裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

26日

木曜日

チェブラーしか!

 なんでんロシアのアニメじゃちゅうてくさ、細か熊んごとある人形が出てきよっとたい。朝、例により昨日の飲み会の模様などが長々と再現される夢を見て、つくづく呆れて目が覚める。朝食、発芽玄米粥、梅干。星乃さんからもらったサクランボ。朝刊に八代駿氏死去の報。70歳。ああ神様、これ以上吹き替え洋画ファンを悲しませないでください、と天に祈りたくなった。最近までくまのプーさんで活躍していたのがせめてもの慰めか。『トムとジェリー』のトム、『いなかっぺ大将』の西一、仮面ライダーの怪人たちなどの声の思い出がこれからネットで沢山語られるだろう。

 私的には、この人の声と名前を一致させて覚えたのは、『ブラボー火星人』のティム(ビル・ビクスビー)役で、だったと記憶する。トムとティムが持ち役だったのである。普通の日本人の発声とは一種根本的に異なる、バタ臭い声と芝居で(これは翻訳劇を多く手がけていたテアトル・エコー出身者だったからだろう)、それがTV洋画初期の、日本人の日常レベルとはまったく異なったアメリカ家庭の生活を表現するのにピッタリであった。上記『ブラボー……』で、開拓時代にタイムスリップしてしまったマーチンとティムが、ラストで無事現代に帰れたことを喜び、腹が減った、ステーキを食べよう、とはしゃぎながら冷蔵庫から分厚い牛肉を何枚も取り出すシーンがあった。家庭の冷蔵庫の中にビフテキ用の肉が何枚もストックしてあるのである。私はあまりの驚きに、その回の話を、そこしか覚えていない(タイムスリップでは驚かなかったのに)。あれを、日本的新劇役者の演技で演じたら、まるきりぶちこわしだったと思う。生活離れした八代駿の声が、お茶漬け的リアリティからかけ離れたドラマに血を通わせていたのである。……ちなみに、その回のオチは、台所にいるティムにマーチンが“もう一人前、ステーキ追加を頼む”と言う。お客さんかい? とフライパン片手に居間にティムが行くと、そこには開拓時代からついてきてしまったインディアンが、むっつりとした顔で腕を組んでいる。ティムが仰天しながら、焼き加減は? と訊くと、一言、“なま!”……というモノであった。もう一度見てみたいが、いま、放映できるかどうかは疑問だと思う。

 午前中はメール連絡その他でつぶれてしまう。入浴したのも12時過ぎ。昼は外出して、兆楽で冷やしネギチャーシューそば。汁が辛いこと辛いこと。こないだ底が破れたスニーカーの代わりをABC靴店で買う。センター街の若者風俗、蒸し暑いので肌の露出がだんだん大きくなっている。この間までは“品のない……”と眉をひそめていたのだが、先日大阪の宗右衛門町通りを歩いてみて、いや、コッチの大胆さに比べれば東京の娘っ子なんざオトナシイこと極まりない、と考えを改めた。なにしろ、布きれ一枚を胸にあてて、ヒモで縛っただけ、みたいな格好の若い子がゾロゾロいた のである。

 帰宅して、『新潮45』を読む。志水一夫さんの『パナウェーブ「とんでも理論」完全解説』、評判がかなりいいようだが、なるほど面白い。パナ研の主張の中にあるトンデモ学説のルーツを、過不足なく丁寧に解説。この人の学識とウンチクがいい具合にまとまっている原稿である。“いくらその言動が荒唐無稽だったとしても、奇抜な言葉や特異な世界観が一朝一夕にできるものではあるまい。彼らの前には、それを形作る奇想、妄想の体系があるのだ”という言には、この原稿の内容を越えて、深くうなずく。これはカルト研究ばかりでなく、およそ現代文化全般について調べようと思っている者すべてに、よく味わってもらいたい言葉だ。マンガもアニメも、そこで表現されている内容や世界観は、一朝一夕で出来たものでなく、そこに至る長くて複雑なルーツがあるのだ。それをたどって根元をつきとめることが学問というものであり、自分勝手な思いつきを流行の思想用語で飾ってしゃべりたてることではない。

 それ以外の箇所も、パラパラと読む。小谷野敦の『罵事討風』が、相変わらずの言いっぱなし芸風でまことに面白い。世の平和論者のブッシュ批判の声に対し、“私は中学生の頃から、国際政治に関して内政干渉はしない、という原則に疑問を持っていた”と語り、近代国家がこしらえ物であるのなら国境線だってこしらえ物で、内政不干渉というのはそのこしらえ物に基づいた不完全な思想なのだ、と突くあたりの切り口は痛快。痛快なだけで、じゃあ全肯定するか、ということになるとこれは別だが、床屋政談レベルでアメリカ批判をしているうちはダメ(少なくともものを語る職業としては)、ということである。“戦後日本人は、平和が一番、という教育を受けてきたから、平和の中の悲惨ということに鈍感になっている”というのもまさにその通りで、非戦反戦などと騒いでいる音楽家どもとかに聞かせてやりたいが、そのすぐ後に“だから「江戸ブーム」などが起こるのだ”と毒づくあたり、やはり困ったもの、である。もっとも、この人は“困ったもの”が持ちキャラだからいいのだが。

 マンガ翻訳せっせとやって、SFもの『大いなる愛』一本、訳し終えてK子にメール。これは古き良き時代のSF小咄という感じで、バカとはちょっと違うものであった。とはいえバカなのだが。仕事としては原稿用紙12枚分。ネットを散策。非常に嫌味ったらしい文章のレポートを発見して、ケッ、と思う。皮肉っぽく書けば客観的視点が得られる、とカン違いしている書き手の典型である。中に私のことなども出てきて、褒められているのだが、それでも腹が立つのである。むしろこういう文章の中ではケナされた方がスッキリするであろう。もっとも、なんでこんなに腹立たしく感 じるのかをいろいろ考えると、これはこれで面白い。

 居間のビデオデッキをK子が仕事場から移してきたものに変える。そのライン接続しばし。クレイ企画Kさんからメール。ゲラと書影用図版、無事届いたとのこと。その他ちょっと相談も受けるので、返答メールをしておく。ロフト斎藤さんから電話。紙芝居の件と、対談企画の件。“クケツでいい日を探しておきます”と向こうが電話口で言う。クケツとは何かと一瞬、考えてしまった。九月の末(ケツ)、という意である。反対語はクアタマ(九頭)である。ロフトの企画部員としてはそういう語をバンバン使っててきぱき仕事をする斎藤さんは頼もしいが、一般社会ではうら若き女性 があまり口にすべき語感の言葉ではないと思うが。

 8時半、夕食の準備。ひさしぶりに家で食べる夕飯である。魚屋にヤマメがあったので塩焼きにし、あとアブラゲの焼いたの、牛タンとカブの煮物。アヤメ米でご飯を炊いて、カブの葉の炒め物と、西玉水から貰った自家製錦松梅で食べる。このご飯がさすがアヤメ米で絶品。ただし錦松梅はK子が“いくら西玉水製でも所詮は貧乏な食い物”と評したが。ビデオで、石川義寛監督『怪猫・呪いの沼』。これは隠れた佳作であった。石川義寛は中川信夫の助監督について、『東海道四谷怪談』や『亡霊怪猫屋敷』などに参加した人だが、無駄に中川から学んでない。主人公の里見浩太郎が中盤で斬り殺されてしまうので、後半以降は主人公がおらず、かなり数多くのキャラクターたちが右往左往する。悪大名の内田良平をはじめ、悪家老の名和宏、悪中間の沼田曜一、悪侍の菅原文太、主人公の婚約者御影京子、その老父松村達雄、家老の妹三島百合子など、全員に単なる悪人、善人とは異なる人間性をつけ加えて描こうとした(暴虐無惨の内田良平ですら、我が子を溺愛する父親の側面を持つ)ので、逆に散漫になってしまった感があるが、とにかく怪奇シーンが非常に怖い。ストーリィとか人間描写に凝るあまり、怪談映画の本質を忘れてしまっている作品がままあるが、この作品はそこをちゃんと押さえているというだけでエラい。内田が奥女中の首をポン、と叩き斬って、斬られた女中がくずおれるところをロングでワンカットで見せたり、斬られた首が内田の幻妄の中でずらりと床に並べられていたりするのがなかなか。ただし、ビデオの画質としては最低。デッキのヘッドが摩耗しているのか、と確認したくらいであった。

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