裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

15日

土曜日

快楽亭レポート

 ブラ房、プレコグはオマエが二つ目になると予言したぞ。朝7時45分、起床。朝食、豆サラダ。缶詰でガルバンゾーや金時が入っているものと、コーン、グリンピースを混ぜる。果物はブラッドオレンジ。K子はここのところずっとフィンランドの黒パンを用いている。

 午前中に、残りのアスペクト原稿にかかる。人物評原稿が手こずるのは、金正日、ビンラディン、ベッカムと、本文の対談中でもういいかげん語り尽くしており、別の視点を見つけるのがやっかいであるため。なんとか2時までにアゲて、ひとつ、肩の 荷を降ろす。ふう。

 昼は安直に、マンション下の蕎麦屋で。天ザルを頼んだらもう天ぷらが切れたとのことで、肉南蛮にする。スポーツ新聞を読んだら、『トリビアの泉』が深夜ワクにも関わらず視聴率6パーセントをとる人気となっており、通常ワクに移行も、と書かれていた。あれ、深夜だからいいという性格を持った番組だと思う。できれば移行してほしくない。帰宅して、その件ではないが、ちょっとスタッフにメール。快楽亭から電話で、やはり黄金バットのフィルム、映画会社のリストにナシとのこと。残念。

 ササキバラゴウ氏の『1978年おたく元年論』が中途挫折。その挫折の仕方が、いかにもこの人らしい完全主義、根元主義からのものであることに苦笑する。そら、確かに78年を語るに際しては70年代全体の状況をきちんと整理して解説しないと基本的パースペクティブが見えてこないのは確かだ。しかし、そうなると今度は、その70年代全体を語るには60年代を語らねばならず、60年代を語るには50年代を語らねばならず……ということになりはしないか。ササキバラ氏は、おたく(私の表記で言えばオタク)の歴史を正確に記録する、というモチベーションを、その根元のところに持っていこうとしている(つまりは自分の存在のルーツ探しとしようとしている)のかな、と思う。だとすると、それは大変、というよりは、上記のような理由でほぼ、無理なくわだてではないかという気がする。何か、最近の若者の性の乱れを憂いて、まずおしべとめしべのことから説きあかそうとするような迂遠さを感じてしまうのである。語るべきなのは性そのものなのか性の乱れなのか。そこで線引きを することが必要ではないか。

 ササキバラ氏にオタクの正史を(この言葉に過剰反応する馬鹿はほっておいて)語らせようとするパッションの根元(で、あろうと想像する)は、基礎的知識欠如のまま、オタクを語ろうとする現在のオタク論壇の混迷であるだろう。その混迷の依って来る要因はどこに端を発しているのか、つまり“現在の状況”との関わりから、78年という時代をその遡れるギリギリのところ、と氏は定義したのではなかったか。この定義づけは、幾何の問題を解くときにおける補助線のようなものである。線を引くことでその問題のポイントが驚くほど明瞭に見えてくる。あくまでも補助線は問題を解く便宜のものであって、“なんでそこにそんな線を引くのだ”と文句をつける者はいない。“まず、とりあえず”引いてみましたで構わないのである。要は、その線を引いたことで、そこからどれだけのものが見渡せるか、ということだ。そして、補助線は解答が得られた後では当然のことながら消去されるものである。これまでのオタク論がいずれも陥穽にはまって身動きがとれないままになっていたのは、補助線自体(それがセクシャリティーであれ、エヴァンゲリオンであれ)に囚われすぎていたためなのである。あれは仮置きのものに過ぎないのだという割り切りが必要なのではな いか。

 ついでに言うと、時代のパースペクティブというものを、後の世代に完璧にわからせるということは、タイムマシンでも発明しない限り、ほぼ不可能であろう。数学のような論理的な学問においてすら、例えば先の補助線を図のどこに引けば一番よいかを見極めるのは直感しかない、と言われており、フィールズ賞受賞者である小平邦彦はこの直感能力を“数覚”と呼んでいる。まして歴史感覚、小平のひそみにならって言えば“歴覚”は、それ以上に天性のものが必要とされる。歴覚のないものにいくら懇切丁寧に説明してもそれは無駄な努力でしかない。

 そう言えば、以前私がこの日記に書いた『網状言論F改』批判を批判している、あるサイトを見つけた。私の斎藤環氏発言への批判に対し、
「鼎談での斎藤環の発言への批判はどうかなと思う。当時もサイレントマジョリティであったろう、第一世代(つわもの揃いと思われがちな)の、にもかかわらず薄いオタクの実感の証言としてあの発言は受け取られるべきなのではないか」
 と発言している。この発言者は1980年生まれということだが、少なくともオタク草創期である1972年(発言中で言及されている『海のトリトン』の放映年)において、アニメオタクが“濃い、薄い”の差が別れるほど多数存在し、薄いオタクがサイレント・マジョリティとして機能していたという、当時を知る者からすれば噴飯ものの状況把握(たぶん、オタクでなくてもアニメ、ゲーム、マンガ等にいくらでも接することのできる現状からの憶測なんだろうが)を元に語っているわけだ。若いから無理もないとはいえ、この人には70年代における、大学を受験する年齢になってアニメを見る、という行為の反社会性というものをイメージできるだけの“歴覚”能力に徹底して欠けているのである(もうひとつ言えば、この斎藤氏の発言はどの文脈からとっても、個人的体験の証言ではなく、状況についての発言であり、その“でかい作品が一つあってあとは極小の作品がちょぼちょぼというメディア環境”という指摘が誤りであることは、ヤマトやトリトンの放映年に他にどういう作品が放映されていたか〜例えばトリトンが放映された1972年時には、マジンガーZ、ど根性ガエル、ガッチャマン、ムーミン、デビルマン等、今なおリメイクされ続けている作品が目白押しに放映されており、これらのどこをとれば“極小”と表現できるのか〜を、ちょっと年表でものぞいて確認する作業を厭いさえしなければ一目瞭然である。こういうことを言う人、またはそういう発言を弁護をする人というのは、学問の基礎である“資料にあたる”という行為を嫌う怠け癖の持ち主でしかないだろう)。こういう人物にまできちんとわからせようと筆を尽くすことは、クラスの最も出来の悪い子にレベルを引き下げた授業を行うに等しい行為なのではないか。そこのレベルの子にわからせることでクラス全員が理解できればいいが、上位の子たちは、授業の退屈さに早々に興味を失ってしまうだろう。ササキバラ氏のおたく論の目指す懇切丁寧さが、そのような結果を生まぬことを切に望む。

 タクシーで新宿南口タカシマヤ。サザンシアターでの古川登志夫氏の劇団『青杜』公演『テレスコープ』観劇。Web現代の取材である。タカシマヤサザンシアターに足を踏み入れるのは初めてだが、エレベーターを降りてすぐ、二歩も歩かずに入り口受付というのは驚いた。デパートの中に劇場を作ると、えてしてこういう無理な作りになる。編集Yくんと待ち合わせ、席を取る。楽屋に談之助さんを訪ねる。裏もなんかせまく、楽屋の数が足りないのか、やたらひとつの楽屋に大勢入れ込み。主宰の古川さんも大部屋である。楽屋写真を撮影させてもらったら、プロデューサーで、神様役で出演もしている島敏光(笈田敏夫の息子で、黒澤明の甥)さんから、“カラサワさんとも一緒に写真撮らせてくださいよお”と頼まれ、古川さん、島さん、談之助さんと並んで撮影。

 芝居は古川さんの弟子たちの若手発表会という感じ。みんな声優志望でもあるのだろうが、声がまだ聞き取りにくい人が多い。柿沼紫乃、古川登志夫の二人はさすがに声の通りが格段に違う。あと、芝居のキーパーソンとなるナガレボシギンジ役の宮川佳大(『コンドルヒーロー』等)も。アマとプロの差は歴然、と言いたいが、実は最も声の通りがよかったのは、芝居はまったく素人の島敏光(神様役)だったりする。悠揚迫らぬ、いかにも神様っぽい力の抜けた、アドリブだくさんの芝居に感心した。

 見終わって、柿沼紫乃(『セーラームーン』の大阪なる)ファンのユキさん(談之助のかみさん)が写真撮ってもらうのを待ち、談之助と二人で東新宿の幸永へ。K子と藤井くんも来て、雑談しながら焼肉。芝居と落語の比較論など。ホルモンひと通り 食べて、ホッピー飲み、最後は冷麺で〆メ。

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