26日
木曜日
となりのドロドロ
まあ、お隣の奥さん、あんな虫も殺さない顔していて不倫を。朝7時15分起床。夢は見たけど忘れた。朝食は昨日と同じサツマイモ。K子にはベーコンと掻き卵。二十世紀梨、今年の最後のものを食べる。カタログハウスのスケジュールを調整して、FAX。
朝日新聞社『日本語相談』・1に、こないだの“れる・られる”問題についての詳しい議論があったと記憶していたので、書庫から引っ張り出して読んでみる。“このごろは、見レルだの起キレルだの、出レルだの、変な日本語が多くなりましたが、なぜこんなことになったのでしょう”という八十翁からの質問に、大野晋が、実はこれは古くからある語形で、小林多喜二の『蟹工船』の中にも使用例がある、という意外な事実を示し、この見レル来レルは山の手方言であった、と言語研究の面から指摘する。そして、最近この言い方が一般的になってきたのは、言語簡略化の趨勢であり、子供のころからレルで覚えてきた人はそう使うのが当然で、大勢はそちらに傾いてきている、と答えている。これに、同じ回答者の丸谷才一がカミついて、言語学習の基本は保守的であった方がいい、とし、やはり見ラレル起キラレルが正しいと教えるべき、と反論。大野は次の回で、ラレルには受け身、尊敬、可能、自発の四つの意味があり、これらが同形であることを人々の潜在意識が嫌い、ラレルをもっぱら尊敬の方に使うことにして、可能形としてレルを使用する方向に持っていっているのでは、と論じて、言語の変遷のパターンから、いつかはレルが公式に認知されるであろう、と 結論づけている。
大野の再反論は、自分の書き方に不備があったため、丸谷さんに誤解されて恥ずかしいと先輩に謙遜した物言いをしてはいるが、非の打ちどころのない正論で、やはりラレル擁護には勝ち目はない、と思わされる。丸谷のレル忌避論も、いつぞやの江國滋のそれと同じ、単なる感情的嫌悪であり、それ以上の理屈はない。現代日本語を語らせての第一人者にしてこれなのだから、ラレルの命運も極まったり、というべきであろう(丸谷の再々反論がなかったのもこれを認めざるを得なかったからだろう)。ラレル支持派としては時運ノ趨クトコロ、堪エガタキヲ堪エ、忍ビガタキヲ忍ビ、愛すべきラレルの消滅を見送るしかあるまい。
昼はコンソメスープの缶詰をあけ、温めて冷蔵庫の中に残っていた豚肉、ネギ、エリンギの切れっぱしを微塵切りにして入れ、冷飯を投入、ぽん酢醤油で味を整えて、即席のスープご飯。講談社Web現代のコラム、遅れたが二回目の原稿を書き出す。ノリ過ぎて長大なものになり、かなり削る。4時、八枚弱に縮めたものを完成、メール。プロフィールも編集のIくんの原稿に手を入れて送り返すが、自分のことを褒めている原稿に手を入れるのは(いくら宣伝用とはいえ)テレるもの。
K子から偵察を依頼されていた、六本木芋洗坂下のスカンジ・フード・ショップに行く。以前、芋洗坂にオノプロの事務所があったときには、スカンディナビア・センター一階にあったここによく出かけた。あの特長あるビルが取り壊されていたのにはちょっと落胆。フード・ショップは近くのマンションの一階に移って新装開店している。スウェーデン風肉団子、ラズベリーのジャム、ニシンの生クリームあえなどを買う。麻布十番商店街の味のある夕暮れ風景をちょっと楽しみ、通りまで戻って明治屋で残りの買い物をする。
帰って、少し仕事用読書。北海道新聞のトンデモ本星取り五番勝負のための、未読のものを片付ける。今回、星五つ(最高点)はてっきり、デーヴィッド・アイク著・太田龍監訳、の『大いなる秘密・世界超黒幕』(三交社)が、スケールの大きさといい、UFOから黒魔術、陰謀論に爬虫類型宇宙人などというトンデモネタの満載度といい、取るのは動かないものと思い込んでいたのだが、秋山真人の『優しい宇宙人』を読んで仰天し、こっちの方を推することにした。内容で五つとしたのではない。著者のあまりに堂々としたモノイイに、かえって感服してしまったのである。
『大いなる秘密』の著者は、少なくとも自分の説に信憑性をもたせるため、古今のあらゆる資料や書籍からの引用を散りばめている。それが恣意的極まるものにしても、だ。ところが『優しい宇宙人』における秋山氏は、自分の話をリアルっぽく粉飾するということを何ひとつしていない。何の証明もなく、証拠もなく、自分は二十数年も前から宇宙人とコンタクトしていると称し、太陽系の全ての惑星には宇宙人の基地があると言い、グレイの指は握手するとゴムのように伸び、自分はそれをチョウチョ結 びしたことがある(ハテ迷惑な)、などと語るのである。はっきり言って、駄ボラ以 外の何物でもない。ホラにしても出来の悪いホラだ。・・・・・・にもかかわらず、彼にインタビューしている坂本貢一氏は“すごい話ですね”と感服し、頭からそれを信じ込んでいる。
秋山氏の頭のいい(?)ところは、他のトンデモさんたちのように、さまざまな理屈や証拠を並べて、自分のことを信じなさい、と強制しないことである。あとがきで彼は“この本の内容を「信じてほしい」という気はさらさらない。嘘だの本当だの不毛の議論はもう飽き飽きだ”と言い切っている。根拠らしいものを示せばそこにツッコミを入れられる。根拠のないものにはツッコミさえ不可能だ。嘘だ本当だの議論がない論こそ不毛なのではないかと思うのだが、そこを封じてしまえば、あとは言いたい放題なのだ。こういう御仁の言うことなど、誰が信じるかと思うだろうが、世間の人はしかし、秋山氏の話を聞きたがって講演に足を運び、TVに出演させ、本を出させるのである。結局のところ、人間は真実だけでは生きていけない動物なのだろう。確かに、自分の言うことを“真理だ”と言い切る奴と秋山氏を並べてみれば(秋山氏は自分の言うことを“事実”とは言うが、真理とか予言とかいう言葉は巧妙に避けている)、秋山氏の方に、人は好感を持つのである。
私は自分の言を“真理である”などと恥ずかしげもなく言う奴は大嫌いだが、秋山氏のことは嫌いではない。嫌いではないが、声を大にして言いたい。“このおっちゃんは大ボラ吹きである”と。もちろん、根拠などは何もない。こういう顔の奴はたいてい、ホラ吹きなのである。
道新原稿三枚半、書き上げてメール。夕食作りに入る。スカンジナビア風肉団子は温めて、マッシュポテトとクランベリージャムで食べる。他にはハスの煮物、シャケ缶とキャベツの煮物など。肉団子、風味豊かというものではないが、案外イケる。缶ビール大一本、日本酒二合半。