裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

9日

月曜日

地震の波動がモホロビチッチッチ

 なんでなんでなんで、どうしてどうしてどうして曲線がこんなに不連続。朝また早く目が覚める。春のせいか。アブない発言をして警察に取り調べを受ける夢を見る。朝食はサーモンとパン。休刊日で新聞がない。むかぁし読んだ倒叙推理で、この新聞休刊日がトリックのネタになっていたものがあり、かなり感心した記憶があるが、誰のどういう作品だったか、まるで忘れている。

 福音館書店のT氏から原稿催促。かなり遅れているが、こないだのやりとりの一件で、筆がまるで進まない。腹を立ててるとかいうのでなく、完全にやる気が失せているのである。何とか自分を奮い起こそうとするが、どうもダメ。夕方近くにもう一回電話があるが、いまやってますと言ってニゲる。

 週刊文春ゲラチェックして返送。ほどなく編集部から電話。原稿の中に、ターザンのエイプコールを“アーアーアー”と書いたのだが、校閲係から、ターザンの叫び声は“ア、アーアー”と表記するべきではないか、と意見が出たそうである。妙なところにこだわる人がいたものである。別にそう記す必然性もないから、元のまんまでお願いします、と言っておく。もっとも、聞きようでは“ア、アーアー”という表記が確かに本物のコールに近いかもしれないが。思うにこの原稿で、校閲からのチェックはそこだけであった。職務に忠実な身としては、どこにもチェックを入れないまま返すと、仕事をしてないのではないかと疑われる、という恐れを抱くのかもしれない。教科書検定で、文部省がどうしようもない部分にチェックを入れてきた、とマスコミは文句を言うが、検定係のアイデンティティとして、どこかに口を挟まないと自分たちのレゾン・デートルが問われるかもしれない強迫観念があるのだろう。

 昼はK子の弁当のお菜に作ったホタテオムレツとスグキの漬け物で軽く一杯。それから今日のロフトプラスワンのネタ作りにかかる。ビデオの山をひっかき回し、これまでのトークで使わなかったものを物色。要するに、面白いことは面白いのだが、長さが中途半端であったり、よほどその世界が好きでないと意味がわからなかったり、いい作品なのだがインパクトという点で、オタアミのようなアクの強いライブには不向きだったりして、これまで未紹介でいたもの。マグマ大使の一シーンをLDからビデオにダビングしようとして、配線の具合が悪くなっているのか、音がまるで入らないことに気がつき、テレビとビデオの裏側にモグズリこんで、全部配線をチェックしなおす。アーデモないコーデモないとやって、やっと修復。汗びっしょりになった。作業中に『創』の篠田編集長から電話。早く連載を始めろという催促。そうそう、これもやらねばならぬのであった。

 6時半、新宿へ出る。ロフト、到着時はガラガラでちょっと心配したが、三々五々客が入って、開演時にはほぼ、満席となり、控室も開放する。春休みのせいか、若い観客が多い。三部構成にして、最初がトーク、次がビデオ、最後に朗読、というカタチにしたが、一部終わったところでK子が、終わったあと、常連のみんなとグリーン食堂へ行こうと提案、ソレハイイ、と、三部は省略する。いいかげんだなあ。

 トーク、今の怪獣映画とかSFとかの悪口。鶴岡を上げる。さすがにこういう慣れた場所でのトークで受けを取るのはベラボウにうまい。どうも、本編のブンカザツロンのときよりはるかに活き活きしているのが困る。観客がいると燃える、天性のライブ人間なんだろう。ナルシスト的なところが少ないのかもしれない。ナル系のもの書きというのは自分が自分の原稿の一番の読者なので、他の読者やファンがいなくても平気なのだが、非・ナル系の人間は不断に第三者からの賞賛や反応を必要とする。まあ、どっちにしても困ったものなのだが、もともと、モノカキなどというのは困った人種なのである。

 休息時間に、『ブンカザツロン』と同人誌を売る。イーストの五所くん、裏モノのトリケラさん、月蝕歌劇団の川上さんなど知り合いに挨拶。週刊現代のMくんも来てくれて、先日のエマニエルばなし、写真をたくさん入れろという指示のため、ほとんど原稿には反映させられなかったというお詫び。コメントなどというのはもともとそんなもので、まあ大して気にもならない(少しは気にしている)。ああいうエロチック映画による70年代性春史を語り下ろしして本にしたらどうか、と思う。

 第二部はお蔵だしビデオ。やはり『赤胴鈴之助』が大ウケ。これはオタアミでもいけるかもしれん、と思う。他のものも、珍しさでみんなついてきてくれたようだ。朗読をカットしたら、川上さんとロフトの斉藤さんが非常に残念がった。次にゲストを招いて朗読の会をまた、やろう。

 終演後、開田夫妻、談之助夫妻、世界文化社Dさん、エンターブレインNくん、奥平広康くん、斉藤さんにわれわれ夫妻の十名でグリーン食堂へ。イヌ炒めを食おう食おうと意気込んだら、なんと今日は品切れ。ちょっとガックリ。その変わりの豚ジャガイモ鍋がうまかったのでまあ、いいか。斉藤さんから、今日のトークでしゃべった“怪獣映画伝統芸能”論について、詳しい説明を求められる。まあ、この日記でよく書いていることで、怪獣映画という、全くのナンセンスな設定から映画を造り起こすものは、どうしてもそこに様式化が必要とされ、その様式化が繰り返されるにつれ、次第にその作品は“お約束”の集積となり、伝統芸能化していく、という話。

 お約束が多いジャンルは次第に、フリの客にはよく意味がわからぬものになっていき(斉藤さんはこのあいだ初めて『妖星ゴラス』を観て、落語みたい、と思ったそうである。アレで映画として成り立っている、というのが若い彼女には理解しずらかったのであろう)、やがてそのお約束に巨密に通じている“通”を生む。歌舞伎で言えば見巧者、怪獣映画で言えばオタクである。そして、次第にその世界は通だけの閉塞的世界となり、煮詰まって滅んでしまう。滅んでも、伝統には“形”というものが残るわけで、その再現・復活は可能である(SFロボットアニメの伝統を『アイアン・ジャイアント』が復活させたように)のだが、怪獣映画における伝統芸的性質を理解している映画人が若い人の中に少ないから、そこに新しいものを盛り込もうとして、たいてい、それが融和せず、失敗するハメになる。怪獣映画の基本にある反リアリズム性を認識しようとせずに、妙にリアルばかり追い求めるから、そこがチグハグになり、最終的には『ガメラ3』のようなところまで映画自体を追い込むことになり(あれであの映画はかなりの線まで行っていたことは認めるけれども)結局、煮詰まってしまい、あそこでシリーズを打ち切らざるを得なくなってしまう。

 まあ、この基本理論に、トークでも話した、チープ文化の強さとか、観客参加性のこととか、いろいろと細かい附則があるのだが、酒の席ではそんなカタい話はあまり出来ない。真露飲んでいいココロモチになり、豚を食って満足。帰ったらもう2時に なっていた。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa