1日
日曜日
デ・キリコの丈は七寸五分じゃ
そんなに小さい人でしたか。朝5時起き。週刊アスキー原稿を書いて7時まで時間をつぶす。とはいえ、昨日ベッドに入ったのが夜の11時チョイ。その前に6時間、昼寝して、また6時間、よく眠れるものだ。朝食、7時半。サラダスパゲッティに小トースト一枚。ブドウとカフェオレ。オリンピックもやっと明日で終わりだが、本日の読売新聞日曜版書評欄の“ツカミ大賞”は友添秀則・他『スポーツ倫理を問う』を 書評した野矢茂樹東大助教授の文章の冒頭。
「私はオリンピックがいまではすっかり嫌いになった」
期間限定のツカミかもしれないが、オリンピックが開催地に一瞬の空騒ぎの後、残す爪痕に対し目を向けた問題提議の書を、敢えてオリンピック開催期間中にこういう文章を持ってきて取り上げるその心意気やよし。読売新聞論説員の馬場錬成による、『虫歯の敵は幾万ありとても』の評も、いわゆるツカミというのとは違うが、冒頭の文章がさすがに読ませる。ただし、この、いかにも座りのよろしくない書名のセンスの悪さにも触れてほしかった。書名に関しては、私も編集部につけられて泣いたものが(今、出回っているものにも)相当数あるので・・・・・・。
アスキー書き上げ、K子に図版ブツ指定して渡す。風呂入り、新連載原稿資料にいくつかネットサイト回り。昼は昨日すがわらから貰った稲荷寿司。六個ほど一気に食べて少し腹もたれ。寝転がって、先日ちょっと触れた『父・柳家金語楼』を読む。著者の山下氏は、圓生のような、気取った名人が大嫌いだったようで、大阪の落語家が観客サービスを常に忘れないのに、“東京の名人クラスと言われた連中は渋くいこうとするあまり、出囃子に乗って登場しても、第一声を発するまでの長いこと。ニコリともせず座布団に座り、頭を下げてから、まずジロリと客席を睥睨。ついで、湯呑の茶をゆっくり啜ります。それから懐の手拭を取り出して洟をかんだり、ひどい奴になると痰を切ったりして”とクソミソ。芸にしても圓生のソレなど八代目文治の神品の足元にも及ばぬ、聴かせるまえからどうだ、巧かろうという夜郎自大ぶりがありありと見えた、などと散々である。そして、金語楼が顔をつかって笑いをとることを難じた江國滋のことも“大きな思いちがいをしている”と切っている。
江國滋の落語批評は確かに私も嫌いだが、圓生、というより彼に代表される東京の落語の、芸(伝統)に対する敬意からくる気負いも少しは理解してやんなよ、という感じ。圓生でさえ鼻につくならこの人、最近の談志などを見たら血管がキレやしないだろうか。・・・・・・しかし、それでいてなお、少年金語楼に女義太夫の名人・竹本素行が言って諭したという“坊や、芸人になるんなら名人になるんじゃないよ、人気ものにおなり”という言葉には、芸についての(いや、芸に限らぬあらゆる“食っていく手段”についての)重みある真実が含まれていると思う。
一行知識掲示板がすさまじい書き込み攻勢で、パンク状態。土日にかかるので、井上デザインにログ保存が頼めない。昨日、こちらでとりあえず100発言ほどは保存しておいたが、それも突破しそうな状況である。単行本を読んできてくれた人、それからAIC(朝日インターネットキャスター)で植木不等式氏が紹介してくれたのでそこから来た人、などでこの繁盛になったようだ。とりあえず、ここしばらくはログ管理をもっと頻繁にしなければいけない。
また今日も昼過ぎから体力落ち、しばらくフトンの上でグッタリと過ごす。ただ、決して気分が悪いわけでなく、ウトウトとしながらかなり長いこと見ていた夢(金語楼の本の影響あらわだが、明治時代あたりの寄席の興業を客席で見たり、自分でも何かモダン曲芸のようなことを演じたり)が、面白くってたまらなかった。
6時、新宿に出て、区役所通りのカラオケ屋パセラの上のバリ・カフェで、氷川竜介氏をはげます会。少し遅れて入ったが、メンツがさすがに濃い。ヤマトの石黒昇、ガンダムの富野悠由季の大御所二人を筆頭に、岡田斗司夫、竹内博、池田憲章、出渕裕、開田裕治、大森望などなど。岡田斗司夫がオタクエスタブリッシュメントたちと表現していたが、いわゆるプレオタク世代から第一世代。会場に足を踏み入れたとたん感じたこの懐かしい雰囲気は何だろう、と思ったら、全体的に服の色がくすんでるところだ、と思い当たった(笑)。氷川さんのラストの挨拶があがりまくっていたのも、このメンツでは無理なかろうという感じ。
氷川さんの著作の特長は、取り上げた作品に対する真摯な姿勢と、その作品を実物以上に拡大することなく、誇張することなく、独断を排し、データを尊重し、1/1のものとしてそれに対峙し、深い愛情で作品を語りつくすことにある。簡単なようだが、これはライターとして稀有な才能に属する。私や岡田斗司夫のように、その作品の片鱗の一部を全体像にまで押し広げて突っつき回る騒々しさとも、また東浩紀のように、作品を無理矢理時代的重要性というワクに押し込めてしか評価できない偏頗な視点とも無縁だ。それだけに、オタクの、オタクによる、オタクのための書籍、と片付けられる危険性も十二分に備えている。すべての作品研究の土台、礎石ともなる文化事業としての著作執筆なのだ。各出版社諸氏、そこをよろしくご考慮の程を。
8時、K子と落ち合い、開田夫妻、佐々木果氏、岡田さんと、区役所通りの韓国料理屋でメシ。岡田斗司夫、私にしきりと“編集長になって雑誌を作れ”と勧める。某人気マンガ家の単行本の、シリーズ初期と現在の部数の差を聞いてガクゼンとする。こら、書き手から編集に回った方がいいかもしれん、と思えてくる。タラチリ、ツユク、冷麺など。マッコリ久しぶりに飲む。体力落ちたところにやたら効いて、何が何だかわからなくなる。