裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

11日

火曜日

ありおりはべりポロリあり

いづれの御時の水泳大会にか、芸能人あまたさぶらひたまひける中に、
いとやむごとなき胸にはあらぬが、すぐれてトキメキたまふありけり。

※『パチスロ必勝法NEO』キャプション トンデモ本大賞台本

今朝の夢。薩長戦争のような、あるいは南北戦争のような
内戦の地を駆け巡り、双方にかけあい、戦闘の仲裁・調停を行って
「まあ、この戦闘はそろそろ先が見えたから、ここらで
やめて、次の戦闘に移りましょう」
と手を打たせる商売をやっている。

7時ころ目が醒めて、起き出してメールチェックなど。
そろそろ、春になってきて眠い眠い病も回復か?
窓の外がやけに明るい。
路地の梅もいい具合である。

9時朝食。オレンジ三切れ、イチゴ三粒。
ブロッコリスープと青汁。
粉末青汁は苦味があってどうも。
一昨日、能登のこうでんさんから“加賀屋の朝食セット”と
いうのをいただいた。イカの干物などが入っている。
これを焼いて朝飯、というのがちょっと東京だと
イメージ出来ず、酒のサカナにしてしまいそう。
やはり能登のものは能登で食べたい。
旅行してえなあ、とため息。

さらにメール、編集さんやら麻衣夢ちゃんやら。
さらに実家に薬を注文、ついでに豪貴から
昔の知り合いの消息など伝えられてへえ。
東京中低域、次のライブご招待してくれた。

トンデモ本大賞進行台本、準備稿を基に第一稿を
書き出す。独立開催となって今年で6回目、マンネリ回避と、
常連さんたちの“おなじみのあれを”という期待を満足させることの
両立に、そろそろ頭を痛め出す時期である。
映画の007シリーズも第六作は『女王陛下の007』で
イメージを変えようとして失敗している。気をつけないとねえ。

昼はシャケ弁当。
つけ焼きシャケの美味さ。
食って雑用いろいろ、
3時ころ家を出る。
地下鉄で新宿、そこからバスで渋谷。

事務所、『パチスロ必勝法NEO』キャプション書き。
書き終えたあたりでちょっと電話数件。
さて、それから台本、人的配置では名案ひらめき、
さっそく当人に問い合わせ。
とりあえずその設定で一気呵成に仕上げる。

それからが大変、詰め込みすぎの内容を整理しつつ、
四時間の公演時間内に収める。
タイムテーブルをにらみつつ、あそこを削り、ここを埋め、
という作業。パズルのようである。
去年時間が足りなかった候補作発表は少し時間を増やさないと
いけないし(山本会長に“しゃべる時間を短く”という
注文は無理なことが経験上わかっているんである)、
今年の大会は某件での記念イベント的性格もあるから
セレモニーも大きく入れねばならないし。
結局、開演前に5分、終演で5分、都合10分がコボれてしまった。

とりあえず、大会番長しら〜氏と進行番長の植木不等式氏、
舞台監督のI矢くんにこれを送って意見を聞き、
それからMLで実行委員各位に呈示、の予定。
書き上げて、さすがにフウと息をつく。
この時点で8時。

京王バスで帰宅。時刻表確認してバス停に向かうも
タッチの差で逃す。しかし書評用読書しているあいだに
すぐ、次のが来る。つまりは時間忘れるほど面白い。
私には珍しく小説本だが、作者の筆力に感服する。
要するに私好みの、ややクラシカルな作りの小説だと
いうことだが、クラシカルといっても構成は大胆、
舞台は現在に直接つながる近未来。
何がクラシカルな雰囲気をかもしだしているのかと
考えて、ひとつの結論を得たが、それは原稿で使おう。

サントクで買い物して帰宅。
備中鶏をフライパンで、この頃御用達の『洋食のシンプルルール』
に従って弱い中火で焼く。皮目を下にし、肉がほとんど白く
なるまで裏返さない。なるほど、出来上がりは皮はパリッで、
肉はジューシー。おろしポン酢(柚胡椒入り)で。
あとは釜揚げ桜エビ。

ビデオ『ジーキル博士とハイド氏』。1981年製作の
BBCのドラマで、いかにもテレビドラマといった作り。
デビッド・ヘミングスが老けメイクのジーキル博士で
出てきて、メイクを落とすとハンサムなハイド氏になる、と
いうのがミソなんだろうが、この当時ヘミングス40歳、
そろそろ太り出して、往年の美青年の面影が薄れてきだした
ところなので、さまでの効果が上がってない。
見ていてちょっと退屈した。
中ごろで、ちょいと出てきてすぐ、ハイドに暴力を受けて
殺される紳士、よく見たら007シリーズのQ、
デズモンド・リュウェリンだった。

ネットで漫画家、鈴原研一郎氏の死去を知る。67歳。
http://mainichi.jp/select/person/news/20080312k0000m060106000c.html
貸本漫画出身で、後に『週マ』の常連作家となった。
青い性を取り上げた作品をよくお描きになっていたが、
70年代初頭ではかなり大胆な試みだったのではあるまいか。
絵はいかにも古い世代の少女マンガ、という感じだったが
貸本で鍛えたストーリィテリング技術はさすがだった。
後の24年組の呼び水になるべき革新性を持ってた人だと思う。

あまり漫画家の情報が表に出ない時代だけあって(出る時代には
もう半ば引退状態だったこともあって)、われわれの世代には
ある都市伝説的な噂が流れていたものである。
訃報に付してこういうことを書くのも不謹慎だが、一応記録と
いうことで記しておくと、鈴原先生は実は身体障害者(HUNCHBACK)
である、というものだった。
著者近影は別人のもの、というのである。

某女性マンガ雑誌の編集長(同い年)と話したら彼もその噂を
知っていて、業界に入ってすぐ、古い作家さんに訊いて確かめた
そうである。
「で?」
「いや……確かにかなりの猫背だったな、ということでしたが」
つまらない噂が流れたものだが、それもこれも、
マンガ家情報が今のように入りにくかった時代で、
しかもその時既に幻の作家的な消え方をしていたからだろう。

ご冥福をお祈りすると共に、まだ67歳だったのか、という
驚きも隠せない。充分現役世代ではないか!
生年で計算すると藤子・F・不二雄より8歳、赤塚不二夫より6歳、
石森章太郎・松本零士より3歳も若かったのである。
しかし、今現在のイメージではこられの作家たちよりずっと古い。
作家の年齢について考えることしばし。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa