26日
木曜日
その男、女房につき
ホモのカップル。朝8時起き。寝床で昨日のクレしんのパンフを読む。まるきりオトナ向けのパンフレットという作りが意図明確でいい。20世紀を振り返って、という声優たちへのインタビューの中で、まつざか先生役の富沢美智恵の回答。20世紀の思い出が“私がクリスチャンになったこと”。20世紀お気に入りの映画が、『十戒』『ベン・ハー』で、“神様の偉大なる力と愛が描かれているから”。いや、別 にコメントはしません。朝食、荒挽きソーセージ。K子は残す。ソーセージはもっとスカスカなのがいいそうである。それとブドウパンの、まるでブドウが入っていないところ。一斤の一方に偏っている。果物はスイカ。だいぶ甘くなった。
原稿、ぐちゃぐちゃと書く。並列してやっているのでさっぱり進まず。GW進行、錯綜を極め、もう原稿書いたんだか書いてなかったんだかもわからなくなっているところがいくつかあり。薬局の協会関係のところから電話。インタビューをお願いしたいとのこと。わかりました、いつごろにしますか、と訊いたら、ではその件も上に報告して後日文書で、という。お固いところはめんどくさい。
昼に六本木に出て、立ち食いソバ屋で昼食。ざるそばと春菊天。ABCでマンガ数冊。卯月妙子の新刊が出たのもうれしいが、手にとって大笑いしてしまったのがイースト・プレスの池原しげと版『魔女っ子メグちゃん』。なんでまた今、池原しげとのメグちゃんか。もう、こういうのを出そう、と考える奴がいるということ自体で、大喜びしてしまう。手塚治虫直系の女の子を描く作家として、いまや天然記念物的存在かもしれない。池原しげとと言えば『超人戦隊バラタック』であるが、ほぼ同時期に放映されていた『ザンボット3』の対極にある脳天気アニメ(設定は案外ハードなのに)。これを喜んで見ていたのは、当時(77年ころ)でも、かなりヒネたマニアであって、バラタック派はザンボットなどを異色アニメなどと言って喜んでいる奴らを俗人扱いしてバカにしていたものだ。なにしろこの作品、タイトルロールのバラタックが地味なデザインなものでだんだん影が薄くなり、後半はほとんど悪役たちによる呼称の“お邪魔ロボ”の方が主になっていた。で、最終回のタイトルが『もう終わりでーす』。その投げっぱなしなことにはつくづく感嘆する。ザンボットは所詮“SFアニメマニアがやりたくてもできなかったことをやってみせた”作品に過ぎないが、バラタックは“だれもやりたいとも思わなかったことをやっていた”アニメなのだ。私はこっちの方が断然贔屓。大塚周夫(ゴルテウス)、永井一郎(ガエル)、肝付兼太(ゴブラ)のアドリブでのやりとりは、タイムボカンシリーズの小原・八奈見・たてかべのトリオに匹敵する名演。ああ、書いててまた見たくなってきた。DVDで出ないかなあ。そうそう、池原しげとは『帝国の逆襲』もマンガ化していた。レイア姫やルークがかわいいキャラなのは当然として、ダース・ベイダーも彼が描くと、何となくかわいらしくなってしまうのであった。あれ、途中までしか読んでなかったが、完結したのであろうか。
4時に、モノマガジン原稿書き上げてメール。それから外出。渋谷パンテオンにて『ハンニバル』。試写に行き損ねたため、今頃やっと観た。まあ、私ごときがどうこう言う作品でないので詳しい感想は控えるが、笑わせてもらいました。どこかのサイトで、レイ・リオッタ(クラリスを失脚させる嫌味な司法省の役人役)を“おいしい役”と言っていたが、なるほど。
ただ、気になったところがいくつかあった。レクター博士がハンカチに麻酔薬(クロロホルムか、エーテルか)を染み込ませたもので相手の顔を覆って昏睡させる場面が二ケ所もあったが、通俗ミステリによくあるこのシーンはドラマの嘘で、あんなことで大の大人が失神しやしない、ということはとうに(うちの一行知識掲示板でも過去に)指摘されている。それから、ラストの手錠にしても、前作で、レクターはボールペンの芯一本あればいとも簡単に手錠をはずせる、というキャラクターだったはず で、なにもあんなことをせんでも、という気になってしまう。まあ、生真面目なジョナサン・デミならともかく、リドリー・スコットにとっては、そんなことはどうでもよろしい、という感じなのかもしれない。ホプキンスは全てのシーンで、あまりにうれしそうに演技しすぎ。そりゃ、“犬一代に狸一匹”で、こんな役を自分の持ち役にできれば、映画俳優としちゃ冥利に尽きるだろうが。
映画の終了時間に合わせて、8時45分にK子と花菜で待ち合わせ。鯵の塩焼きが極めて美味だった。焼酎のソバ湯割り三杯。鳥汁うどんをK子と分けて食べる。