裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

24日

木曜日

アルヨの出来事

中国人の男女が恋に落ちたアルヨ。

※三才ブックス打ち合せ 『唇からナイフ』鑑賞

朝、9時20分起き。
9時に電話で起こされて、今行く、と答えて
また寝てしまった。
『ブロークバック・マウンテン』のヒース・レジャーが
急死した(22日)が、彼は忙し過ぎて不眠症になりひと晩2時間しか
眠れていなかったそうで、それを考えればいくらでも寝られる
というのはありがたいことなのかもしれない。

空はゆうべの雪と雨がウソのような日本晴れ。
しかし寒そう。
月末のイベント用の資料を作る作業を午前中はずっとやる。
エド・ウッド・ジュニアの最低映画として有名な『プラン9・
フロム・アウタースペース』に出演していたヴァンパイラこと
マイラ・ヌルミが10日、亡くなったそうである。享年86。

ヌルミとは奇妙な姓だが、フィンランド出身。本名はマイラ・
シュラニュエミ。ヌルミの名は、伯父で国際的中距離選手であり、
オリンピックで金メダルを9個も獲得しているパーヴォ・ヌルミ
からとったのだろう。ちなみに、北欧人らしく本来は金髪。
あの、黒髪はチャス・アダムスの漫画『お化け一家』をモチーフに、
自分で考えたイメージなのであった。

モデルをしていた彼女にハワード・ホークスが惚れ込み、その
アンニュイなイメージから第二のローレン・バコールとして
売りだそうとハリウッドに招かれるも、時はすでに映画産業も
斜陽の時代。ホークス監督と言えどなかなか企画が通らず、
じれったくなった彼女は勝手にストリッパーをやったり、
チーズケーキ(エロ本)モデルになったりして稼いでいた。

ホークスが惚れ込むくらいだから、男にとってはたまらない性的
魅力があったらしく、マーロン・ブランド、アンソニー・パーキンス、
そしてジェームズ・ディーンなどと噂になり、ゴシップ誌の
レギュラーでもあった。最終的に結婚したのは、チャップリンの
『偽牧師』などに子役で出演後脚本家に転じたディーン・ライズ
ナー。B級西部劇専門のライターだったが、その時代に知りあった
クリント・イーストウッドと組み、71年に『ダーティハリー』
でブレイクする。もちろん、彼女と離婚した後のことだが。

やがて50年代、完全に娯楽の王者がテレビになると、彼女はその
世界で“怪奇映画劇場の案内役”というポストで人気を得る。
これは日本人にはピンとこないが、アメリカではその名鑑が出ている
ほどポピュラーな、50年代の子供たちの人気職業だった。先に
上げた、黒髪を長く垂らし。眉毛を釣り上げて描き、黒服に身を
包んだエロティックなヴァンパイラはその中でもナンバーワンの
人気を誇り、エミー賞の“最も個性的なテレビパーソナリティ”部門
にノミネートされ、『ライフ』や『ニューズウィーク』誌にインタ
ビューが掲載され、ラスベガスでは舞台で歌って喝采を浴びるなど、
黄金時代を築く。

しかし、その栄華も長くは続かなかった。50年代後半、彼女は
仕事を失い、夫とも離婚した。彼女はまたピンク映画などに
出始めたがやがて引退し、南カリフォルニアに住んだ。そこで、
有名俳優の墓石のコピーをとって売るなどという趣味の悪い商売を
していたようだが、晩年はホラーコンベンションのゲストや、
ヴァンパイラグッズのモデルで忙しかったようだ。

私生活では61年にイタリア系俳優のファブリツィオ・ミオーニと
再婚、彼女の死まで一緒だった。波乱の人生、というか、エンタ
テインメント業界にとり混乱の50年代の象徴みたいな女性だった。
冥福の冥の字がこれほど似合う女優もいまい。願わくは『プラン9』の
ように墓の中からさまよい出ることなく、墓石の下で安寧を得んことを。

昼はシャケとコンニャク、山菜の煮付けとご飯。
うまいうまいと食べているうちに、左奥歯の一部がポロリと
欠けた。3年くらい前に詰め物が取れて、小さい詰め物だったので
放っておいたら、周囲が弱くなっていて、欠けたらしい。
歯医者も久しぶりに通い始めるか。
以前通っていた永福町の歯医者さんはとてもいい治療をしてくれた
先生だったが、今ここから永福町に通うのはちょっと無理かも。

4時、バスで事務所。
寒いことこの上なし。
郵便物チェックして、時間割へ。
三才ブックスTくん打ち合せ。
ラジオライフ連載を単行本にまとめる打ち合せ。
ベギラマのイラストを大きくウリに使おう、と提案。
その後、ちょっと別件の話を長々。

5時過ぎ、終わって店を出ようとしたら、
マスターが言いにくそうに
「センセイ、申し訳ないんですが……」
と。壁の張紙を見たら、
「昭和四十四年から営業して参りましたが、今月末で営業を
終了させていただくことになりました」
と。うわー、チャーリーハウスに続きここもか。
何か、こう立て続けだと、過疎化の進む町に住んでいるかの
ような感じである。
この店に通って10年。
ここで打ち合せをした数限りない編集者さんたち、
テレビやラジオの人たち、役者さん作家さんたちの顔が
陳腐な形容だが走馬灯のように浮かぶ。

帰ったらオノが仕事していたので、時間割閉店の話を聞かせたら
「エエッ〜!」
と絶叫に近い声。
前々から、“あと時間割が無くなったら渋谷にいる意味が
無くなるな”と話していたのである。
これで引っ越しのための精神的準備は整った、ということか。

7時までいろいろとメールその他雑用。
単行本解説用のゲラを読んだり。
7時、事務所を出て、吉野家でちょっと腹をつくって、
山手線で池袋。西武地下で買い物を少し。
それから文芸坐。
ジョゼフ・ロージー『唇からナイフ』(1966)鑑賞のため。
永田支配人が“あれ、カラサワさん”と驚いていた。

実はこの映画、スクリーンで見るのは初めてなのだが、
いや、まことにもって奇々怪々なる作品であった。
60年代のヨーロッパのポップ感覚コメディは『キャンディ』、
『マジック・クリスチャン』、『ヘルプ!』、『カジノロワイヤル』、
『何かいいことないか仔猫チャン?』、『世界殺人公社』など、
ハリウッドカラーとは全く異った映画手法で作られているものが多く
(上記のうちにはハリウッド資本のものもあるが、スタッフや出演者は
多くヨーロッパ系である)、われわれの子供時代にはそういう映画が日本でも
受け入れられていたものだが、その後ヨーロッパ映画が沈滞し、
絶滅してしまった。その後にオトナになり、そういう映画の存在を
全く知らずに育った世代には、愕然としか言いようのない
シュール映画に思えるものが多い。

とにかく、風光明美・雄大なヨーロッパ観光地に大物スターたちが集い、
設定だけで脈絡のない、前後のつながりもよくわからぬストーリィを
マジなんだかジョークなんだかわからぬ演技で、ただし無茶苦茶に
金をかけたおしゃれな服装、屋敷、食事を見せびらかしつつ
優雅に(?)繰り広げる、というのが上記映画の特長である。
話を追おうとか、意味をつかもうとか思って観てはダメなのである。
どこを見るかというと、ひたすら、その映像と、音楽と、衣装や小道具の
おしゃれぶりを見て堪能するのである(伊丹十三はエッセイで、
『何かいいことないか〜』はヨーロッパのおしゃれの教科書として
見る映画、と言い切っている)。その美しさを堪能するためには、
よく練れたストーリィなんてものは邪魔、なんである。

この映画でも、モニカ・ビッティ演じる主人公モデスティ・ブレイズ
(同名マンガの主人公で、この作品はそのマンガの映画化、である
らしい。バルカン半島の動乱の英雄で、現在は地中海の犯罪組織を
一手に率いているほどの大物怪盗という設定)は、とにかく服をよく
着替える(脱ぎもするが)。
ひどいときには、敵の一味に捕らわれる前と捕らわれた後で
着ている服が違ったりする。『旗本退屈男』で、早乙女主水之介の
衣装が敵と斬り結びながら洞窟に入ったときと出てきたときで
変わっていた、という例があるそうだが、それに匹敵する。
いや、“君は昔と感じが変わったな”と男が言ったとたん、
「変わってないわよ」
と、昔の髪形に戻るシーンがあって、これに何か意味(とかリクツ)
とか、説明があるのかと思ったら全くないのに仰天した。
これはさすがの主水之介もやっていまい。
あと、途中でモデスティとその助手のプレイボーイ、ウィリー
(テレンス・スタンプ。佐々木輝之に激似)が突如ミュージカル調で
歌いだすシーンもあり、どこかのサイトでこの映画を
“間接がはずれたような展開”と表現していたが、まさに。

主人公は女怪盗であるから神出鬼没も当然だろうが、彼女に
仕事(政府管理のダイヤの輸送警備)を依頼する英国諜報部の
ボス(名優ハリー・アンドリュースが007チックな秘密兵器を
駆使して怪演)までが神出鬼没、じゃ仕事を他人に依頼する意味
ないじゃないの、と思える。モデスティが対決する敵側の怪盗を
演じるのが何とダーク・ボガード、孤島を基地にして世界を
股にかける大泥棒という設定なのに、妙に神経質で日焼けを恐れて
日傘をさし、やたら食が細いというキャラだったりして、
何とも奇妙キテレツ。さらにその部下のクライブ・レビル(『帝国の
逆襲』の皇帝の声や、『ヘルハウス』の教授役をやった演技派の名優)
は、経理係で、敵と撃ち合いのときですら弾の値段を計算して
帳簿につけているというヘンな役。まあ、クライブ・レビルが
ヘンな役なのはいつものことだが。

一応、主人公のモニカ・ヴィッティとサディスティックな敵の女幹部
ロッセーラ・ファルクとのキャットファイトや、秘密兵器を使った
ダイヤ強奪シーンなどもあるのだが、まったくそこを見せ場に
しようと思っていない(と、いうか見せ場という意識があるかどうか)
投げやりさである。モデスティが押さえ込まれ、首を絞められかける。
モデスティは一瞬の隙をつき、島の崖に船から荷物を上げ下ろしする
滑車のロープを相手の首に巻き付ける。ロープの先の鉄の箱が海に落ち、
滑車が回って、女幹部は釣り上げられ、絶命する……。
というシーン、007のようなアクション映画なら、その一瞬の
逆転と、高く釣り上げられる女幹部の断末魔を派手に撮って、
観客の興奮をねらうだろうが、ロージー監督はそんなもの興味がない、
とばかりに極めてあっさりとそこは片づける。それなのに、
絞首刑のように滑車台にぶら下がった死体が、ダーク・ボガードの
日傘の開閉に従い、見えたり見えなかったり、という“絵”に
こだわって、しつこくそこを撮るのである。
これで、この監督が“何を撮りたがっているのか”がよくわかる。

この映画を紹介したサイトの鑑賞コメントに
「完全な失敗作」
「つまらなく古臭くセンスが無い」
などという評が多く書き込まれているのも、ある意味仕方がないと
思う。これをアクション映画として見れば確かにそうなのだ。
しかし、映画の歴史の中で、こういう映画が流行っていた一時期が
確かにあったのである。第二次大戦が終わり、没落が始まった
ヨーロッパの、ロウソクの火が消える前の最後の自虐的な気取りと、
冷戦時代の緊張と不安を、それをマンガにして笑い飛ばすことで
一時でも忘れようという逃避、長い歴史を持った国ならではの
二回転半のひねくれ……。これは、今の映画ではない、その当時の
映画の文法で鑑賞しないといけない作品なんである。

思うのだがこれらヨーロッパ・ポップ映画というのは“蕩尽”の
魅力のような気がする。貴族趣味的な、金をかけるなら意味のない
ことにかけないと粋じゃない、というような。
そういう精神が底辺に確かにある。
ハリウッド映画はこれに比べると、どんなに金をかけていてもやはり
“金もうけ”のための映画なんである。

終わって出ようとしたら、マイミクのMさんがいた。
「なんでフツーに鑑賞してんですか」
と言われる。いやあ、凄い映画だったねえ、と語りながら駅まで。
「どこが『唇からナイフ』なんですかねえ」
「このタイトルつけた輸入会社の担当、天才ですね」
「この映画は忘れられても、タイトルだけはいまだにオマージュされて
いるからね」
とかなんとか。
http://jp.youtube.com/watch?v=VhVYH2CJnNM&NR=1
↑予告編。当然ながらサントラ、買ってしまったよ。

http://jp.youtube.com/watch?v=X1aoYi4mY7A

↑いいかげんなミュージカルシーン。

丸ノ内線で帰宅。
家で講談社現代新書『東京裁判』読みながら、酒。
西武で買った肉団子、パスタサラダなどでワインとホッピー。
なんと2時半まで起きていた。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa