裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

25日

月曜日

NASDA、JAXAも彼岸まで

ロケット打ち上げで騒いでいてもやがて人々の関心が薄れて日常に帰る、ということわざ。

朝方、雑誌の企画を立てている夢を見る。雑誌の名前が『奇夢(きむ)』で、“悪夢専門誌”。小説、コラム、評論、マンガと、全部執筆者が本当に見た夢に関連させたものになっている。季刊、年4回発行。目が覚めてからも、何かオモシロそうだな、と気に入ってニヤニヤする。

朝7時起床、朝食は母が今日から出かけているので自室でフラットのパン、スイカ。たまった日記つけ。この数回、さんなみ旅行の際は数日間の日記をつけるのが荷でとばしていた。今回はサクサクとつけられる。長い日記を書くのに慣れたせいか。

オタク清談のゲラチェックやって返送。メールいろいろ。携帯が切れかけているので充電しようと思ったが充電器をカバンに入れて能登から送ってしまっていた。

1時、家を出て参宮橋でノリミソラーメン。ひさしぶりにこの店、新人が入った。事務所で打ち合わせ用の参考資料を持って、2時時間割。タカラトミー打ち合わせ。携帯に電話があり、ちょっと遅れるとのこと。携帯の充電残量メーターが赤になっているのでドキドキ。

打ち合わせ、内容の詰めと契約の件、それからプロモの件。いずれもこちらの希望に添う形でまとめられそうでホッとする。と、いうか、他の懸案にうまくからめられそうなのでちょっと期待が持てる。

事務所に帰ったら、バッグが能登から届いていた。やれありがたしと早速充電。ネットメール、マイミクの小梅さんから秋山呆榮(芳英)氏死去していたと報さる。73歳。梅田佳声と並ぶ現役紙芝居師の雄であった。

梅田佳声に『猫三味線』があれば、秋山呆榮に『少女椿』あり。突然蒸発してしまった父を追って街をさまよううち、人買いにさらわれて少女歌手として売られる主人公、みどりの運命は……? という現代物(戦後の)紙芝居の代表作。丸尾末広の同名漫画(この紙芝居からのインスパイア作品)があるので、それ関係のイベントでよくかけられていた。こちらも通し公演で2時間以上かかる大作だったが、演ずる前に必ず“紙芝居の通し公演というのは、梅田佳声さんが始められた方式で……”と断りを入れるのが、教育紙芝居師出身らしい義理堅い性格を現していた。

教育紙芝居の方面出ではあるが、松田春翠氏の話術研究会仕込みか、映画ものも得意で、時代劇マンガ誌にも採録されていた『丹下左膳』など、グロとナンセンスが共存した、いかにも紙芝居的な荒唐無稽な内容をストレートに“成立させてしまう”話芸に、これはまた佳声先生とも違う別個の芸だわい、と感服したことを覚えている(梅田佳声の場合は、街頭紙芝居とは出自が異なるため、そういう話の破綻を破綻と認めてツッコミを入れながら進行させる、つまりは“と学会”的な芸なのである)。

最後に『少女椿』の通しをやった2003年には、大病を経験されて、やせ細っておられたがお元気だった。翌04年にはもう体調を崩されて、長い公演などはやっておられなかったようだったから、あれは貴重なものを見たのだな、と思う。

思えば私が学生時代に師事した杉本五郎は松田春翠氏とはフィルム・コレクター同士で犬猿の仲。それがなければきっと私も氏の主宰していた話術研究会“蛙の会”などに参加して、呆榮先生とももっと親しくおつきあいしていたかもしれない。運命としてスレ違っていた。
私は自分の梅田佳声との出会いとその後の親交、DVDの企画の完成を運命の与えてくれた果報と思っているが、一方で、深く関われなかった別の名人たちの、失われてすでに取り返せない多くの名演のことも想う。

もう少し氏の芸も聞いて記録に残しておきたかった、と悔やまれる。氏には私の知人がついて、雑誌への紹介などをやっていたようだったが、公演の映像、音声記録などをきちんと録っていたのだろうか。

訃報、さらに大物、丹波哲郎氏死去の報。明日死能(あしたしのう)なんて言うキャラを演じていたわりには長命で、84歳。年齢に不足はないし、なにより自身が霊の存在を信じきっていたのだから大往生であったろう。

若い頃、私の父は、まだ映画スターになる前の丹波哲郎にオーバーを売っている。友人が丹羽氏の知り合いだったそうで、
「知り合いの役者が面接に行くときに来ていくオーバーがないと言ってる。売ってくれないか」
と頼まれて、安く譲ったそうだ。ひょっとして、彼が新東宝の俳優になるとき、着ていったオーバーは私の父のものだったかもしれない。

仕事が嫌いで、この人のマネージャーは仕事をとってくるとクビになったというが、しかし出演作品数はたぶん、主役クラスの俳優としては日本一だろう。戸田城聖を演じた『人間革命』が封切られたとき、隣の映画館でかかっていたポルノ映画『色悪魔』にも出ていたというから凄い。まあ、助監督時代からのつきあいだった降旗康男が監督だったからだそうだが。後に彼が心霊に傾斜していくのも、この『人間革命』で自ら“戸田城聖が自分の体に入ってきた”と言うほどの神懸かり的名演を見せたからだと思うが、この映画、見る機会もないではなかったがやはりバックがバックなだけに見逃してしまっている。惜しいことをしたものだと思っている。

それを観ていないので明確には言えないが、丹波氏の出演作から一本、というと難しいが、珍しく彼が“カリスマを演じていない”深作欣二『軍旗はためく下に』が印象に残っている。大戦中に上官殺害で軍事裁判にかけられ死刑となった男の役。上官はすでに精神異常を来しており、彼を殺さねば自分たち全員が死ぬ、という判断でのものだったが軍規は軍規として、死刑を宣告させられる。米の飯を要求し、日本のある方角を遥拝したあと、最後の最後に惑乱し、“天皇陛下……”と言いかけて銃で後頭部を撃たれて絶命する。

妻(左幸子)がその最期の模様を聞いて
「天皇陛下万歳、と言おうとしたんでしょうか」
と言うと、戦友は
「いや、そうじゃない……むしろ何かを天皇に訴えようとするようだった」
と述懐する。日ごろの丹波哲郎らしくない役だが、製作費もほとんどないこの映画への出演を、深作欣二は麻雀の負けを帳消しにしてやるという条件で承諾させたようである。『トラ! トラ! トラ!』を撮りながら、こういう反戦思想映画を撮った深作監督も凄いが、こんな役をやった二十年後、つらりとして『大日本帝国』で東條英機役を堂々と演じるところが丹波哲郎の融通無碍なところである。

気圧が夜にかけて乱れがち。鬱散じのためにオノとバーバラを誘って夕飯。『二合目』で豆腐料理。バーバラの誕生祝いも兼ねて。それを言ったら二枚目のマスターがお祝いということで一品を無料にしてくれた。いろいろと雑談して、9時半、帰宅。タクシーが成子坂のところを通る際に、丹波哲郎氏の所有していた丹波マンションが見える。ロビーに花でも飾られているのだろうか。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa