅れます、とメールして、出る支度する。『Memo男の部屋』取材で、京都まで。老舗のお茶屋さんに取材というので、編集のNくんからは“粋人のような格好で来てください”と言われている。粋人に見える格好というのはどういうのか、とりあえず頭に浮かんだのは楠本憲吉(そう言えば最近名前を聞かないがどうしているんだろう)氏あたりなので、フォーマルな格好を少し着くずした、というスタイルを踏襲して衣装選びをしたが、なにしろ私の手持ちの衣装には、そもそもフォーマルなものが少ないので難儀する。とりあえず、K子の意見もいれ、何とかカタチつけて二人で12時半に出る。
タクシーで東京駅。とった切符が10分後発ののぞみだったので大慌てで弁当を買い、乗り込む。偶然、京都の松茸弁当で、瀬田のシジミの佃煮がおかずに入っており案外美味。K子は茶ソバを買って失敗。車中、ほとんど眠って過ごす。2時半京都に着く。『ガメラ3』でおなじみの悪評高い京都駅だが、これが京都以外のところに作られたものなら案外、未来的建築として評価されたかもしれない。土地との調和、京都のイメージとの調和が最悪なのである。これはもう、日本文化に対する犯罪といってしかるべきセンスのなさ、だと思う。
時間があったので、駅ビルからつながっている伊勢丹で買い物。驚いたのはエスカレーターが一階から屋上まで、直線階段式ににつながっていること。つまりは建物がウナギの寝床状に奥へずーっと伸びているということである。駅ビルならではの作りだろう。紳士服売り場で、粋人ぶりをも少し高めるために、アスコットタイを買ってつけてみる。売り場のおねえさんが締めてくれたが、彼女が純粋な京都弁で、何か非常にうれしかった。ついでに、とK子が靴も変えるよう勧める。なにやら大変なものいりとなる。まあ、確かに今履いている靴はこの夏履きつぶして、もう少しで底に穴があくというようなシロモノではあった。
祇園まで駅からタクシー。初老の運転手さんに“京都の人はこれだけある寺の名前をよく、覚えていられますねえ”と言うと、“いやあ、これだけぎょうさんありますと、よう覚えられまへんな、やっぱり”とのこと。それからいろいろ京の寺についてレクチャーしてくれる。一概に、京都のタクシーはみんな話好きという感じ。
編集部から指定された料亭は“祇園ホテル前の細い(本当に小さい)道を入ったところ”にあるという。見ると、なるほど、東京なら裏路のような抜け道に、いくつも店が並んでいる。しかも、通りから入るときには、家の下をくぐって入るような作りの、非常に閉鎖的な空間となっている。ここに、一見さんお断りといったような店がいくつもあるのだ。閉鎖空間の中に独自の文化をかもし出していく京都のやり方がそのままカタチになっている。時間が少し早かったので、あたりをブラブラ。駅前の惨澹たる様子に比べれば、祇園界隈はやはりまだ京の面影が見える。よーじ屋で油とり紙を買ったり、水出しコーヒーを飲んだり。待ち合わせ時間(5時半)になったのでさっきの小道に戻る。あちこちの店で午後の開店がはじまる時間らしく、にぎやかになっている。『中山』という店に入る。カウンターのある小体な料亭だが、中庭を通り、奥の座敷に席が設けられていた。店自体も中庭も、オモチャみたいな大きさだが風情だけは十二分。
“子守りの子が休んでしもうてて、申し訳ありまへんなあ”と美人女将があやまっていたが、ここの店の子供らしい、五歳くらいの坊主頭の子が走り回っていた。待つうち、今回の茶屋遊びのコーディネーターである、K氏来店。名刺交換して挨拶。K氏は大手広告代理店の大阪支社に勤めている。見るからに広告代理店マンで、着ているシャツもズボンも、少しはずしたオシャレが、なるほど現代の粋人はこういう感じかと思うもの。やがて編集のNくん、カメラマンのS氏と到着。いろいろK氏からレクチャー受けつつ、食事。
食事だが、私もK子もこれまで、京都は関西を回るときにもあまり重きを置いていなかった。期待してその通りだったことがあまりなかったからだが、ここはK氏が子供連れで通う店、ということで、まず御推薦。やはり会員制、一見さんお断りなんですか、と女将に問うと、“いえ、気軽に来ていただいてかましまへんのどすけど、なんや、うちの店はそういう方が入っていらはりにくい玄関の作りになってるらしゅうて”と微笑む。ここらへんがイカニモ京都だね。とにかくいまの季節はここのマツタケと鴨焼きをおやんなさい、とK氏の言。そう言いながら自分はほとんど食べずに酒(特注の丹波産赤ワイン)飲んでいるあたりが粋ってやつか。ふと気がつくと、氏の前にだけ、普通のお通しでなく、お気に入りらしい昆布の煮(た)いたのの小鉢が置かれている。ここらへんが常連さんに対するサービスであり、これをうれしがる人種にとっては、何よりの待遇なのであろう。
K子ははもの造りと土瓶蒸しを食べて、“うまい!”と感激している。網焼きのマツタケも、山のように出たが、これにもK氏は手をつけず、“こんなマツタケなんぞ残したっていいんです”と言い、小芋の煮いたのなどでワインを飲むばかり。それがいいのか、あるいは東京の田舎者に食わせるレベルのマツタケは口に出来んわな、と嘲笑っているのか。そう思ってよく見ると、みんな傘が少し開き過ぎたようなものばかりであった(貧乏性だから全部食いましたけどね)。しかし、その後の鴨、これはまさに絶品だった。間鴨だとは思うが、これを醤油味のたれに漬けたものを、ほんの少し焼き目がつく程度にあぶって、山椒で食べる。そのふわりとした柔らかさ、あふれる肉汁、これが鴨だとすると、いままで私らが食べてきたのはあれは何? というくらいのもの。K子の目が次第にとろん、としてきた。
今回の仕事は、特集記事『会員制のお店』の一環である。K氏はNくんの上司の友人らしく、その義理でコーディネートを引き受けてくれたらしい。こちらの質問に上機嫌で答えながら、舞妓と芸妓の違い、京都と他の土地とのしきたりの違い、茶屋遊びのルール、などを丁寧に教えてくれる。……そこらへんまでは大変な粋人らしかったが、この場にお気に入りの芸妓はんの小喜美ねえさんがやってきて、お相手をしてくれだしたとたんに、モウ仕事などどうでもよろしくなってしまったらしい。
小喜美ねえさんは22歳。中学校のときからこの世界にあこがれて、16で舞妓になり、芸事を仕込まれ、苦労しながら売れっ子となった努力の人。“修行時代は同級生が遊び回ってるのと比べてつらいなアと思うこともおましたけど、もうこの年になると、収入は安定してるし、なにしろ芸妓は90で現役の人がおりますやろ。私も、これで一生食いはぐれはないやろと考えると、いい商売やなア、と思てます”とは根性が座っていて頼もしい。生まれは徳島だというから、彼女の京言葉は訓練のたまものなのだろうが、見事にイタについているのに驚く。“そないなこと、おへんえ”などという古風な京言葉は、さっきデパートで聞いた京都弁、あれも美人のお姉さんで優雅なものと思ったが、まさに完成度では雲泥の差である(もっとも、後づけの言葉らしく、身内への敬語でちょっと、文法的におかしいところもあったが、これも京のしきたりかも知れず。なにしろ油断できない)。
舞妓だ芸妓だといってもみんなキャピキャピ(死語)の現代娘である。それが京言葉というギャップが実にいい。“「京都旅行」、と言うとどうしてもその後に「殺人事件」とつけたくなるね”と言うと“へえ、で、西村センセ原作のドラマやと、必ず芸妓はんが殺されますやろ、その殺される芸妓の名前がたいてい、小喜美ですねん。こないだの火サスでも、鴨川に小喜美が浮いとりましてん。せやしうち、もう、西村センセには四、五回殺されましたわ。かなん”と口をとがらかす。
K氏、すでに水割をクイクイやっていて、かなりのベロ。わけがわからなくなる一歩手前という感じで、これではコーディネーターにもなんにもならんだろう、と心配していると、小喜美ねえさんが、“あ、この人なら酔いつぶれるの、いつものことですねん。うち、いッつもかついでタクシーに押し込んでます。お茶屋さんはうちの方で女将さんにお願いしますよって、かましまへん”とのこと。自分のお気に入りの芸妓の前でここまで酔っ払えるというのは、よほど気を許した中なんだろうと思う。
外は雨。小降りになったときを見計らってそこを出る。京都の石畳というのはかなり段差があったりしてデコボコしている。K氏の酔態を心配してNくんが腕をとろうとするが、本人は千鳥になりながらも“イヤ大丈夫、全然酔ってない酔ってない”と振り切ろうとする。回りのみんな、“酔ってないと言い出したらもう酔っぱらいなんだって”と支えようとするが、“ナニ、大丈夫”と、一人で歩きだしたとたんに派手に転ぶ。少し足をくじいたらしい。“うちの女房がボルタレン持ってます、急いでのんだほうがいいですよ”と言ったが、“いや、こんなもん大丈夫、少しも痛くない”と繰り返す。もう痛みも感じないほど酔ってるらしい。こりゃ明日の朝がつらいぞ、と思ったが、まあ、取材は今夜なんだし、後はドーデモいいや、と、私もNくんも介抱より仕事、と割切って放っておくことにする。小喜美ねえさんに“こういうお客の世話も大変ですねえ”と言うと、“まあ、でも、このヒトの酔うてはらへんとこ、見たことおへんし”と、慣れたもの。“そこらにころがしといてくれたらよろし”。
お茶屋(要するに貸し座敷である。ここを遊びの総合本部として、舞妓や芸妓を呼び、料理を取り寄せ、いろいろコーディネートしてもらって楽しむわけである)は祇園でも一力に並ぶ老舗、『桝梅』。本来ならここで本格的に遊んでみせているところを取材し、写真に撮るのだが、そんなことをしたら取材費どころか、雑誌の制作費がすっとぶ。ここではあくまで簡略的に、舞妓(16から19まで)と芸妓(20歳以上)を一人づつよんで、踊りを見せてもらうだけ。舞妓には17歳の真理さんが呼ばれる。何か言うとすぐイェイ、とガッツポーズとる現代娘だが、それでも自髪の日本髪(舞妓時代は自髪が原則、芸妓になるとかつらになる)が粋で、白粉を塗った肌がまことにきれい。小喜美ねえさん曰く、“真理ちゃんは面長で背が高いよって、19くらいでもう芸妓におなり、言われるタイプですわ。うちみたいに小柄の丸顔は20過ぎてもまだ舞妓でよろし、言われますねん”。長いすそをサッサと跳ねて歩く、その形が実にさまになっている。真理ちゃんにそう言うと、すぐササッ、と大袈裟に跳ねてみせてくれる。ここらへんの対応がやっぱり若い娘らしくアドリブが効いててよろしい。酒を勧められたので返杯しようとして、“あ、まだ未成年だからダメか”と言ったら、京都は市条例で、舞妓は未成年でもお酒を許されているんだそうな。もっとも、小喜美ねえさんなどは根が好きだけに酔客の相手をして飲み過ぎて、膵臓を悪くし、今禁酒をお医者さんに言い渡されているとか。“でも、楽しいさかい一杯だけいただこ”と言うので、注いであげたら盃洗ですすいで返してくれた。盃洗の使い方を実際に見たのも初めてである。
踊りを私が粋人らしく観賞しているところを写真に撮り、一応私の本日の仕事はおしまい。後は原稿書きである。K氏はまだ酔っぱらいモードで、五分間隔でおンなじ話をリピートしている。“遊びというのはハートでやるもの。お互いがハッピー気分になることが大事”“カメラマンさん、作って撮っちゃダメだよ。ナチュラルに、流れで撮ってね、流れで”“この石庭を見てごらんなさい。私はこの石庭が好きで好きでこれを眺めて酒を飲むためにここに来る”という三つの話がワンセットで、これにオプションとして“N、なんだオマエのその口ヒゲは”と、“今回、Tさん(Nくんの上司)から電話があってね、Kちゃん、頼む、ウン万の予算で取材させてくれ! と言われて”と言うのがつく。なじみの小喜美ねえさんのことを“小わかァ”と、姉さん芸妓の名前で呼んで、“ウチ、小喜美どす”と訂正されたときにはさすがに“いかん、間違うた!”と、ちょいと青くなっていた。今回はさすがに会えなかったが、86歳だかの大女将がいて、さっきの中山でK氏、“まあ、この大女将の多少ボケた話の相手にならなあかんというのが、あそこのまたしきたりなんやな。もう、何度も何度も同じ話を繰り返しよんねん”と言っていたが、今や自分がその大女将状態。小喜美ねえさんに何度も“ほら、あれやって遊ぼう、『黒ひげ危機一髪』”と言う。例の、ナイフを刺して人形がピョーンと飛び上がるゲームで、あれで負けた人間に初体験の話だとか失恋の話だとかを強要する、という遊び。修学旅行の高校生か、と私とNくん、ちょっと呆れるがKさんにはよほど楽しいらしく、あのゲーム、こないだ別のお座敷に貸し出してしもて今日はありまへん、と言われているのに何度もアレ、アレと催促する。“だいたい、Kさん来はるといッつも黒ひげゲームやさかい、もううちもKさんのこと全部知ってしまって、これ以上聞きたいこともおへんわ”。それによると、Kさんもかなり人生でシビアな状況になったことがあるらしい。もちろん詳しいことは教えてくれはらしまへんが。
女将ともしばらく四方山ばなし。ここの屏風などはみな人間国宝の人がこの店で遊んだときに興に乗って描いてくれたものらしい。床の間のわきの屏風などは興に乗りすぎたか、“おばあさんのおっぱいはぶらさがり”などとしてあり、垂れたおっぱいの絵が描いてある。ふと気がつくともう12時過ぎ。タクシーを呼んでもらい、ホテルへ帰る。小喜美ねえさんはKさんの世話に残る。玄関にひょい、と座って、“おおきに、今夜はありがとさんどした”と挨拶したその姿がピタリ、と絵になって、うーん、確かにこの姿を見たいがために財産を傾けるのもアリかも、と思えた。明日はNくん、始発で桶川だそうな。女子大生殺人事件の取材ですか、と言ったら、岡田さんのスカイダイビング取材だとか。今日はお茶屋で明日はスカイダイビングとは、このヒトも忙しい。K子は鴨の味にもう大満足で、“わたしはもう、何があってもNさんの味方!”と叫ぶ。