1日
月曜日
なにをコサックな
このロシア帝国に反乱を起こすなどとは。朝7時半起床。K子もやや回復してちゃんと朝ごはん(野菜の角切り炒め)食べる。私は茹でジャガイモと青豆スープ。猫がまた食べたものを吐いている。魚のエサだと吐くようだ。年をとって内臓が弱ると人間でも生臭いものがダメになるが、あのデンだろうか。当分、乾きエサだけにすることにした。
K子、身支度して慶応病院にまた検査に行く。私は原稿。Web現代、やっとこさ完成させて、メール。担当の井上くんが今回で異動。今夜、引き継ぎということになる。書き上げたのが1時。新宿に出て、銀行で家賃など降ろし、それから東中野まで行って肉めんで昼飯にする。
新宿行きのタクシーの電光ニュースで、古今亭志ん朝の死去を知る。享年63歳。ゆうべ、ジオポリスの楽屋で、談之助さんと“志ん朝師匠ももう、再起不能でしょうねえ”と話していたばかり。兄弟揃っての早世はシャレにならない。正月の三木助に続いて、落語界には今年は凶年である。それも、三木助の死がジャブだとすると、志ん朝の死はカウンターのストレートだ。中学生のころ、ラジオの公開録音会場で『干物箱』を聴いて、その演出のあまりのサラリとした、うまさを超えた自然さ(まあ、本人のアダ名が“若旦那”だったんだから若旦那ものが自然だったのは当然か)に愕然とした。続いて上がった談志が(何をやったか忘れた)負けじと熱演すればするほど、生得の血の違いのようなものが歴然として、何か談志が気の毒になってきて、それ以来、私はがんこな談志派になったものである。
そのせいで、私は志ん朝をきちんと聴き込まぬままに来てしまった。もちろん、落語会などで山ほど聴いてはいるものの、いわゆる独演会に、志ん朝目当で聴きに通ったことは一回もない。その若さと、若さに似合わぬ円熟ぶりに、これは“いつでも聴ける”人だ、というイメージがあり、それよりもクセのある人ある人、と選んで足を運んでいた。まさかこんなに早く逝ってしまうとは。今になって無茶苦茶にくやしい思いがする。
お仕事は数回、したことがある。私が横浜の落語会で袖でマイクの調節をしていたら、なんと袖から“ハイ、おはよう”と、志ん朝師匠が入ってきた。いきなり目の前に志ん朝が立っている、というのもなかなか物凄い経験である。聞いてみたら裏の入り口の場所がわからなかったので、客が並んでいる会場の正面から入り、舞台にヨッコイショと上がって袖から入ってきたとのことだった。大看板になっても、こういう坊やっぽいところのあった人だった。あわてて楽屋にお通しして、“師匠、コーヒーをお持ちしましょうか”と言うと、“あア、結構ですな、コーヒーなんぞは”と落語そのものの口調で言ったのに、私は何か大感激した。ここに生きた落語家がいる、という感じだった。志ん朝の落語を百席聞いたより、この“コーヒーなんぞ”を聞いたことが価値があるんじゃないか、と(私的には)思えたものである。確かその日の演目は『野ざらし』。高座に上がるとき、“人人人”と掌に書いて呑み込んでいたのに驚いた。こんなベテランなのになんと純粋な、と思い、やはり伝統の子なんだなあ、と感心したものである。演じる落語がどうこうではない。その人柄、行動、全てが落語家という存在感に包まれていた人だった。
ただし、敢えて言えば、志ん朝の目指していた落語は果して落語の伝統に添ったものだったのか。これは志ん朝の高座を聞く度に、次第に私の中で大きくなっていった疑問だった。彼は落語の他にも演劇の世界と深くかかわり、その演出法や表現法を落語に取り入れていった。志ん朝落語が父の志ん生、兄の馬生と一線を画していたのはこの斬新性だったろう。感情の起伏を大きく演じ、ドラマ性を強調してメリハリをつけたその高座は、新しい感覚で落語に接しているインテリ層にも大いに評価された。はっきり言えば、その後の落語家はみな(談志ですらも)この、志ん朝流演出を踏襲していると言える。
だが、志ん朝の落語がそれであっても落語の型を崩さなかったのは、志ん朝個人が先に言ったように、骨の髄から落語家であったからである。後から入ったものがこれを踏襲したとき、それは落語とは似て非なるものになってしまう。おとつい、テレビで権太楼の『たちきり』を聞いたが、聞いているうちにどーんと気分が重くなって、途中でチャンネルを変えてしまった。うまいのである。うまいのであるが、そのうまさは落語のうまさではない。ドラマのうまさなのである。一人演劇を見ているような気分なのである。落語のもつ“軽み”とは、それはまるで別の世界である。(談志の『芝浜』は談志本人も“ありゃア落語ではないンです”と認識して演じているそうである)。それも仕方ないのだろう。感動の基準がリアリズムになっている世界で、落語の様式に従った演出など、やりにくいというより理解されないだろう。世の中の変遷に合わせて落語も変わるのは当然である。とはいえ、われらロートルにとり、古き良き落語の楽しさが失われていくのは実に寂しいものだ。
夕刻になってまだ、雨しげし。曙橋井上デザインにてサンマーク出版と打ち合わせし、最後のチェックを入れる。病院帰りのK子も来る。脳波をとったそうだが、“きれいな脳波ですね”と感心されたそうだ。意外なものである。ボルタレンを、腎臓に悪いとか言って少ししか出してくれない、とブーブー言っている。
打ち合わせ後、タクシーで一旦家に帰る。次の打ち合わせも曙橋なのだが、K子がつらそうなので、ちょっと休ませたい。家でメール等チェックし、三十分ほどでまたとって返す。曙橋『桃太郎』で、講談社Iくんが今度異動につき、新担当のYくんに引き継ぎの件。雑談いろいろ。Iくん、新しい職場に行っての挨拶で、“Web現代でどういう仕事をしていたの?”と訊かれ、“ハイ、回転寿司風俗を取材して、その店は女の子の名前がみんなイクラとかハマチとかで、マグロの子はやっぱりベッドでもマグロでしたあ、とかいう記事を書いてまして”と言って、無茶苦茶引かれたそうだ。講談社のような屋台が大きい職場では、部署が違うと、職種が違うのではと思えるほど雰囲気が異なる。果してきちんとやっていけるのか?
桃太郎は鍋が名物の店で、牛のほほ肉を使い、野菜をどっさり入れて食べる。八海山をIくんがやたら喜んで、やたらに飲んだ(一応編集部で持ってくれたが、かなり行ったようである。申し訳ない)。K子もよくしゃべっていたが、やはりいつもの元気がないのが心配。