裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

2日

土曜日

天才暴露本

赤塚不二夫のプライベートを書いたのだ!

※アスペクト本コラム原稿 ミリオン出版原作 赤塚不二夫死去

文壇・芸能人バーの夢。
ごく普通の、大きめの一軒家を改造したようなバー。
文壇・芸能人バーといっても、そういう人たちが来る店
なのではなく、新人の作家やミュージシャンがホスト・ホステスを
つとめ、客に自分の新刊や新譜を買わせるシステム。
私はそこの経営者だが、新人の歌手の子のCDが欲しいという
客がいたので、店の奥の物置からそれを取ってこようとするが、
物置部屋から裏廊下にかけて、本やCDの山で、その中から
探すのに大苦労。客はまだですか、と奥にはいってこようと
するが、こんな大ちらかりのところを客に見せられもせず、
あわてまくる。

朝、眠い眠いといいながら寝ていた。
ちょうど母も寝坊して(足が攣って寝られなかった由)、
9時半にこっちが電話をし、10時に朝食。
ナシ、巨峰、コーンスープ。

暑いので冷房(除湿)をつけておくと今度は寒い。
結局仕事にならず。最近は外出も5時を回ってからがほとんど。
台湾のように、これは夜市を設営すべきだと思うな。
午前中は例によってトイレ頻々。

日記つけ、しばらく読書三昧。
暑いこともあり、日中は仕事する気にならず。
昼に弁当を使い(タラコと焼肉)、入浴して、
またベッドに横になって読書。
そうするうち眠くなって、3時くらいまでグーと寝てしまう。
体力回復にはいいかも。

その時の夢。天井も高く面積も広い、超巨大マンションに
住んでいる。ところが、そんな大きな部屋の中で、家具や調度品は
4畳半くらいの広さの一角にまとめて設置してあり、四方にただ
広い空間がある。K子がやってきて、自分の部屋に来いというので
マンションの廊下に出るが、廊下の外には港が広がり、汽船や
ヘリコプターも飛び回る。廊下自体もダムみたいに大きい。
で、K子の部屋に入るが、ここも、やたらだだっぴろいのに
ベッドやソファがひとかたまりになって置かれている。
……誰かヨセフかダニエルみたいな人物が現れて毎日の
夢判断でもしてくれないかと思う。

夕方近く、やっと仕事する気になって、まず
アスペクトビジネス本のコラム1本。
それからサントクに買い物に出る。

帰宅、仕込みをちょっと。
仕込みと言っても大したことではなく、鶏モモ肉をぶつ切りにして
出汁用ガラ(80円)と一緒に、水、酒と共に、ショウガ一片、
ニンニクひとかけ、ネギ、ベイリーフ、粒コショウと共に茹でる。
最初にちょっと丁寧にアクをとったら、仕事にかかり、そのあいだ
時折煮詰まらないよう水を足しながら、ひたすら茹でる。

ミリオン出版原作一本、1時間半でアゲ。
K子、Yくんにメール。
そのあいだずっと茹で続けていたので、トロトロになるくらい
鶏肉が柔らかくなっている。
このブロス(茹で汁)をパックのライスにちょっと振りかけ、
バタひとかけを乗せて電子レンジへ。即席のバタライス。
さらにこのブロス大さじ2、万能ネギと香菜の微塵切り、
唐辛子粉、しょうゆ、ナンプラー、砂糖、茹で汁の中のニンニクを
つぶしたもの、半擂りのゴマ、ライムの絞ったの、ゴマ油を
まぜてタレを、皿にとった肉と、ブロスの中で茹でた野菜類の
上にかける。ライスを添えてエスニック風茹で鶏ライス。

あともう一品、固めの木綿豆腐の上に、皮をとった辛子明太子
に酒少々と薄口のだし醤油、オリーブオイル、微塵切りの万能ネギ
を混ぜて延ばし、豆腐にのっけて上に刻みノリを飾る“明太奴”。
どっちも上出来!

酒を飲み始めて、ネットをちょっと見たら、赤塚不二夫死去の報。
6年間の意識不明の末。出来れば寝たまま、トキワ荘メンバーで
一番長生きしていてほしかったのだが。

あれは小児麻痺のリハビリのマッサージを受けていたころだから
4歳か5歳の頃か。まだ昭和30年代である。
札幌・中の島のマッサージ医院(東京から飛行機で通っている患者もいた
そうだからかなり高名なところだったのだろう)、医院と言っても
普通のしもた屋みたいなところだったが、そこの縁側に、
『少年サンデー』が積んであった。
待ち合わせの間に読んで、“世の中にこんなに面白いものが
あったのか!”と、文字通り心ふるえたのが『おそ松くん』の、
忘れもしない『チビ太の移動歯医者』の巻であった。
わがままを言って持ち帰らせてもらい(たぶん泣いたりわめいたり
したんだと思う)、家で繰り返し読んだ。
何十回も読んだ。読むたびに快感があった。
それほど面白いものに出会ったのは生れて初めてだった、と、
少なくともそのときはそう思った。

それまで、わが家ではマンガに関しては一般の家庭よりは
豊富に与えてもらっていたが、そこは“オトナの”与えるマンガ。
田河水泡の『蛸の八ちゃん』も、前谷惟光の『ロボット三等兵』も
それなりに面白く、大好きだったが、目の前の『おそ松くん』
の前では色あせて、陽の光の前のロウソクでしかなかった。
新時代を背負った天才が緋縅の鎧をまとって華麗に登場した、
そういうイメージがあった。いや、子供心にそんなことが
わかるわけもない。
ただ、そこに“全く新しいギャグが出現した”という事実、
その、これまでのマンガにはなかった完璧な新しさに
打ち震えたのだった。
思えば、その以前に、私の年齢としては珍しく、前時代の
マンガをたくさん読んでいた、ということが、一層その違いを
際立たせていたのではないかと思う。
ギャグの次元が異ったのだった。

天才の登場、という場面はその後も何度も目にしている。
その感動の中で最もあざやかで、かつ“時代”というものの
示現である華やかさをバックにしていたのは、赤塚不二夫の出現であり、
それ以上のものにいまだ出会えていない。

人生の快楽は、天才の生み出した作品を目にすることである。
私は赤塚不二夫によって、その少年期から青春期にかけて、
その快楽を欲しいままにすることが出来た。
感謝と、そして限りなき尊敬の念を捧げさせてもらいたい。

ただ、赤塚不二夫の全盛期というのは、実は意外に短い。
『下落合焼とりムービー』(山本晋也)の中で、プロデューサー
でもある赤塚は右翼の大物の役で出演。船を借りきって盛大な
パーティを開き、最後に“もう死のう”といきなりつぶやき、
船から海へ(本人が)紋付羽織姿でそのまま飛び込む。
思えばあの頃から、なぜかもう赤塚不二夫には死のイメージが
ついて回っていたような気がする。すでにこの映画の公開(1979年)
当時、『がきデカ』(1974年〜)、『マカロニほうれん荘』
(1977年〜)でギャグマンガの地平は大きく変化しており、
赤塚はギャグの神様と奉られてはいたものの、すでに絶頂期は
過ぎて(というか71年の奇跡的な大傑作『レッツラ☆ゴン』発表のあと、
一気に転落して)いた。

『おそ松くん』連載開始のとき、赤塚は28歳。
『天才バカボン』『もーれつア太郎』が32歳のときの作品。
最も長く続いたバカボンの連載終了が76年、41歳のとき。
やりたいことを人生の前半でやり尽くしてしまった人間のアンニュイが、
その後の赤塚不二夫には常につきまとっていた。
そのアンニュイの行き着いた先の長期の意識不明であったような
気がしたのである。
大変につらいが、またホッとしたことも正直なところである。
どうかあちらで、手塚先生やトキワ荘のみんなと再会し、
心ゆくまで飲んでください。

古い時代劇のDVDなどを見散らかして、かなり飲んで
12時には就寝。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa