裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

1日

土曜日

国家修道院体制

 この非常時にあたり、国民全員一丸となってよきシスターに……。朝、8時15分起床。起きてTVで桂文珍を見るまで、今日が日曜だとカンチガイしていた。朝食は大豆・コーン・グリンピースのサラダ。母からメール。やっとCD−ROM届いてパソコン開通。まず、めでたし。岡田斗司夫『オタクの迷い道』(文春文庫)が届く。本の3分の1が文庫版特典というすごい本。私との対談だけで原稿用紙57枚分。あらためて読んでみると、私は語られているいくつかのテーマで、“あ、ここは後で自分の本に使えるな”という部分でフイと話をそらしている部分がある。ゲストで出てこれ以上しゃべるとソンだ、という計算を無意識にしているらしい。いくつか、流れの不自然な部分があるが、それはそういう箇所である。宮脇専務も私も共に、自分たちより上のストイックな世代に羨望と“自分たちは違う風にやるんだ”という意識を持っていた、という発言があり、ここらへんがこの二つの対談をオタク分析の資料に 使う際の眼目か。

 芦辺拓氏からメール。以前この日記で圓生の大名小咄の中に、米を研ぐことを“かしぐ”と言っていることへの疑問を書き付けたことがあったが、氏の証言によると、大阪地方の古語で、米を研ぐ(水を切って、強く握るようにかき回す)ことを“かしぐ”と言っていた、という。芦辺氏は大阪在住だが、氏の母堂も“お米はちゃんとかしがなあかん”とか言っていたそうだ。ただし、広辞苑にも牧村史陽の『大阪ことば辞典』にも出てこないという。ネットを調べたら、福井県の方言でも米を研ぐことをかしぐという、とあった。

 芦辺氏はこの語の混入を大阪落語から、と見ているようだが、私は個人的なものだと考える。六代圓生は大阪生まれである。自伝『寄席育ち』によれば大阪西区で生まれたが、まだ物心もつかないうちに良心の離婚により、母と一緒に上京して、そこで子供義太夫語りとなった。芸に大阪調は全く痕跡を見せないものの、日常語、ことに母との二人暮らしで、炊事に関する用語などには関西言葉が多く混じっており、それが耳にも口にもついていたことだろう。それで大名同士の米の炊き様の会話につい、子供のころの癖で大阪言葉が入り込んだ、と考えると、見事に符節が合う。

 日記を公開している面白さはこういうところにあって、些末なことでも書き付けておけば、どんな指摘や教示が得られるかわからない。ひさびさにソウカ、と膝を打ったことであった。近畿大教授の関井光男氏が、いつぞや対談の中で、文化研究というものは、残っている資料でなく、消えてしまった人と人、人と物の“関係”を探り出すことである、と言っていた。その上で氏は、関係性に注目していくと、探っていく中で出会ったものが全く違ったコンセプトを持ってくる。それをもう一回認識しないと、近代だ日本だ二十世紀だと言っても本当に実のあることはしゃべれない、と指摘している。このささやかな疑問と解答の発見も、その関係性がらみで、私にとっては大きな知的興奮を味あわせてくれた一件であった。こういうことを“些末”と片付けられる人は知の面白みを知らない不幸な人だろう。

 1時半、明日の朝の食材がなくなったので、青山に買い物に出る。どうせ半蔵門線に乗るんだから、と、神保町まで足を延ばして古書市へ寄る。いつもは古書市帰りについでに紀ノ国屋に寄るのだが、今日は古書市の方がついで。我楽苦多同人。ここの古書市はよく言えばバラエティに富み、悪く言えば雑多もいいところの本が並ぶことに特長がある。ただし、本の密度に関しては数ある古書会の中でも一、二を争うのではないか。足下にまで棚があり、熱心な人は床にしゃがみこむようにして探書に余念がない。私は金欠なのでざっと流し見。パチモンの小版カストリとか、浅野一の法医学本で、扶桑社の原稿でちょっと触れたものに関係する本とか、まあ五千円くらいで お茶を濁しておく。

 それから『いもや』で天丼。小柄なフィリピーナらしい女性が、店員のお姉ちゃんにスプーンを要求し、右手に箸、左手にスプーンを持って天丼を食べはじめた。箸で天ぷらを食べ、ご飯はスプーンですくってたべる。ははあ、食文化なるかな、といささか感心して眺めていた。ごく自然にふるまっているので、その食べ方がまったく奇妙に映らない。そして、食べるスピードが悠揚せまらぬもので、私が入ったときくらいにちょうど食べはじめ、私が食い終わって出るとき、まだ半分ほどのところであった。日本人の昼飯というのが少し時間的にも貧しすぎるのではないか? と思えてきた程である。

 食後のジュース飲むためにゲーセンに入る。こないだいた、ゲーム機に“なんでそうなるんだよぉ、ばかやろうぅぅ!”と叫んでいる若いのがまたいた。半蔵門線で、本来の目的である青山へ向かう。車中で、古書市での買い物である白井喬二の『神変呉越草子』(番町書房日本伝奇名作全集版)をパラパラ読む。蝦蟇の袋毛で編んだ服を着ているという蝦蟇毛(ガマゲ)仙人なんてキャラクターがいきなり登場する。
「肉眼では見えぬくらいな蝦蟇の袋毛には過去未来千年の気を引く命を持っていると言われている。それゆえ蝦蟇毛仙人の予言は不思議なくらい的中する。その精力非凡渇に及んで忽ち三斗の水を嚥み、気凝って言を予んとするや食わず飲まず三週と江戸奇人伝という本に書いてある」
 などというこのいかにもこの作者らしい、デタラメな衒学と論理性すら無視した文 章の楽しさ。

 青山で野菜類とパンなど買い、タクシーで帰宅。原稿をちょこちょことやる。あくまでちょこちょこ。8時、家を出て神山町『華暦』。昨日、『花菜』の大将に“ウチの店名をときどき間違って日記に書いてる”と言われたが、この華暦とよくゴッチャになるのである。いつもの刺身にふぐチリ鍋、砂肝唐揚げなど。日本酒を熱燗で。昼からこっち、少々腹具合がおかしい。インフルエンザでもあるまいが。夕方、今年初めて麻黄附子細辛湯のみ、寝る前にベンザエースをのんだ。ニュースでスペースシャトル爆発との報あり。イラクや北朝鮮が飛び上がって喜ぶことであろう。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa