17日
火曜日
オードリー踊るなぁら、チョイとヘップバーン音頭
花のローマの、花のローマの真ん中で。朝7時半起床。やっとぐっすり眠れるようになる。妙にリアルな居酒屋の夢。入って、レトロ風な小上がりに席を定めて飲み、連れ(知らない人)と話し、K子に勘定のことを言われて支払って出るまでを全部、夢に見た。朝食、昨日と同じ。果物はブドウ。
河島英五の若くしての死は痛ましいし、『酒と泪と男と女』は私がカラオケで持ち歌にした最初の歌なので思い入れも深いのだが、同じ日に、もう少し小さい扱いで報じられた小島三児の死が、どちらかというと私にはこたえる。今の若いお笑いファンは知らないだろうが、昔、トリオスカイライン当時の彼はまさに時代の寵児、といった人気者だった。スカイラインという非常にモダンなトリオ名を裏切って、浅草出身なのになぜかナマリのある東八郎とダアダア的な小島三児の取り合わせの古臭いところが笑わせた。小島のボケによる話の食い違いが最高潮に達して収集がつかなくなったところで原田健二(今回の報道で、久しぶりに名前を思い出した)が“ハイハイ”となだめ、そのハイハイを聞くと反射的に東が“小諸ォ〜”と馬子唄を歌い出し、小島がまたそれを聞くと反射的に東の肩に首をもたせかけて、東が“なっつくな!”と払う、というギャグは、考えてみるとまるでイミがないのだが、そのイミのなさが、1970年代初頭のナンセンス・ブームに非常にマッチして、若者にウケていた。少年サンデーの新人賞応募マンガで、鬼のトリオが地上に出てきてドタバタするというコメディマンガが掲載されたことがあったが、その鬼たちのキャラクターがトリオスカイラインをモデルにしていて、編集部がそれを“センスがいい”と講評で褒めていた、という記憶がある。そんな時代もあったのである。
小島はそれまでの陽性ばかりの人気芸人の中にあって、ボケてはいても目に不遜な光を宿している気味の悪いところがあり、そこもまた非常に生意気ざかりのこちらの神経を刺激していた。ヨタ者のように東の言うことに逆らってばかりいた小島が、小諸ォ、と聞くと子供のようになっつきだす、というあたりの切り替えが、(“ごめんちゃい”という幼児語のギャグも効果的だった)小島のキャラクター自体が持つ暗さを中和していたのである。東と離れて独立して以降、この中和がなされなくなり、なにやらヌメっとした無気味な感じばかりが先に立って、愛らしさが感じられなくなってしまった。東という、お笑い芸人としてはアクの弱い、目立たぬ感じであった人物と組んでやっと小島のキャラは御家庭仕様のものになったし、東もまた、自分のキャラの弱さを小島というアブない人物とからむことで目立たせることが出来た。ある意味、理想のコンビネーションだったのだが、小島はそれを不満に思っていたようだ。その小島の自意識肥大がトリオ解散につながる。東はその後しばらくの低迷の後、気の弱い愛されるお父さんという安定した役柄で人気を得たが、小島のキャラは当時の映画やテレビでは扱いきれず、不完全燃焼のままに終わってしまった感が強い。彼にとって、東と早い時期に別れたのは生涯の誤算だったろう。……扨も皆様、こんにちの御話の教訓で御座り升るが、呆気芸は突込あつてのもの、御客様の笑いを悉皆己が取た物と思ふて慢心致さば終には己が身を滅ぼすといふことぢや。
朝、ダカーポ原稿書き上げる。K子の弁当は冷や飯をチャーハンにして。御飯がそれで切れてしまったので、新宿に出て、とんかつの王ろじで豚どん(カツカレー)を食べる。何か、子供が時間になっても学校から帰らないというので大騒ぎしていた。学校の担任が電話でやっとつかまり、今日はクラブ活動があって遅くなります、ということがわかってチョン。
帰って、海拓舎原稿。手持ちの材料をパッチワークのように組み合わせて理論構築する面白さ。もっとも、書き写しに手間がかかって枚数はすすまず。4時、時間割で出来たところを手渡し、この日記のことなどについて。いったい、どれくらいの人数がここを読んでいるのか?
なじみの怪獣ファンライターNくんから電話。彼が編集・構成している円谷英二生誕100年本への寄稿のお願い。承諾。それからSFマガジン10枚弱。これも今回はほとんど資料の書き写し。8時半までかかって書き上げ、メール。ずーっと同じ姿勢で座っていたため、立ち上がったら左足がほとんどマヒのように固まっていた。昨日のコンテンツ・ファンド出演者、前田麦さんからメール。やはり本人もアメコミのファンであるらしい。
タクシーで新宿新田裏まで。女性の運転手で、車内に大きく“禁煙”というステッカーが貼られていたが、香水の匂いが車内じゅうにぷんぷんしているのも、男性客にとってはかなりキツいぞ。寿司処すがわら。白身、コハダ、カワハギの酒蒸しにタコの刺身。K子はメシの炊き方の秘訣を伝授されていた。