25日
月曜日
よこはばたそがれ
あの人は太って太ってしまった。朝7時起床。今日は親父の二七日の法事である。坊さんが昼頃に来るというので、母が朝から客用に弁当を注文したり漬け物を漬けたりと忙しく立ち働いていたら、寺から電話で、(朝の)8時半にいけるようになりましたから、という。それでは客も、店に出なければならない母も、立ち会えないではないか。呆れていた。仕方なく、私が喪主代行をつとめることになる。
朝食、ポテトサラダ、ベーコン、スクランブルド・エッグ、キャベツのゴマドレッシング和えなどを、大きな皿にホンのちょっぴりづつ。豪貴に作ってやった弁当の残りの牛のツクダニをちょっとつまんだら、これがウマい。小皿にあったのを全部食べてしまった。母の料理、親父の看病当時はやはり疲れていたのか、ちょっと塩辛かっ たものだが、最近、旧に復したようで結構。
母が出かけ、星さんと小野寺さんがやってきて、彼女たちと私夫婦で坊さんのお経を聞く。当然のことながら、私が一番前に座り、家長として法事につきあう。父を亡くすということ、個人としては大変に悲しいものだが、これが“家”という単位で考えると、特に私のような長男にとっては、人生スゴロクのコマがひとつ進んだような感じがあるものだなあ、と改めて思う。お経十分ほど。軽いもんだが、お布施とお車代の額(それでもウチなどはまだいい方だろう)考えると、これ以上ていねいには出来ないだろうな。
まだ体がダルい。いろんなクスリのんで抑えているが、どうも葬儀のあたりから続いて風邪ひいているらしい。それが体内にもぐりこんでしまっているのだな。葛根湯のドリンクをのみ、二階でしばらく寝転がる。学生時代の書棚から、岩波文庫のマルクス・アウレリウス『自省録』を何気なしに取り出して読みはじめたら、一瞬にしてグーと寝入ってしまった。目が覚めたら11時。もう母と一緒に坂部のおばさん、ナミ子姉、ノリ子姉など来ている。坊さんが帰ってしまった後なので、どうも間が抜けている法事になる。ウナギ弁当を1時に予約しているので、それを待つ、というカタチになってしまう。法事なのだかなんだかわからない。父や昔のことの想い出ばなし多々。星さんがこの家で祖父、祖母、父の三人を看取ったことなどを話す。不思議に三人とも死の朝は馬鹿に調子がよく、また三度とも、死のとき、私は東京にいて死に目に会えなかった。爺さんのときは死んでいるかどうか確かめるために、鼻の先にちり紙を細く切ったものをブラ下げて、息があるか確かめたという。婆さんのときは手鏡を顔の前にかざして、曇るかどうかを見た。親父のときは、爪のところにはさむと血中酸素量が測れる機械があって、それで調べてみた。次第にやり方が進歩していっているところがなんというか。
東京から持っていったサクランボを食べる。『すがわら』の大将の田舎から毎年送られるもので実に大粒でうまいものであるが、これを持って帰ったら、たまたま家にも山形からサクランボが届いていた。そして、昨日のオタアミでじゃんくまうすさんからサクランボもらい、家にサクランボがあふれる状態となった。旬のものとはいえ集まるときは集まる。岡田美里が堺正章の家のもらいものが大量なのにネをあげたのが離婚原因のひとつ、と会見で言っていて呆れたが、しかし、それが原因というのはヒドいが、落ち込んでいるときにシコシコともらいもの整理を続けていると、確かにメゲるかもしれない。そういう意味で、岡田美里の心理も理解できる。だが、もらいものが大量、という環境は、一般家庭から見ればヤッカミの対象である。そういう話題を茶の間に流れるテレビ相手の会見で持ち出すということ自体、彼女が一般常識をもって家庭を維持していける女性でないことを示している(と、言うより馬鹿)。世間の同情は堺正章に集まるだろう。……ところで親戚諸姉が堺正章のことを“マチャアキ”と表現するのが聞いていてかなり恥ずかしかった。もう彼も54だよ。
親戚たちはウナギ食べて帰った。母が区役所に手続きで行くのを途中までタクシーに便乗させてわれわれも外出。じゃんくまうすさんに行き、K子、喪服を返却。昨日のオタアミ、じゃんくさんは半分もネタがわからなかったと言っていたが、それでも帰宅したとたん、奥さんに“あのね、あのね”と説明して聞かせ、奥さんはまるでわからずに閉口したらしい。わからん人がわからん人に聞かせても。
店の前からタクシー拾い、NTTの札幌支社に行く。家の電話の子機の水銀電池が切れたので取り替えるためだが、支社のデカい建物にはサービスセンターがない。大通の丸井デパートの地下にある、というので、そこまでまた足を延ばし、取り替えてもらう。さらにそこから北大大学院入口前の薫風堂へ。薫風さん、何がウレシイのか私らが入ってから出るまで、ずーっと笑いっぱなしだった。店内で数点、写真を撮影させてもらう。暑中見舞いのハガキ用(暑中見舞いには喪中欠礼ってないのかね)。撮影代の代わりにちょっと多めに本を買わせてもらう。
一旦そこで帰宅、また休む。『自省録』途中放棄して、同じ岩波文庫で竹内義雄訳注『学記/大学』にする。こっちの方はまだナンとか頭に入るが、いずれにしても眠くなる。十代の頃はこういう本をガシガシと読み、理解はできなかったにしろなんとか読了し、次の本に取りかかっていたのだなあ。向学心というより、どんな本でも読み通す時間があったということだろう。大人が学問をしにくいのは、雑用が多くて、 学に熱中することが出来ないからなのだ。
7時、またまたタクシーで北海道庁前、からさわ薬局へ。またクスリを少し買う。ユウコさんも来た。昨日は会場に入ったとたん、いわゆる“オタク臭”に閉口し、しかも自分の席の前に座った男性の頭のフケのすごさが気になって、トークを聞く状態ではなかったという。K子が“あの三人、壇上で「さすが北海道のオタクはさっぱりしている」と言っていたでしょ! 東京や大阪はコンナもんじゃないんだから!”と叱っていた。
今日は母がすすきのにある石崎のしゃぶしゃぶをオゴってくれるという。豪貴がバンザーイと喜んだそうだ。石崎というのは札幌でも古くからあるしゃぶしゃぶ屋で、ベラボウにうまいがまたベラボウに高い。以前、親父がわれわれ兄弟を連れてきてくれたことがあったが、二人がまだ十代のころで、親父も若かったから、三人でイヤ、食べた食べた、五皿くらい食って、女将が“うどんお持ちしましょうか”と言ったとき親父が“いや、もうひと皿肉をください”と、結局六皿(それぞれ三人前)食ったことがあった。あの時代で7万くらいしたと記憶する。親父もその後長いこと“アレは高かった”とボヤいていたが、騎虎の勢いというやつだったのだろう。とにかく、それくらいウマい肉であった。
母、私ら夫婦、豪貴夫婦と今日は五人連れ。私は結婚以来行ってないから、十数年ぶりである。以前はウス汚い座敷しかない店だったが、さすがに改装してキレイな造りになっている(それでも入口やショーケースの薄汚さは相変わらずで、とてもここが札幌一と言われるしゃぶしゃぶ屋とは思えない)。ワインとって、ともあれ、葬儀ごくろうさま、と乾杯。ここは最初、肉をそのままタレにつけて刺身で食べ、その後しゃぶしゃぶとなる。メニューの肉もなかなか高いが、親父が生前、ここでメニューに載ってない、特別の肉を出してもらっていたそうで(そういうことをするから早死にするのである)、それを頼む。さすがに刺身からして濃厚な味。しゃぶしゃぶの肉は霜降りで、しゃぶしゃぶなのにステーキなみの食感がある。確かにウマいことはウマく、初めてここの肉を食べるユウコさんなどは感激していたが、私は一人前食って脂にアタり、いささか腹がゲンナリした(風邪っ気のせいかもしれない)。これを六人前食った往昔が懐かしい。ワインと日本酒、母はウイスキー。話ははずんで、他の客は迷惑したのではあるまいか。なにしろわれわれ親子の会話は、昔、東京の京王プラザホテルに親戚の結婚式で投宿したとき、部屋に来る客来る客が、“声をたよりに来れば案内板みなくてもここの部屋だとわかった”と言ったくらいのケタタマシサを有するのである。
結局、ここのお値段、5人で8万9000円。ワインがちょっと高かったので、肉はそれほど食ってない。それにしてもなかなか廉ならざる価格である。ここがいつ来ても満員的状況というのは、不景気な今日び、奇跡に近い。その後、母の学生時代の友人がやっているバーに行き、カラオケ。母はママと父の(ややこしいな)想い出ばなしで泣いたり笑ったり、ドラ嫁たちの悪口を言ったり、大忙し。12時に帰宅。