31日
木曜日
紅白実現党
仏陀の力で矢沢を呼びます!
※大掃除
朝9時起床。
疲れが残ってはいるが目覚めはいい。
麻衣夢から昨日一週間遅れのクリスマスプレゼントで
貰ったバウムクーヘンとコーヒー、コーンスープで
朝食。その後入浴、洗顔、服薬等。
さて、今日はまず掃除だな、と思いつつダラダラ。
コミケのない久しぶりの年末を満喫。
あれも義務のように案外プレッシャーになっている。
もちろん、無ければ困るし寂しいものではあるのだが。
年の瀬になると誰か彼かの訃報が飛び込んでくる、
といったイメージがあるのだが、“ドクター・デス”
スティーブ・ウイリアムス30日に死去、49歳とやら。
三沢光晴の最強のライバルだった。
リングの上では猪木さえ失神させた無法者だったが、“実はいい
ヤツ”とずっと言われてきた。実はいいヤツというのが悪口に
使われるのは彼と村崎百郎くらいではないか。
いいヤツらしく、好敵手三沢と死去年を共にしたか……。
猪木を失神させたと書いたが、要するに実力はあれども不器用、
という典型的なタイプだった。それで新日では鳴かず飛ばず。
全日に移って開花するという、外人系によくあるタイプ、
というか全日のキャラクター作りのうまさが際立った好例だった。
後に新日のリングで全日本外人レスラー代表として新日の
スコット・ノートンとの試合をした後のコメントも、実にもう、
いいヤツで。
http://www.njpw.co.jp/result/2000/1009/100900_02.html
バックドロップの迫力はまさに殺人的。
格闘技になってしまう以前の、プロレスらしいプロレスの最後の
輝きを代表するレスラーの一人だったろう。
とはいえ、肉体を痛めつけて仕事をするレスラーの陥る罠としての
鎮痛剤、ハルシオンなど向精神薬などの常用が次第に問題視され、
さらには喉頭ガンに罹病。それでも晩年までコーチ業などで
プロレスと関わり続けていけたのは、リングを降りての彼がいかに
“いい人”だったか、の証だと思う。
いい人ほど早く逝く。
90年代、プロレスの消え往く灯を支えてくれた凄いヤツに感謝、黙祷。
午後1時ころになってやっと掃除を始める。
こないだ作った重曹湯豆腐の残りの汁に飯をぶちこみ、
豆乳飯にしてかきこんで、昼代わり。
まず寝室を掃除。
積み上げられている本を取りかたづけ、箱に詰め、衣類を整理。
ゴミが出る出る。仰々しく棚に鎮座ましましている
袋の中身はなんじゃらほい、と見てみたらゴミの袋だったりする
ものもあったりして。
トイレに積み上げてある本も整理。
いろいろ思惑あって読んだ本もあり、暇つぶしに何十回となく
目を通したものもあり。
これが終って3時半。さて、と一息ついて、
いよいよ懸案の仕事場。
引っ越しの時の荷物等がそこらにぶちまけられたりしていて、
ハテこれが今日中に片づくか、と思いながらせっせと
ゴミ袋にゴミ類を詰め、ゴミ置き場に持っていく。
外に置きっ放しのゴミ置き場でなくてよかった。
往復すること8回。
さしもカオスだった仕事場も、6時までにはまあ、正月を
迎えられるレベルまでになるのが不思議。
片づいてみると、わがマンションというのは案外広いなあ、と。
8時、母の室へ。紅白もやっているがテレ東の『年忘れにっぽんの歌』
の方が好みなのでそっちに。一節太郎が出ていたのに驚いた。
かなりの年だろうに、と思ったが調べたら1941年生まれだから
まだ68歳。『浪曲子守歌』は1963年のヒットだからこの年
22歳。今の22歳の歌う歌と比してその内容に驚く。
だって“逃げた女房にゃ未練はないが”だよ?
半になって談之助夫妻、二人の子供を連れて来訪、年越しとなる。
エビとホタテの炒め物、ロールキャベツ、イクラと鰻のちらし寿司
など。談志の病状などいろんな話を聞く。子供二人、お呼ばれでもう
興奮のキワミ。
11時半ころお開き。自室に戻り日記つけ、紅白の矢沢永吉など
見る。紅白が60周年、矢沢が今年60歳ということで、
司会の中居が“どうして今年、この紅白に出てくださったんですか?”
と、もちろん同い年なので、という答を期待して質問するが、
“区切りの年に出してもらって光栄です”とか、全然
噛みあわない、というか、噛み合わせる気がないらしい
ところが凄い。歌詞も堂々と間違えて、途中からテロップが
出なくなった。
その後ゆく年くる年見て、あとは酒とDVDで映画三昧。
『ゴジラ』『会議は踊る』『マルクスの二挺拳銃』など、
白黒のものばかり。
さて、年が改まってというより、私の今年は例の企画が通った
ときに改まると言っていいだろうな。