4日
木曜日
大蔵省で財務省
♪谷垣と尾身との合言葉、大蔵省で財務省
※終日、原稿書き。
朝8時起床。夢を4〜5本見た。初夢は元旦のも二日のも、まあめでたい夢だったが今日のは侘びしい夢。うら寂れた地方の湯治宿の雑魚寝の寝所で、死んだ親父としみじみ語り合っていた。親父はやはり、私が薬剤師になって店を継いでくれなかったのを寂しがっているようだった。50近くなってまだこんな夢を見る。
しかし、その一方で、大正レトロな(『シルバー假面』の影響だろうな)きらびやかな舞台に出演する夢も見た。共演の丸尾末広調の美少女が実は高性能の生き人形で、本物の女優は恋人と亡命している。それを見破った臨席武官の“上演を中止せよ!”との命令を、役者たち全員でからかい、バカにして芝居を続け、満場の観客たちの拍手の中、芝居は続く、というもの。
もうひとつ、舞台の夢。私は唐沢俊一としてゲスト出演。どこかの街(たぶん札幌)のデパート内の舞台で、もうすぐにも開幕するという時間なのだが、楽屋は渾沌として、誰もセリフを覚えていないし、どういう芝居なのかもよくわかっていない。女優がいきなり演出家に“男役でいけ”と言われて、ペニス付きの下半身着ぐるみなどを着用している。でも、胸なんかはさらけだしていて、“楽屋じゃ男優も女優もないもんだなあ”などとぼんやり思いつつも、好きな女優だったので眼福と喜ぶ。すでに客は入って(どこかの高校の観劇授業)客電が落ち、真っ暗な中を横切って、何故か外に出ると、ショーウインドウにテレビが並べられていて、立川談志があるアニメ作品について解説している。ところがそれは私がホンの数日前にテレビで解説した作品で、他の局ではそれを同じ時間にぶつけて再放送している。楽屋に帰って(どうやって帰ったのか?)そのことをみんなに報告。すでに芝居は始まっているらしく、私はいつ出て、何をすればいいかも把握していないが、まあ、なんとかナルダローと思っている。
悪夢であれなんであれ、夢を見るのは大好きで、見るとトクをした、と思う性分である。特に今回は、見たいと思っていたシチュエーションや人物がいろいろ出てきたのでなおさら。
9時半、朝食。イチゴ大粒の2粒、リンゴ半個。青汁に青豆スープ。しかし今年は正月気分が皆無の正月であった。これは、mindyさんが日記に書いてたが、やはり大晦日がコミケだったことの弊害ではないか。コミケが終わり、その虚脱感と、さて、来年はどうやっていくかな、と思いつつ大掃除などする年末と、一日あけて迎える新年という、気持ちの整理の切り替えの儀式みたいなものが、大晦日がドタバタで終わってすぐ年改まるというのではないのである。
それにしても、四大節という、時間の流れのフシメを考え出したのは古人の大いなる知恵だと思う。去年は愚かしい沙汰でなんだかんだ、気持ちの整理がまったくつかないままに一年が過ぎてしまった。どこかで気分を切り替えるつもりが、中途半端にだらだら行ってしまったのである。正月気分こそなかったが、年が変わった、新しい一年が始まった、ということで自分でも不思議なくらい、よし再起動、という気分になっている。まあ、途中でまた日常におぼれてグズグズになっていくんだろうが。
昼まで何も出来なかったのにビックリ。昼食はキャベツオムライス。mixiニュースで“妹切断”という文字を見て、思わず笑ってしまう。まあ、文字通りでウソはないのだが、“夢がないよね”と妹になじられるなど、オタ諸氏を釣るために作った記事としか思えない。記者がオタクだったのではないか?で、彼女もmixiやっていたようで、そこのマイミクの紹介文というのが“はっきりやなことは言うみたいな、すごいストレートな人”となっていた。今回の事件を予見していたかのような。
5時ころ、某所から電話。〆切のデッドラインを聴いてエエッ、と驚きの声をあげる。それからいろいろ。とにかく外出予定など一切中止して、いろいろ。なんとか7時くらいまでに13枚。これってひょっとして、正月三が日かけて書いた分量と同じでは……。人間、尻をひっぱたかれないとダメなのである。
9時、夕食。トロとイクラの手巻き寿司。トロ値上がりひどい状態らしい。まあ、正月で消費が増えたからというのもあるだろうが。久々にノリを大量に食う。うまし。
NHKで星野道夫の特集、画像は素晴らしいが、どうも番組全体に欺瞞を感じる。いや、この人の写真は素晴らしいと思うし、好きなのだが。クジラのことを“宇宙につながっている”とか、そういう書き方する人が苦手なのである、私は。
「なぜクジラは空に向かってジャンプするのか」
と、妙に哲学的ぶってみたりとか(あの行為〜ブリーチング〜が、その水面にぶつかるときの衝撃で、皮膚についたフジツボや寄生虫、老化した皮膚などをこそげ落とす“アカスリ”行為であることくらい、ナチュラリストなら知っているはずだ)。極限に生きる動物たちのぎりぎりの生に人間のさかしらな思いを重ね合わせるという行為は、むしろ自然への冒涜なのではないか?
光景の素晴らしさに見とれて一応最後まで見はしたが、呆れたことに、番組は最後まで、星野の死にざま(『どうぶつ奇想天外』撮影のための取材中にヒグマに襲われ、食われて死去)を語らないで終わる。あの死に方を通じてこそ、“自然と人間”の対峙というものをシビアに考えることが出来るのに。ないものねだりで自然にちょいとふれて、ああ、オレは文明の汚れから遠ざかることのできるナチュラリストだわい、という勘違い(度合いは星野氏よりはるかに大きい)をしている者たちに感動を与えないと商売にならないからだろう。白けさせてはいけない、と。そこに、いわゆるナチュラリスト業界の、大きな欺瞞を感じる。
http://www.tobunken.com/diary/diary20030601000000.html
↑ここですでに私は星野氏について語っていた。
自室に帰り、刑事コロンボ『秒読みの殺人』を見る。パン一姿のコロンボが出てきたのは視聴者サービスか? 犯人役のトリッシュ・ヴァン・ディヴァーをDVDのパッケージでは“トリッシュ・ヴァン・ドヴィア”と表記。感じでないなあ。ヴァン・ディヴァー演じる女犯人はけなげで同情はできるが、シリーズも終盤近くなり、大物になってしまったコロンボとタメをはるにはあまりに格が違いすぎ、コロンボが交通事故によるむち打ち姿で出てくるのも、名人の手合割といったハンデに見えて、痛快さがない。まして、今回の犯人はコロンボの他に、すさまじくストレスのたまるテレビ局での出世ゲームも同時に行っているのである。クールな美人がその二つの勝負のどちらにも破れて(両者の間にストーリィ的な関係はない)、打ちひしがれる姿を見るといういささかサディスティックな構成であった。普段は部下のジョージ・クレイマー刑事を演じるブルース・カービーがテレビの修理屋の役で出ていたのは嬉しかった。