1日
月曜日
一年の計はガンダムにあり
タイトルに意味はない。朝7時半起き。テレビをつけると、大助花子が漫才をやっている。諸君はですな、テレビに大助花子がしゃべっている、という21世紀初日を想像し得たですかな。8時、なをき夫婦と連れ立って朝食バイキング。郷土料理レストランにて。K子がこのホテルを選んだときの理由のひとつが、“老舗のホテルの元旦の朝食というのを食べてみたい”ということだったが、バイキングはいつもの通りで、正月だからということも老舗だからということもなし。苦笑しながらガンモドキの煮たのだとかキンピラゴボウだとかでメシを食う。
10時、タクシーに四人乗り合い、家へ。親父の顔を見て、二人で風呂に入れる。そのあと、母の手作りおせちでとりあえず乾杯。もう二十年以上おせちを買ってきたフジヤサンタスホテルが閉店して、今年は母の手作りおせちだが、エビ、きんとん、黒豆、煮物、ローストビーフと、さすがに“私の作る方がずっとおいしいわよ”と自慢するだけのことはある。サンタスホテルの経営者夫妻、ずっと赤字でやってきた苦労から解放されたとたん、長年の持病のアレルギーが治ってしまったとか。ストレスというものの恐ろしさ。
雑煮を食い、カズノコを肴に日本酒二合ほど飲んでいいコンコロモチ(古いね)になり、巻頭言のみUPして二階でゴロリと横になる。寝正月である。外は吹雪、というほどでもないが粉雪が風にヒュウヒュウと舞い、北海道の正月、という感じ。初詣などには生まれてこの方行ったことがないので関係なし。子供のころから、外へ出るよりは家にこもって本など読んでいる方が好きな子供であった。現在の私の方がずっとソトデはしていると思う。渋谷さん(薬局の番頭さん)夫妻が年賀にくる。彼も私が小学生の頃からの従業員だったが、今年限りで定年し、店を去る。歳々年々人同ジカラズ。夫妻に恒例であげるお年玉の袋がないとて、おふくろの命令で近くのコンビニに行く。ついでに、と雑貨を買って帰るが、おふくろが私の帰りが遅い々々とイラつきイラち、文句をずーっとタレ続けていた、となをきが苦笑しながら報告した。これは年々歳々、人相似タリ。
2時くらいに豪貴夫婦がやってきて、また酒を飲み、また酔っ払って横になる。こんな怠惰をして罪悪感を感じないのは正月だけだろう。酔ったアタマで現在の状況をぼんやりと考える。今年一年は新連載、書き下ろしなど、すでに決定しているもの、予定が入っているものだけでほぼ、一年のスケジュールが埋まっている。ちょっと大きなプロジェクトの話も進行しかけている。この不況下、モノカキとしては冥利に尽きると言っていいだろうが、ただ眼前の仕事を片付けるだけで過ごしていては、成すことのない一年になってしまう。うかうか三十きょろきょろ四十。忙しさに満足しているべきではない。派手にケンカもすべきだし、理不尽な言動も大いに行使すべし、と自らを鼓舞する。もともとをたどれば、文壇に名を成す野望もなければ、燕雀焉んぞと気張ってみせるほどの志もさらにない、好きな古本を好きなだけ読んで、女房と毎晩二合半の酒をひとのワルクチを肴に飲めれば天下太平の、人畜無害な男だったはずだ。それがこうなってしまったのは、今の世の中、そんなささやかな願望を果たすだけでも、えらい努力が必要ということなんだろう。
井上のナミ子ネエさん、今日まで東京で、坂部の伯母を伴って5時くらいに来る予定がこの雪で飛行機の到着が遅れ、7時ごろになる。これにも母、みんながおなかすかせているのに、とイラついている。よくまあそういろいろ気にできるものである。さて、毎年K子は正月にはいろんなコスプレでゴキゲンをうかがう(笑)のが恒例であり、これまでチベットの民族衣装だの60年代おサイケふうだの、伊賀の里の忍者スタイルだのでやってきたが、今年は忙しくて凝った準備ができず、ハンズで獅子舞の(!)コスチュームを買ってきた。で、その扮装で、居間から見えないところに隠れようと、病人のベッドがある座敷の障子の裏に潜んでいた。ところが、これはまずい隠れ場所で、客たちは来ればまず、親父の顔を見ようと座敷に上がってくるのである。すみっこの方に丸まって、フロシキ包みが置いてあるフリをし、その前になをきや私らが立って、出来るだけ覆い隠すようにする。それがまた、やっと居間に帰ったと思うとお年玉だ、また帰ると贈り物だ、と、なんべんも出たり入ったりし、そのたびに私たちもあわてて座敷に戻って、人垣を作る。コントのようである。無事、隠しおおせて、タイコ叩いて獅子舞踊り。まず、喝采を受けて目出度し・・・・・・って、いいトシをしてナニをやっておるのか。
あとは大御馳走大会。なんとかという市場で仕入れたという、差し渡し2メートルほどはあるという大タラバガニ、おこげ料理など。シャンパン、ビール、老酒と飲み明かし、さまざまな話題で盛り上がる。K子は獅子舞のフロシキ模様の衣装のまま食べているので、なをき曰く“とり・みきみたいだ”。おふくろも料理作りながら通常人の一・五割増しでしゃべるが、なをきと二人、ややホッとしたのは、“パパが死んだら”というような言葉が二度ほど、彼女の口から出たこと。もちろん、まだまだ母の、涙ぐましい献身的努力は続くだろうし、親父にもよくなってほしいが、いつかはくるその日の先のことも、ちゃんと視野に入っているなら、看病疲れでそのままぐったり、ということもないだろうと思う。われわれにとって恐ろしいのはそれである。渋谷か赤坂のはじっこあたりで、小料理屋をやりたいんだそうだ。なをきは家を建てたが、私は持家というのは持たない主義なので、その代わり、母に店を持たせてやるべく金を貯めるか。
なをきとはまた業界のウワサばなし。某社のこととか某社のこととか聞いて、腹を抱えて笑う。メール確認してみたら、緊急連絡あり、暮れに世田谷で一家四人惨殺された被害者、アニドウ時代に顔見知りだった人物ではないか、という。ちょっと驚いた。11時過ぎ、タクシーでホテルに帰り、またビール飲んで寝る。