裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

10日

火曜日

イティハーサ見たさに恐さも忘れ

 水樹和佳マニア。朝7時半起き。やはり早朝に目が覚める。右膝の関節が痛むせいかもしれない。体重を減らさねば。朝食、ホタテのスパゲッティ。外は陽射しが明るく、春爛漫という感じであるが、たぶん今日は一日、家を出られない。K子の昼の弁当用にと、冷凍してあった金沢のブリをもどして醤油に漬けておく。

 ネットでニュースなど見る。映画『スパイダーマン』の衣装盗難との記事。ほう、監督がサム・ライミなのか。スタン・リーが東映のテレビ版(巨大ロボットが出てくるやつ)に感動して(笑)、映画化権を東映に預けた、という話を以前聞いた。そろそろ期限が切れる、とも聞いたが、やっと切れたのか、あるいはデマだったか。

 午前中、テンションの高いうちに、と、やっとこさ福音館仕上げてFAXする。何か大仕事したような気分になる。それから、サンマーク出版の怪人物伝の人選にかかり、そこらで昼。ブリ照りの残りと、モヤシの味噌汁で冷や飯一パイ。しばらく休んで、丸谷才一『犬だつて散歩する』(講談社文庫)など読む。誤植一ケ所発見。講談社の、こういうエラい作家の本だったら、編集者や校正者がきっと十人以上もかかってチェックするだろうに、珍しいことである。原本にもあるのだろうか。『ブンカザツロン』の誤植チェックをずっとやっているので、誤植を見つける癖がついてしまったらしい。

 午後はずっと、海拓舎原稿。五島勉の『東京の貞操』からの引用文を書き写 すのが主。しかし、五島氏の“見てきたような”ウソを書き、というやり方はノストラダムスよりはるか以前のこの本の頃(昭和33年刊)から変わらないのですなあ。4時半にFくん来。下で待たせておいてフロッピー手渡す。

 昨日の怪獣映画伝統芸能論のトークのときに、怪獣映画とパニック映画の違い、ということをちょっと話した。ちょっとはしょって結論を言えば、災害の前に人間がなす術もなく逃げまどい、恐怖し、破滅する(あるいは逃げおおせる)のがパニック映画であり、怪獣映画は、たとえ人々が同じように逃げまどい、恐怖しても、最終的には、そこに叡智をもって立ち向かうベクトルを持つ、ということである。この分類に従うと、『メテオ』などはパニック映画ではなく怪獣映画に分類されてしまうが、そう、『妖星ゴラス』もあれはパニック映画ではなく、怪獣映画なのだ(マグマの登場場面がカットされていようとも)。

 以前、『伊福部昭の映画音楽』(小林淳、ワイズ出版)を読んで驚いたのは、『ゴジラ』のあのテーマ音楽はゴジラそのものを表したのではなく、“人類がゴジラに立ち向かっていく英知を謳う主題だった”という部分だった。あの、ジャジャジャン、ジャジャジャン、ジャジャジャジャジャジャジャジャジャン、というテーマがゴジラそのもののモチーフとして使用されたのははるか後年の『メカゴジラの逆襲』以降、なんだそうである。聞いてみないとわからぬものだ。とにかく、怪獣映画の伝統というものが、“怪獣という非現実に立ち向かう”姿勢を基本にしていることは明らかだろう。“いかに主人公がその災害から助かるか”という脱出劇であるパニック映画とは、基本理念が異なるのである。

 7時半、今日初めて家を出て、四谷までタクシーで。『虎の子』のHさん夫妻におしえられた、新道通りの『den』というおでんや。カウンター12席のみの小さなおでんやである。ダシは薄口。私はおでんはどちらかというと関東風の真っ黒に煮たやつが好きなのだが、K子は大喜びしていた。おでん数種とコマイ一夜干し、自家製豆腐。この豆腐がねっとりとしてチーズみたいで、お代わりしてしまった。酒は飛良泉に神亀など。ガメラ映画の制作のヒット祈願には、この神亀をお神酒として使ったのではあるまいか。最後は出汁かけ飯で〆る。お値段、ちょっとよし。これはどこの店でもそうだが、おでんというのはそのイメージに比較して、値段が実はかなりはるものである。学生時代、自分の家でおでんをやるためにタネを買いに行き、つくづくそう思ったものである。

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