裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

29日

日曜日

一避妊具三安打

 取り替えてよ、汚い。朝7時半起き。爺さんと婆さんが揃ってまだ生きていて、それに夫婦揃って深く孝養を尽す、という変な夢を見る。爺さんか婆さん、これまでどちらか片方ずつは夢に出てきたが、二人揃ってというのは初めてである。爺さんは和服に袖無しの羽織を着て、宗匠帽というのか、柳田国男がかぶっているような、あん な黒い帽子をかぶっていた。朝食、レトルトのチリコンカンにクラッカー。果物はイ チゴ。

 母から電話。親父に枇杷葉を飲ませたら瞑眩を起こしたらしい。私もこないだから母に送ってもらった整腸薬を服用している。センナと乳酸菌が入っているので下痢するかと思ったら、極めて良好な排便。これが体質に合うということは、やはり腸が弱いのか。

 手紙数本。読書ずっと。繁華街史のおさらいとして、戦後東京のヤミ市の記録からさらに明治大正の銀座の露店風景を描いたエッセイまでを読む。海拓舎の原稿に引用した『東京繁盛記』の中の、岸田劉生の、夜店の思い出。
「有名なお茶の水のおこの殺し(唐沢注・明治三十年に起きた殺人事件で、被害者の女性の顔がズタズタに切り裂かれていた)が、じき見世物になり、おこのの血だらけの顔を表看板のかわりに幕にかいて張り出してあるのをみて、ひどくおびえて顔を掩うて逃げたこともあった。見世物の客を呼ぶ声は“アーバイ々々”と聞こえるが、あれは“アー評判え評判え”というのが、“豆腐ーイ”が“えーうーい”になるような音便の変化によるものであるが、私共は銀座の二階でよくこの見世物ごっこをして、盛んに“アーバイアーバイ”とやったものである」
 また
「銀座の縁日に見世物が御はっとになったのはいつの頃からか、二十幾年前からのことだとは思うが、その前までは盛にいろ々々の見世物が出たものだ。中にはあの生人形の大山スッテン童子――いうだけ野暮だが、われ々々は彼の大江山酒呑童子君をこう呼んだものだ――このスッテン童子君がフラ々々する手付で大杯をかたむける毎に顔色がかわり遂に角を生じ、駄々をこねあげくに後ろにどうとひっくりかえるとその緋の袴がそのまゝ赤い衣となってグロテスクな達磨と変じヒョコ々々とおどり出す。そのスッテンとひっくり返るのが、スッテン童子たるゆえんのような心持ちが吾々子供心にしていたものだが、この見世物などに至ってはまことに吾等ファンを喜ばせたものであった」
 この見世物には木村荘八が凝ってしまい、銀座でこれが見られなくなると巣鴨、日暮里あたりまで追いかけてその芸に精通し、酒の席などで鬼婆が妊婦を裂いてその胎児を食う場面を再現してみせたということだ。あの江戸の粋の極みのような絵を描く木村荘八が、そのようなグロテスクな見世物を好んでいた、というのが非常に興味深いし、ここで劉生が描いている実録殺人ものの見世物、アーバイ々々と聞こえる呼び込みの声までが、読んでいて鮮やかに頭に浮かんでくる。そして、この時代の銀座にたまらない郷愁を感じるのである。

 この郷愁が何によるものなのか。もちろん、私はこの時代に生きていたわけではないからわかるわけもない。ただ、われわれはイメージを遡求できる能力を持つ生物である。芝居・映画などに描かれた明治、落語で聞く明治、永井荷風や谷崎潤一郎の小説で知った縁日風景などのカケラ、さらには祖父祖母から聞かされた話の断片をもとに、ポストコグニション的に時間をさかのぼり、明治の銀座の露店を目の当たりにできる。もちろん、そればかりではない。昭和戦前に、明治に、江戸時代に、平安の京都に、いや、1920年代のパリ、19世紀末ロンドンと、自由自在に意識をタイムスリップさせることができる。その時、鼻腔に感じる甘酸っぱい匂いは、筒井康隆が『時をかける少女』でラベンダーの香りとして隠喩したノスタルジーの香りである。ノスタルジーは現実からの逃避などではない。失われてもどらない時というものを踏まえた上で、過去と今の自分は断絶していない、つながっているんだ、という、むしろ今現在の自分につながる自己認識。それがノスタルジーの香りである。その匂いを感じる時、われわれは時空を超えて、過去と対話が可能になる。これが読書の、映画観賞の、落語を聞くことの、その他もろもろの作品との出会いの醍醐味だろう。もちろん、そのためにはそのよすがとなる事物に関する基礎教養が必要なのは言うまでもないけれど。

 昼は稲荷寿司。タラコを半腹、焼いて食べる。東急ハンズまで買い物に行くが、探していたものなし。ロフトに回ろうかと思ったが、休日の人出が凄いのと、雨がパラパラ降り出したので、やめて帰る。

 夕方6時、雨の中青山へ。ハナエ・モリビルの向かいの通りにあるブラジル料理屋のなんとかというところ。シュラスコ料理で有名なところらしい。クリクリのケンとエリ(笑)夫妻と、こないだの写真家ナマイさん。料理は食べ放題でお安いが、ワインがちょっと高い。安いハウスワインを頼んだら、これがお値段に見合った味。ここでモトを取りますか。10時過ぎまで、ケンとナマイさんのいろんな体験談(マジックマッシュルームからマリファナまで)を聞く。この世代の若いころというのは。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa